ひーさんの散歩道

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政宗の愛馬/後藤黒(五島黒)

2012年06月07日 07時28分41秒 | 仙台藩と伊達家のお話し
書かなければと思いながら何年も経ってしまいました。
伊達政宗の愛馬が後藤黒という名前であることは、数十年前から知っていたのですが、記憶の中では、小牛田の家臣である後藤家から献上された馬でその逸話についてはほぼ覚えています。

そこで、ネットで検索するとやはり普通に知られているだけの話でした。
後藤家が小牛田である文章は無く、私の記憶と同じ記事は見つかりませんでした。
そこで、この家臣と馬の存在について調べてみました。

まず、一般的に見られる話を記載します。


●政宗の愛馬は、その名を「後藤黒」といった。
名のとおり、美しい黒い毛並みの馬であった。
戦のたび、後藤黒は政宗を乗せ、数々の戦場を駆け巡った。
「後藤黒の馬首が向かう所、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る」と言われた。
後藤黒にまたがる政宗は、伊達軍のシンボルであった。
しかし、その後藤黒も歳を取り、大阪の陣では連れて行くことをあきらめ、厩舎に残していった。
主人においていかれ、後藤黒は酷く寂しい様であった。
そしてある日厩舎を抜け出し、城の崖から飛び降り、死んだ。
政宗と共に戦場にいけなくなったことを悲しんで死んだのだ。と、言われた。
政宗は後藤黒が飛び降りた天守台の麓にその墓を建て、深くその霊を弔ったという。

●伊達家に新蔵という馬を育てる名人がいた。
新蔵は愛馬の中で特に優れた名馬を伊達政宗に献上した。
その馬は新蔵が後藤家に所属していたのと毛色が黒かったため『後藤黒』という名が付けられた。
政宗は後藤黒をことのほか気に入り戦いの度に必ず乗用。
「馬首が向かう所戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る」と言われた。
しかし大坂の陣の時はすでに老齢だったため、政宗は厩舎に残して出陣した。
後藤黒はこれを悲しみ自ら天主台の崖から飛び降り自殺をした。
政宗は後藤黒のために天主台の麓に墓を建てその霊を弔っている。
毎年3月15日には後藤家の人間が後藤黒を弔ったそうです。今は墓の場所が変わって良覚院というお寺に移されているそうです。


ここに出てくる大坂の陣は、大坂冬の陣です。
後藤家から献上された黒毛の馬であることは間違いないでしょう。
天守台の麓に墓を建て後藤黒の霊を弔い後に良覚院に移した。とありますが、良覚院は明治五年の太政官布達によって修験道が廃止されたため良覚院は廃寺となっています。
そこまでは調べてないようですね。
後藤黒と表記していますが、「五島黒」とする表記もあります。

それでは、良覚院について追ってみましょう。

http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E140.52.14.631N38.15.17.611&ZM=12

良覚院のあった場所は公園になっています。(良覚院丁公園)


その横に、後藤黒(五島黒)を祀った神社があります。

馬上蠣崎神社 うばがみかきざきじんじゃ



この神社の由来をご紹介しましょう。


■藩祖政宗公に功臣後藤信康が献じた五島という愛馬があった。
年老いて慶長十九年(1614)十月公の大坂出陣に洩れた事を悲しみ本丸の崖から飛下り死亡した。
依ってその地蛎崎に葬り馬上蛎崎神社を建てゝ祀り追廻馬場の守護とした。
明治四年片平町の良覚院跡に移して社殿成り桜田如水を宮司として市民の間に五島墓(ごとはか)さんと称して親しまれた。
古来旧三月十五日草餅を笹に付けて門口に挿し病送りとする梅若のコトの日を祭日としたが後ち八月一日二日に改めた。
子どもの馬脾風(ばひふ)〔ジフテリア〕除けの信仰があり胡桃を奉納する。

神社の紹介は、後ほどさせていただきます。

さて、ここで後藤信康の名前が出てきましたね。
勿論、後藤黒を献上した家臣です。

後藤信康

戦国時代から江戸時代の武将で伊達輝宗から政宗に仕えた家臣です。

弘治2年(1556年)生まれ
天正13年(1585年)5月、政宗が蘆名氏との同盟を破棄して会津に侵攻(関柴合戦)。
この時、政宗より耶麻郡桧原城主に任ぜられて以後4年間同地の守備に就いた。
この間には、正室愛姫より慰労の品として打掛を賜った。
天正17年(1589年)政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を破って会津を攻略すると、耶麻郡北方城主となる。
天正19年(1591年)政宗が前年の奥州仕置で耶麻郡を没収されたため、亘理郡坂元城主に異動となる。
文禄元年(1592年)朝鮮出兵にて政宗に従って渡海した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは白石城攻略戦で活躍し、同年栗原郡宮沢城主となる。
慶長7年(1602年)には桃生郡大森城主となって2,500石を知行した。

慶長10年(1605年)に政宗の勘気を蒙り突如として改易される。
改易の理由として、軍法違反を犯した(葛西大崎一揆の際の宮崎城攻めでの抜け駆け)ためであるという説が有るが、これは十年以上も前のことである上に、この話自体に他の史料的な裏付けが無いことから、『小牛田町史』ではこの説を否定している。信康の最期に関する説話が多く生み出された背景には、この一件の原因がはっきりしないところにあるとも考えられる。
慶長16年(1611年)にようやく赦免されて復帰し、江刺郡三照に500石を与えられた。
慶長19年(1614年)8月8日、死去。享年59。嫡男・近元が家督を相続した。

                                       wikipediaから引用

こんな逸話があります。
桧原城主であった時、政宗に対してあまりに退屈なので城主の任を解いて戦場に赴かせてほしいと訴えたが、この嘆願を拒否されたため、悲観した信康は戦支度を整えたのち愛馬・五島の背に跨り、諸共崖下へ身を投げたという説話がある。

しかし、桧原城主以降の経歴があるのでこれは違いますね。

wikipediaの参考文献は小牛田町史なのに、経歴には「小牛田」の文字が出てきませんね。
おかしな話です。

仙台藩では、知行制の中に要害というのがあります。
これは、一国一城令以後も中世以来の城郭をそのまま居館として拝領したもので、居館を中心に曲輪を配して櫓・土塁・石垣・堀を備えるなど、実質的には城と変わらない要害を拝領した。 

伊達21要害(または20要害)というのがあり以下の通りです。

岩谷堂要害(江刺郡)
人首要害(江刺郡)
上口内要害(江刺郡)
金ヶ崎要害(胆沢郡)
水沢要害(胆沢郡)
高清水要害(栗原郡)
宮沢要害(栗原郡)
佐沼要害(栗原郡)
岩出山要害(玉造郡)
登米要害(登米郡)
涌谷要害(遠田郡)
不動堂要害(遠田郡)
岩沼要害(名取郡)-岩沼藩
船岡要害(柴田郡)
川崎要害(柴田郡)
角田要害(伊具郡)
金山要害(伊具郡)
平沢要害(刈田郡)
亘理要害(亘理郡)
坂元要害(亘理郡)
新地要害(宇多郡)

この中に不動堂要害(遠田郡)とありますが、これが西舘城(鶴頭城:かくとうじょう)といい、後藤家が代々居城したところです。
色々武勇伝や逸話がありますが割愛します。

天正年間(1573-1585)は大崎氏の支配下にありましたが、その後伊達氏が支配することになります。
慶長16年(1611)後藤信康がこの地を拝領します。

つまり、後藤黒(五島黒)が何時政宗に献上されたかまだ調べきれていませんが、戦っていた頃ですから、早い時期でしょう。
小牛田の後藤家からの献上と言うのは、最終的に小牛田の城主という意味でしょう。

小牛田町は現在美里町です。

馬種ですが、木曽馬で太刀風(汗血馬)と云われています。
太刀風=血の様な汗をかき千里を駆けると言われます。

しかし、私はまだ確認が取れていません。


以上、政宗の愛馬の話でした。



境内の写真はこちら

馬上蠣崎神(うばがみかきざきじんじゃ)


















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8 コメント

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ここまで (維真尽(^^))
2012-06-07 18:15:38
調べるのは大変だと思いますが
資料などは
どうしておられるんですか?
維真尽さんへ (ひー)
2012-06-07 20:02:40
こうして現地にいって見てきます。
県の図書館に行けば、県内の町史や市史は、全部見れますからね。
ネットも活用しますが、最初の疑問は旅行屋時代の曖昧な知識です。
何で、こんなに面倒くさい思いをして書いているのかと言いますと。
ブログのサイドバーにホームページの記事がリンクしてありますよね。
そこの伊達家に関するページがあるのですが、毎日毎日アクセスが多くあります。
そんな人の為にたまに伊達家絡みの記事を真面目に書いているんですよ。
要害浜 (酔漢です)
2012-06-08 09:56:14
七ヶ浜要害の名がなくて。自身では「伊達要害」の一つだとばかり思っておりました。
違った認識を持っていたのかと。そう思いました。花渕城。吉田城のように、多賀城防衛の為の要害なのでしょうか。自分でも調べてみます。それと、確かに小牛田の名がないのは気になります。
愛馬のお話しからそれました。
今後の展開、大いに興味あります。
酔漢さんへ (ひー)
2012-06-08 11:43:40
そう言えば、七ヶ浜にも要害がありましたね。
伊達20要害には無いものの、それなりの砦はあったのでしょうね。
20は代表する要害や城だったのでしょう。
ぐずら氏に町史を調べてもらいましょう。
おはようござんす (あーさん)
2012-06-14 11:19:33
武将の愛馬を祀る神社というのは
かなり珍しいのでは?

外しますが、陸軍将校だった亡父の愛馬は
勝空号   急に思い出しましたぁ
あ~さんへ (ひー)
2012-06-14 12:18:20
陸軍将校に父では、厳しく育てられたように思いますが如何だったでしょう?
勝空は何とお読みになるのでしょう。

母の兄弟はやはり名前に勝が付く名前が多いですね。
政宗の愛馬となったことは後藤家の誇りでもあったのでしょうね。
面白い名前の神社だったので (りひと)
2018-04-07 19:44:22
超興味持って記事拝見しましたよ。
まず3/15って梅若って書いてありましたけど、いっときハマって行っていたお寺には梅若伝説です。その関係もなんか想像しちゃいましたよ。で場所は調べてないんですけど蘆名氏ってのもかなり追っている方でしてそこを後藤氏がその後に入ってるのも私の関係の流れでも妥当です。で五島っていう表記もあるというなら父系が関わってそうですよ。私は蘆名氏の方が気に入ってましてそこをやっつけちゃった伊達さんにはすこし苦手意識あります。で梅若もちょこっとそのラインで見てまして、お父さんの血筋が確かちょい強い系でこれも歴史上必ず何かの決着をしてしまうお役目ですので相当嫌に思って感じる方もいるのでそこも出てこれない理由だと思ってます。ただこれからは出ないと偽物にどんどんやられちゃうので困ってます。でその出し方なんですけど、その一族をやっつけたとなるとおそらく同族でしょう、素材平家よりで表面源氏よりなはず。
そこが馬に関わる後藤さん。私は個人的に馬頭観音好きなんですけど、この前知り合いが突然あげた猿江神社の猿藤太と渋谷の金王さんが同じ観音信仰のお寺絡みでくっ付きそうでしてそこにも絡んできそうな予感です。対馬系の安曇さんだと思ってます。でまた私の周りにも勝の付く名前の方がいましてそこのルーツを探ってます。どうも父方は猿じゃない方の俵の藤太系です。ただムカデの恨みは半端ないんで勝の方々からも恨まれていそうな感じです。これ生きている人間からの考察ですけどね。

なのでこちらの神社はとっても気になってきましたよ。父と行った福島の湖みたいな場所も記事にありそうなので超面白くなってきます。

そうそう、勝の神とその一族はずっと追っているのですけどこの前テレビでアナウンサーの草野さんが勝ち守りもっていらっしゃってたけどどこのだったかな?どうも体型や特性みたいなのが似てるように思いその神社のを持たせようか?とちょっと思っていた所です。

で東京の猿江神社でいうと猿江神社には馬頭観音の御守りもありまして勝ちの守り関連とプラスして馬頭観音にしています。

で考えるとこちらの面白い神社の名前からイソラをイメージしちゃったのですけど同じ流れになってきそうな展開です。

あとは場所と立地です。
伊達さんうまいんですよね、東北の伊達さんの戦った相手とまた伊達さんに加担した方々はとっても有効な謎解きヒントになります。伊達さんの中には間違いなくいい血筋の方もいるんですけど色々な方が時代ごとにいらっしゃって大変です。
その知識の源は何か?も気になりますね。
3184 8と4出てるので個人的にはとてもだいじな記事ですよ、きっと。
梅若の3/15すでに過ぎてました、球歴だったら間に合うのか?調べてみますね。3184
りひとさんへ (ひー)
2018-04-09 17:16:17
馬上蠣崎神社を久しぶりにみましたが、思い出しました。
鬼のような石像と姥の石像、もう少し調べればよかったかも、石碑を読めば何かわかるかも?でも今は急いで伊達騒動をまとめています。政宗がなくなり三代から四代目までが不安定な政治の時代で権力争い似た構図が生まれてきます。登場人物が色々出てくるのでそれも大変です。政宗は仙台藩主では初代ですが、伊達家としては17代目です。先祖は鎌倉~室町~安土桃山~からの武将ですから、それなりの知識と教養を学ばされたのでしょう。
才能も備えていたということでしょうね。
僧により知識を学んだり、片倉家の喜多は武芸に通じており景綱に文武両道の教育をしたと言われている。
この景綱が後の片倉小十郎で姉の喜多は政宗の乳母を命じられています。つまり喜多の指導は小十郎を通じて又は直接政宗に教えを導いていたのでしょう。
また仙台藩には多くの指南役もいますし。特に本人の根性が強かったとも言えます。片目で天下を取りえるほどの力を持ったのですから。
徳川は参勤交代を仙台藩に多く申しつけています。
莫大な金銭を使わせ、大きくなり力をつけないように仕向けたのでしょう。それだけ恐れていたようです。
政宗は、家康がなくなる時、忠宗を頼むと言って亡くなったそうです。その時に天下を取ることはやめようと思ったそうです。戦国時代はここで終ったのです。

蘆名家はいろいろな伊達家の行事に呼ばれることがあります。現在の当主は負けたのに呼ばれるとどうも恥ずかしいとTVに出た時話してました。
飛びますが、馬頭観音のお守りも珍しいのでは、このあたりには街道筋に沢山見られるのが馬頭観音の石碑ですね。 私的には「農耕馬」が主に多かったのかと思います。次に旅に使われ馬ですね。仙台にも伝馬町があります。長い距離を一頭の馬では無理なのでここで馬を休め、違う馬と交換して出かけます。馬と人の宿場みたいなものですね。
梅若伝説ではありませんが、町の隅々を注意深く歩いていると小さな塚などがあります。調べてみると意外なことがわかったりします。 普段はだれにも気にされずこっそりと祠があったり、自分の記事の中では、こんなのがありました。
https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/0687789978e287fa80930c488fc31d2e 
橋姫明神ですが、道路からはよく見えず気づく人は少ないでしょう。
今度の日曜日にばん馬大会がありますが、仕事なのでいけません。 以前の記事は、https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/42fe0637e226e391a1d6ccc1030d097f です。 子供のころから馬が好きなんですよ。

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【動画】伊達政宗が騎乗していた馬「五島(ごとう)」の墓 (PE2HO)
「政宗が大阪出兵時、老馬のため同行できず悲しみのあまり崖から飛び降りた」という伝説がある馬の墓。 仙台城本丸の崖の下にあります。 神社自体は明治時代に仙台市中心部に移転し、小さい稲荷の社だけがあります。