goo blog サービス終了のお知らせ 

楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

恵みの雨

2023年01月19日 04時41分24秒 | 日記
1/16 東京地方には22日ぶりの雨が降った。
毎日が乾燥していて、
手や足にひび割れが出来そうになっていて、
久方の雨で少し緩和した。

毎日散歩する公園では、すれ違う人もなく、
しとしと降る雨を楽しんだ。

どうぞミュージカルをお楽しみください。

ミュージカル『SINGIN’IN THE RAIN〜雨に唄えば〜』2022 PV  

東京地方に雨が降らなかった過去最高記録は、
22日だそうで、今回はそれに次ぐ21日であった。

快晴の青空が3週間続いて、
洗濯物干しには この上なく良くて、
カミさんは上機嫌で、
その恩恵をボクはたっぷり受けた。

どんな恩恵?
さあ?、ご想像にお任せします。




コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間(あい)の宿 (旧中山道の板橋宿を過ぎて雑感3)

2023年01月17日 05時37分34秒 | ひとり歩き旅
清水坂を下りきると、
旧中山道は右に折れる。

(清水坂の終わり)

右折すると、古いが年季の入ったケヤキが、
眼に飛び込んでくる。


(年季のケヤキ)

(年季の入ったケヤキの木)

(幹のねじれ)

幹のねじれ具合から、風雨に耐えたという感じが良く出ている。
このケヤキの木の真向かいに間の宿はありました。
間(あい)の宿場の目印になった木です。
一里塚から、僅か500mほど清水坂を下りきった所右側に、
この間(あい)の宿場はある。


〈間(あい)の宿場跡〉

(間の宿を奥から見ると)

そもそも中山道は
日本橋を出発して最初に板橋宿、次が蕨宿である。
板橋宿から蕨宿までは、およそ10kmあるのに、
どうして板橋宿から2kmくらいの所に、
中間地点を意味する間(あい)の宿があったのだろう。
私たち誰しもが不思議に思います。

ところが江戸時代の人達には決して不思議ではなかったのです。
それは4kmほど先に荒川があり「戸田の渡し」がありました。


(「戸田の渡し場」の浮世絵)

荒川は文字が表すように水流が定まらない荒れた川でした。
川は曲がりくねっていて、増水すると堤防をものともせず、
氾濫しました。
普段は100mほどの川幅も増水し氾濫すると、
川幅が4kmを越していました。
そして水流は、高さ30mある崖にたどり着いたのです。

つまり「間(あい)の宿」があるここまで川は溢れてきたのです。
増水すると、旅人はここで足止めされました。
4kmの渡し船もありましたが、
渡し賃が高く二の足を踏んでいたのです。

この間の宿の茶屋を営んでいた方の家がこの宿の手前にあります


(自動車の入っている家です)

何代目か知りませんが、江戸時代から続く梅田さんです。
ご当主は年配の方でいつも隣の道路を掃除されていました。

(「板橋宿を過ぎて雑感」おわり)



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水坂(旧中山道の板橋宿を過ぎて雑感2)

2023年01月14日 05時51分13秒 | ひとり歩き旅
交番の左側の道が旧中山道。
ここから現在の道路はなだらかに下っておりますが、

ここを清水坂と言います。

(清水坂とその石標)

中山道が出来た当時 清水坂は、
日本橋を出発して最初の難関道路だったようです。
今はなだらかですが、
実際には、階段を作ると60段程に、
高さ約30m以上の崖だったのです。

(60段の階段がある崖)

東京はその昔、富士山が大爆発したときに、
火山灰が偏西風に乗って大量に降り積もりました。
古文書によりますと、一週間も降り積もったようで、
灰に埋もれて亡くなった方の慰霊碑が残っているくらいです。
そして流れる一級河川の荒川が、氾濫を繰り返し、
この灰を削り流したために崖線が出来ています。


(富士山の火山灰に埋もれた人の慰霊碑)

30mの高さにまで、富士山の火山灰が降り積もる、
皆さんは、少し不思議に思われるに違いありません。
しかし事実なのです。
崖を掘削して、なだらかな道路にして、
今の中山道(国道17号)の車道はあります。

同じように、生活道路もなだらかにしました。
なだらかになった道路脇の崖の下部に、
荒川が上流から運んできた丸い石の層があります。
子供たちがその丸い石を競って採集し、
崖の下部層を掘り進んだと、想像してください。
やがて石を採集するために穴を掘り、
体が崖下に隠れるほどになって、
急に崖の穴が崩れ、子供は埋もれて亡くなりました。
その慰霊塔も残っています。


(慰霊碑)


(崖の下にある慰霊碑)


(降り積もってできた火山灰の厚みが解る崖の下にある慰霊碑)

関東は大きな河川が上流から流れて
扇状の広がっていたと思われます。
そこは砂利がくまなく敷き詰められていたでしょう。
その上に富士山の火山灰が降り積もったのです。

話を元に戻します。
清水坂を進むと、左手民家前に古い庚申塔が見えます。


(道路に挟まれた民家の前に見える庚申塔)


(庚申塔)

この庚申塔の左側に富士・大山道の道標があります。
板橋区教育委員会の下記説明文をご覧ください。


(富士・大山道の説明文)

板橋区の教育委員会の説明文にあるように、
また上の写真で見るように、
この家を挟んで右は中山道、左は富士・大山道だったのです。

しかしここでは中山道を進むと、
清水坂は途中で左に折れるのですが、
昔は、折れ曲がるのが、一度や二度でなく、
下り坂道は、つづら折れになっていたと思われます。
なぜならば、この坂道が中山道で唯一、
富士山が右側に見えた場所であったからです。

(左に折れる中山道)

もともと中山道は日本橋から北上して、
高崎あたりで西方に向かう道路で、
富士山の北側を通過していましたので、
中山道はこの清水坂を除いて、
すべての中山道から富士山が左側に見えているのです。

ところがこの清水坂は下りが険しくて、
崖をつづら折りに降りたので、
道路の一部が西方でなく南南西に向かっていたために、
富士山が右側に見えていたのです。

その右側に見える道路は、
現在の左折する道路の中間に右側から出てくる道路、
これがつづら折れの旧中山道であった。
これなら富士山は右側に見える。


(左へ折れる道路の中間に右から出てくる道が、旧中山道。)

右から出てきた道路(旧中山道)に立つと、
富士山は右側に見える筈である。
(今は家屋が立ち並び見えないが)


(旧中山道に立ってみると右富士が見えるはず)

上の写真の中央に見えるカーブミラーの
右側に見える白い建物の向こう側に富士山はあるが、
建物で遮られて見ることが出来ない。



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝日

2023年01月12日 05時41分38秒 | ひとり歩き旅
1/9は成人の日で祝日。

最近、祝日に国旗を掲揚する光景を目にしなくなった。
ただお休みで喜んでいるだけ。

情けない国民だ。

それが商店街の方たちなんだろうが、
気を配って、国旗を出されたようだ。
通りに何枚も掲げてある景色に、

思わずカメラのシャッターを切った。


成人の日だって昔は1/15だったのが、
誰かさんの提案で、
「祝日が日曜と重なり連休になると、
経済効果が上がる」
と言ったので、時の総理が採用して、
日曜日と重なるように何日かの祝日を設定しなおした。

それで連休の方が強調され、
「国民の祝日」の意味が薄れていったし、
国民の祝日が何の祝日なのか、
解らない人が多くなったと思う。

1/9日だって振袖の女性の姿を見なければ、
成人の日だなんて思い出しさえしない。

それでかどうか知らないが、
国旗を掲揚する人が少なくなった。
嘆かわしいことだ・・・・


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一里塚 (旧中山道の板橋宿を過ぎて雑感1)

2023年01月11日 04時20分06秒 | ひとり歩き旅
旧中山道の板橋宿近くに住んでいる身には、

街道筋の変化が気になります。
旧中山道を日本橋をスタートして、
一番目の宿場が板橋宿です。

そしておよそ4km毎に、
距離の目安として建てられた一里塚が、
街道の両脇に建てられました。

その板橋宿の上宿を過ぎて、
旧街道が現在の中山道(通称国道17号)に
合流して約1.5kmの所に、
都内で唯一残る1里塚(志村坂上の信号の一つ手前)があります。
日本橋から3番目の一里塚です。



道路が拡幅された両脇に昔の位置のまま残っております。
塚の上の中央に植えられた木は榎(えのき)です。

こうした一里塚は距離の目安として重宝されました。
駕籠かきや人力車の料金は、
この一里塚が目安で決められていたと言います。

さて、旧中山道は現在の国道17号志村坂上交差点で
左に入っていきます。

(志村坂上の交差点)

右上でなく、中央に見える信号の下が分かれ道で、
左がわが旧中山道で右側が国道17号。
この間に挟まれて交番がありますので解りやすいと思います。

ここから旧中山道最初の難所 清水坂に入ります。

今は切り開かれて坂道になっていますが、
江戸時代は断崖絶壁だったのです。

つづく



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Potora!  NTTグループ運営!