清水坂を下りきると、
旧中山道は右に折れる。
(清水坂の終わり)
右折すると、古いが年季の入ったケヤキが、
眼に飛び込んでくる。
(年季のケヤキ)
(年季の入ったケヤキの木)
(幹のねじれ)
幹のねじれ具合から、風雨に耐えたという感じが良く出ている。
このケヤキの木の真向かいに間の宿はありました。
間(あい)の宿場の目印になった木です。
一里塚から、僅か500mほど清水坂を下りきった所右側に、
この間(あい)の宿場はある。
〈間(あい)の宿場跡〉
(間の宿を奥から見ると)
そもそも中山道は
日本橋を出発して最初に板橋宿、次が蕨宿である。
板橋宿から蕨宿までは、およそ10kmあるのに、
どうして板橋宿から2kmくらいの所に、
中間地点を意味する間(あい)の宿があったのだろう。
私たち誰しもが不思議に思います。
ところが江戸時代の人達には決して不思議ではなかったのです。
それは4kmほど先に荒川があり「戸田の渡し」がありました。
(「戸田の渡し場」の浮世絵)
荒川は文字が表すように水流が定まらない荒れた川でした。
川は曲がりくねっていて、増水すると堤防をものともせず、
氾濫しました。
普段は100mほどの川幅も増水し氾濫すると、
川幅が4kmを越していました。
そして水流は、高さ30mある崖にたどり着いたのです。
つまり「間(あい)の宿」があるここまで川は溢れてきたのです。
増水すると、旅人はここで足止めされました。
4kmの渡し船もありましたが、
渡し賃が高く二の足を踏んでいたのです。
この間の宿の茶屋を営んでいた方の家がこの宿の手前にあります。
(自動車の入っている家です)
何代目か知りませんが、江戸時代から続く梅田さんです。
ご当主は年配の方でいつも隣の道路を掃除されていました。
(「板橋宿を過ぎて雑感」おわり)