ひーさんの散歩道

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城柵の時代と多賀城

2021年09月22日 08時37分01秒 | みちのく文化研究&歴史
城柵の時代と多賀城
トップの絵(南大門)を再現中です。ここに置かれていました。





現在の古代東北史研究には、東北の歴史の独自をあるがままに認識し、それを評価していくという姿勢が求められる。
また、ここ30年ほどの新発見の出土文字資料の蓄積が進みその研究も進歩を遂げた



木簡(もっかん)漆紙文書などの一次資料は断片的ものが多いと言え
正史などからは、うかがいがたい支配の具体相を知ることのできる貴重な資料である。

偽物説が完全に払拭された多賀城碑とともに要領よく紹介している。

古代東北史におけるこの時期の特色は、古代国家がその北方の境域外の住民である蝦夷との領域に城柵を築きその周辺に
「柵戸」と呼ばれる移民を組織的に移住させるという政策をとりはじめ、古代国家とその住民が蝦夷と直接相対するようになった。
蝦夷の王都、城柵への朝貢が頻繁に行われるようになったばかりでなく城柵周辺の倭人(ここでは仮称)との私的な交易も
盛んに行なわれたとみられる。

大化改新後、古代国家が城柵を蝦夷支配の拠点として築き、その周辺に柵戸を住まわせ境域を北に拡大する政策をとりはじめたことは、当然のことながら蝦夷の日常生活を脅かすことになり対立や紛争尾の原因となった。
偶然酒田で見つけました。





その後、神亀元年(724)の多賀城の造営に象徴される、蝦夷支配体制の整備、強化や聖武天皇による領域拡大策の中止などによって対立は緩和され、東北にはつかの間の平和が訪れる。

聖武太上天皇の死後、政権を掌握した藤原仲麻呂が桃生(現石巻)、雄勝(現横手市付近)両城を蝦夷の地に築造し領域拡大策再開したことによって再び対立が深まりやがて戦乱の時代が到来することになった。

(古代蝦夷については別記事で紹介します)

蝦夷に支配をおよぼして行くために、古代国家が蝦夷の地との境界領域に築いた施設が城柵である。
大化改新の際にそれまで国造が支配していたクニを解体して代わりに評(こおり)を設置するという地方支配の大改革を行ったが、それに関連して国造支配が及んでいなかった蝦夷の地との境界に城柵を築き北陸や坂東(ばんどう)方面の人々を柵戸として城柵の周辺に送り込むという政策をとりはじめるのです。

一つは城柵の軍事的性格である。
城柵には軍団兵や鎮兵などの常備軍が駐屯していた。 
重要な城柵にはその指揮官として国司の一人が「城司」となって常駐していた。

柵戸の移民だが、最初期の城柵である渟足(ぬたり)・磐舟(いわふね)柵の「日本書紀」の造営記事にすでに見え。
その後の城柵にも柵戸が配置されている。

古代国家と蝦夷の交流

城柵の設置は蝦夷と王権及び一般の倭人との交流を飛躍的に高めることになった。

蝦夷はミツキ(貢ぎ物)を背負って朝貢し七世紀代には、王都や城柵で服属儀礼を行った。
飛鳥の石神遺跡や仙台市郡山遺跡で発見された方形池は、それに関係する遺跡と考えられており石神遺跡からは陸奥の土師器が60点ほど出土している。

天平期に百姓と蝦夷との違法な交易を禁じた「故按察使(あぜち)従三位大野朝臣東人製法(おおのあそんあずまびと)が発布されていることは、水面下でそのような動きが往行していたことを物語っているのでしょう。

多賀城建設

蝦夷の反乱の記録は「日本書紀」にも散見する。 確実なものとしては、和銅二年(709)の越後の蝦夷の反乱がある。
ついで養老4年(720)には陸奥の蝦夷が反乱を起こし、按察使上毛野広人が殺害されるという事件が起こる。

この乱を契機に多賀城の建設が始まり、神亀元年(724)に完成すると、ここに陸奥国府と鎮守府が置かれた。
さらに北辺部の諸郡を黒川以北十郡として再編し、玉造などの五柵の整備を行うなど、蝦夷支配体制を大幅に強化するのである。

陸奥では、同年にも海道蝦夷の反乱が起こるまで、ちょうど半世紀の間、目立った反乱は起きていない。
これは多賀城創建時の蝦夷支配体制の強化、夷禄(いろく)などの蝦夷懐柔策の整備に加えて、天平九年(737)の
天然痘の大流行後、にわかに仏教に傾倒していった。  傾倒(けいとう)= かたむき倒れること

光明子の後ろ盾で政権を握った藤原仲麻呂は子息の朝獦を按察使に任じて東北に送り込み、桃生城、出羽に雄勝城を築いて律令国家の領域を北に拡大するとともに、中断していた多賀城と秋田城(出羽柵)を結ぶ駅路を開通させ、両城を全面改修し、蝦夷支配体制を大幅に再編、強化するのである。

伊治城(これはり)【現栗原市。多賀城跡出土漆紙文書に「比治城」とあり】が造営される。
律令国家の北辺が桃生城ー伊治城ー雄勝城ー秋田城のラインまで押し上げられるのである。



仙台平野における動向については、仙台市郡山遺跡の考古学的調査によって、その具体像がわかる。
郡山遺跡はJR長町駅の東方、広瀬川と名取川に挟まれた自然堤防と後背湿地の上にある。

1979年以降の継続的な発掘調査により新旧二時期にわたる官衛遺跡の存在が判明した。
下層の遺跡(Ⅰ期官衛)の出土土器の年代から七世紀半ばから七世紀末末とされ、全国でも最古の官衛遺跡の一つである。
出土土器も特徴的内側を黒色処理した、東北産の土師器と共に埼玉県北部の土器に似たいわゆる関東系土師器や畿内産とみられる土師器も出土している。
遺跡の規模や規格性、出土土器の様相から見ても仙台平野の地域権力が造営した施設とは考えがたく倭国の王権が主体的な関りをもって造営した施設と考えられる。

近年の考古学研究により、仙台平野ではこの郡山遺跡Ⅰ期官衛の前からすでに関東からの移民が始まっていたと考えられる。
仙台市の南小泉遺跡や多賀城市の山王遺跡・市川橋遺跡などでは※「囲郭集落」に伴う形で関東系の土器が出土し、六世紀後半から七世紀中葉のものとされている。
         ※「囲郭集落」=溝や塀などの区画施設によって周囲を区画する

郡山遺跡Ⅰ期官衛は仙台平野での一定の移民の存在を前提としつつも倭国の王権による直接的な支配拠点として造営されたものであり、日本海側における渟足・磐舟柵(ぬたり・いわふね)に対応する、蝦夷政策新しい段階に入ったことを示す遺跡と考えられる。

評制施行

改新の詔」をふまえ全国的に「評」(後に大宝律令施行により「郡」と改称)の設置が進められた。
一般的には大化五年にまず国造のクニを転換する形で全国的に設置され、その後の白雉四年(653)に行われた既存の評の分置によって、その基本的な枠組みが整えられた。

関東から東北南部にかけての地域では、孝徳朝に「坂より東の国を総領」した高向臣(たかむこのおみ)・中臣幡織田連(なかとみのはとりだのむらじ)(ともに名前は不明)のもとで評の設置が進められた(常陸国風土記)。 後の陸奥国南部の郡で成立が七世紀段階にさかのぼる可能性がある白河・磐瀬・安積・信夫・石城(いわき)・標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇多・日理・伊具・会津の11郡(評)のうち、石城以外の国造名を継承した八評は大化五年に成立した可能性が高い。

 

国造は大化の改新以前における世襲制の地方官。
地方の豪族で朝廷から任命されてその地方を統治した。改新後は廃止されたが多くは郡司となってその国の神事も司った。


中学の社会ではこう教えられています。
国司(こくし)と郡司(ぐんじ)は,ともに飛鳥時代以降の律令制のもとで「地方」に置かれた役人です。
「国司は中央から派遣された貴族」が,「郡司は地方の有力な豪族」が任じられた,という点が大きく違い ます。

■国司
 律令制のもとで中央集権国家のしくみのひとつとして,中央から地方へと「国司」が置かれました。
 国司には中央から派遣された貴族が任じられ,任じられた国の行政・財政・司法・軍事全般を行いました。
 具体的な仕事内容は,戸籍(こせき)の作成や班田(はんでん)の収授(しゅうじゅ),税の徴収(ちょうしゅう),兵士の召集(しょうしゅう),裁判などでした。

■郡司
 「郡司」国司のもとに置かれ,その郡の行政全般を実質的に行いました。
 そのため郡司は,その郡の有力な豪族が任じられました。
 具体的な仕事内容は,任じられた郡の行政,税の取り立て,軽い刑罰の執行(しっこう)などでした。


つまり上記の表にある国造は、地方の豪族が世襲制で統治していたもので、国府ではありません。
国府には中央から国司が来ます。

それを「信夫」が多賀城より先に国府が置かれたと吹聴している方がいます。
もう一度考えてほしいものです。


長いので一旦切ります。


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2 コメント

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Unknown (木方)
2021-09-29 08:46:41
凄い、ワクワクしますね。
個人的には掘立柱が酒田にもあったのがびっくりしました。掘立柱の建物は、建てられる時だけならまだしも解体というか崩す際も手順がしっかりあってその通りに穴を掘りやっていたと聞いた事があります。なので知らない人が監督なり作業に関わったとしてもその手順通りに確実に作られた物であり、最後もそういう作業を出来る方々がその地にいる方が可能性は高いわけです。ならば当然と違う地域間の交流と知識と物の移動はないはずはなくまたそれを継承した者しか関わるはずもないでしょうから。酒田と奈良と神奈川が交流あったと思うと超嬉しくなっちゃいます。各地でもっと探しますね。
それと栗原のお城の名前が治でハリって読むのがまた好みなんですよね。奈良で気になる場所があるのでもしや?と関連しそうな出土品とか風習とか探しますね。

あと大野東人で切り替わったとしたらそれも興味あります。木簡とかの表示も最新の発見もいっぱい出てきてるのでそれと比較して素直に解釈出来るとありのままが見えてくるかもしれませんね。

年表の並びだとかなり急に動き出すんですね、そこにそうしないといけない理由もあるのでしょう。

国司の件はかなり興味深いです。つまり派遣されなくてもかなり高度なその土地のあった行政なり村活動がすでに行われていて更にその後も問題なく出来ていた可能性もあるわけです。なんかこれこそ今回の世界的な困難にも立ち向かえられた理由にも感じました。

記事を読み始めてすぐに思ったのが、あれ?逆なの?って。柵を作る意味なのですが、本来は護り的に作る事でお互いがWin-Winでそのエリアの中で楽しく活動する(独自で問題なく)為かとてっきり思い込んでいましたけど、なんとなくそもそも長い年月をかけて交流してきた普通の活動を防止しちゃった可能性もあるのかも?と。
何事も一面から見ると見えない盲点がありますが、俯瞰で両方見ると面白いし合理性も一緒に考えると見えてくる物がありそうですね。

そう考えると柵が造られた場所の意味もかなり違って見えてくるでしょうね。

写真でいうポジとネガ!今まで実はネガ見ていたけどネガなので左右もまた色も反転しています。これをポジのするためには逆にみるとちょっと俯瞰に近づくかもしれませんね。

以前からあるネットワークをまず潰して、その後どうにか手中に手に入れるという法則は歴史の中でも良くある事でどうにかもっと話したり役割分けして侵食しないでいたらもっと日本凄かったのにって思う事が多いです。

なのでその後悔を今後しないように、まずネットワークを潰されないように守る事少なくてもきちんと見続ける事、そして結果ネットワークはその土地や民衆のためになっている方向に進むのか?そうではなく今まで築いたものが単純に代わっただけなのか?少なくても民衆の気持ちを言わずとも汲んで動いてくれるか?様子は見ておいた方が良いですね。

少なくても争いは、武力が絡むと死者が出ます。もう死者が出ない争いの仕方を考えられるようになる最初は日本でしかないと思うんですけどね。武力も護りで持つ怖さは古代でもきっと同じで、それが争いに直結していかないとようになるといいですね。
木方さんへ (ひー)
2021-09-29 11:01:18
酒田に掘立柱は、興味深々ですね。
貴重な情報ありがとうございました。
想像が膨らみますね。
これからが楽しみです。

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