芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごごとし

2018年06月21日 | お知らせ
光陰、馬のごとし 1

光陰、馬のごとし 2
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谷川俊太郎の反戦詩

2016年10月12日 | 言葉
         

 谷川俊太郎の詩、彼の言葉が好きだ。この歌は多くの歌い手がカバーしている。


   死んだ男の残したものは
       作詞/谷川俊太郎  作曲/武満徹  歌/友竹正則
 
   一
    死んだ男の残したものは
    ひとりの妻とひとりの子ども
    他には何も残さなかった
    墓石ひとつ残さなかった
   二
    死んだ女の残したものは
    しおれた花とひとりの子ども
    他には何も残さなかった
    着もの一枚残さなかった
   三.
    死んだ子どもの残したものは
    ねじれた脚と乾いた涙
    他には何も残さなかった
    思い出ひとつ残さなかった
   四
    死んだ兵士の残したものは
    こわれた銃とゆがんだ地球
    他には何も残せなかった
    平和ひとつ残せなかった
   五
    死んだかれらの残したものは
    生きてるわたし生きてるあなた
    他には誰も残っていない
    他には誰も残っていない
   六
    死んだ歴史の残したものは
    輝く今日とまた来るあした
    他には何も残っていない
    他には何も残っていない
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ジュリーに拍手

2016年10月11日 | 言葉

  あらためてジュリー、沢田研二の反骨に拍手。


    「我が窮状」
      作詞/沢田研二  作曲/大野克夫

  麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが
  忌まわしい時代に 溯るのは 賢明じゃない
  英霊の涙に変えて 授かった宝だ
  この窮状救うために 声なき声よ集え
  わが窮状 守りきれたら 残す未来 輝くよ

  麗しの国 日本の核が 歯車を狂わせたんだ
  老いたるは無力を 気骨に変えて 礎石となろうぜ
  あきらめは取り返せない 過ちを招くだけ
  この窮状 救いたいよ 声に集め歌おう
  わが窮状守れないなら 真の平和ありえない

  この窮状 救えるのは 静かに通る言葉
  わが窮状 守りきりたい
  許しあい 信じよう


      
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好きな童謡

2016年10月10日 | エッセイ
                                                               

 あまり童謡や唱歌を耳にすることがなくなって久しい。はなはだ残念なことだ。
 これまでも童謡唱歌の逸話を、勝手な想像まじりに「掌説うためいろ」と題して書いてきた。「勝手な想像まじり」というのは、詩人や作曲者に関する様々な解説や逸話を読むと、どうも違うのではないか、あるいはその時代が立体的、重層的にとらえられていないのではないか、と感じられるため、こうではなかったのか? ということからくる想像なのである。
 これといった劇的な逸話が少ない童謡唱歌は、「掌説うためいろ」に入れなかった。しかし、二木紘三先生、池田小百合先生や、童謡唱歌の仕事に携わっておられる方々には、とてもとても及びもしないが、私にも大好きな童謡や唱歌が数多くある。

「どこかで春が」はそのひとつである。作詞は百田宗治、作曲は草川信で、大正12年(1923年)に発表された。
 百田宗治は明治26年(1983年)大阪生まれである。大正4年(1915年)に個人雑誌「表現」を出し、その翌年に詩集「一人と全体」を出版した。彼は人道主義的、民主主義的な傾向を強め「民衆」派詩人の一人と目された。その後は贅句を削った現代的な詩風に一変した。昭和7年以降は童謡詩、児童詩・作文教育に取り組み、児童文学者や全国の教師たちと綴方運動を始めた。

   一
    どこかで「春」が 生まれてる
    どこかで水が 流れ出す
   二
    どこかで雲雀(ひばり)が 啼(な)いている
    どこかで芽(め)の出る 音がする
   三
    山の三月(さんがつ) 東風(こち) 吹いて
    どこかで「春」が うまれてる
  
「緑のそよ風」も草川信の作曲である。昭和22年(1947年)に、清水かつらがNHKラジオの依頼を受けて作詞し、草川の最晩年の童謡となった。この頃の彼は、南方に出征したまま生死も知れぬ長男・宏のことや、罹病のため塞ぎ込むことが多かったという。
 しかしこの歌は明るい。彼の希いを込めた最期の明るさだったのだろう。この「緑のそよ風」は翌年の1月に放送されたが。彼はラジオから流れるこの曲を聴くことができなかった。

   一
    みどりのそよ風 いい日だね
    ちょうちょもひらひら 豆の花
    なないろ畑に いもうとの
    つまみ菜つむ手が かわいいな
   二
    みどりのそよ風 いい日だね
    ぶらんこゆりましょ 歌いましょ
    すばこの丸まど ねんね鳥
    ときどきおつむが のぞいてる
   三
    みどりのそよ風 いい日だね
    ボールがポンポン ストライク
    打たせりゃ二塁の すべり込み
    セーフだおでこの 汗をふく
   四
    みどりのそよ風 いい日だね
    小川のふな釣り 浮きが浮く
    静かなさざなみ はね上げて
    きらきら金ぶな うれしいな
   五
    みどりのそよ風 いい日だね
    遊びに行こうよ 丘越えて
    あの子のおうちの 花畑
    もうじき苺(いちご)が 摘めるとさ

「村の鍛冶屋」は大正元年(1912年)は「尋常小学唱歌(四)」として全国の小学校で歌われた文部省唱歌だ。したがって作詞者・作曲者は不詳で特定されていない。時代を経て、少しずつ歌詞が変えられている。
 昭和60年に音楽教科書から姿を消した。そのときの文部省の役人の話が忘れられない。要約すると「今の子どもたちには『鍛冶屋』だとか『ふいご』と言っても理解できない」と言った。そんなもの、教えればいいことだろう。
「チャンバラ時代劇の刀を作る職人さんは刀鍛冶という。農業に使用するクワ、カマ、スキ、ナタ(黒板に白墨で簡単な絵を描き)などを作る職人さんは野鍛冶という。鍛冶仕事には鉄を真っ赤に焼く炭火が必要で、フイゴはその火を盛んにするため風を送り込む装置だ」…何の不都合やある。明治初期の唱歌は、全国的に統一した「国語」、さらに品格のある日本語、万葉以来の伝統の五七調の言葉のリズム、韻律も教えることでもあったはずだ。また音楽好きの教師たちは、算数の授業で節を付けた数え歌を教えたこともあった。何の不都合やある? 

   一
    暫時(しばし)も止まずに槌打つ響
    飛び散る火の花 はしる湯玉
    ふゐごの風さへ息をもつがず
    仕事に精出す村の鍛冶屋
   二
    あるじは名高きいつこく老爺(おやぢ)
    早起き早寝の病(やまひ)知らず
    鐵より堅しと誇れる腕に
    勝りて堅きは彼が心
   三
    刀はうたねど大鎌小鎌
    馬鍬に作鍬(さくぐは) 鋤よ鉈よ
    平和の打ち物休まずうちて
    日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)の敵と
   四
    稼ぐにおひつく貧乏なくて
    名物鍛冶屋は日日に繁昌
    あたりに類なき仕事のほまれ
    槌うつ響にまして高し

「村祭り」もいい。これも文部省唱歌で、作詞者・作曲者は不詳(南能衛作曲とする記述もある)。明治45年の文部省「尋常小学唱歌(三年)」に掲載され、昭和17年の「初等科音楽(一)」で歌詞が改められている。
   一
    村の鎮守の神様の
    今日はめでたい 御祭日(おまつりび)
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    朝から聞こえる 笛太鼓
   二
    年も豊年満作で
    村は総出(そうで)の 大祭(おおまつり)
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    夜まで賑(にぎ)わう 宮の森
   三
    治(おさ)まる御代(みよ)に 神様の
    めぐみ仰(あお)ぐや 村祭
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    聞いても心が 勇み立つ

 私は「あの町この町」という童謡を聴くと、なぜか横浜の夕焼けの坂道を思い出す。この曲は大正13年(1924年)に「金の船」に発表された。
 それにしても野口雨情と中山晋平コンビは「証城寺の狸囃子」「兎のダンス」「黄金虫」「雨降りお月さん」「シャボン玉」など、何と多くの素晴らしい童謡を残してくれたことか。

   一
    あの町この町 日が暮れる
    日が暮れる
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ
   二
    おうちがだんだん 遠くなる
    遠くなる
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ
   三
    お空に夕べの 星が出る
    星が出る
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ

「仲よし小道」は、三苫やすしが、ガリ販刷りの同人誌「ズブヌレ雀」に、昭和14年(1939年)1月に発表した童謡詩である。キングレコードの専属作曲家になっていた河村光陽が、これを偶然見つけて曲を付け、キングのディレクターに持ち込み、光陽の娘の順子と、金子のぶ子、山元淳子の三人の歌で2月にはレコード化した。すごいスピードである。この時、作詞の三苫には無断で勝手に三番、四番の歌詞を変更したという。そういう時代だったのだ。
「仲よし小道」はヒットした。日中戦争が拡大しつつあった頃である。
 三苫やすしは明治43年(1910年)に福岡に生まれた。福岡師範学校を出て教職に就き、川崎の小学校、生田の中学校に勤務するかたわら、詩作を続けた。彼は昭和24年に亡くなっている。
 河村光陽も福岡出身で、小倉師範学校を出て地元で音楽教師をした。その後作曲に専念し、キングレコードの専属となった。
 やがて時代は太平洋戦争に突入し、小学校は国民学校に、子どもたちは少国民になり、集団で登下校するようになった。「仲よし小道」の楽しい日々は、ごく短い間だったのだ。

   一
    仲よし小道は どこの道
    いつも学校へ みよちゃんと
    ランドセル背負(しょ)って 元気よく
    お歌をうたって 通(かよ)う道
   二
    仲よし小道は うれしいな
    いつもとなりの みよちゃんが
    にこにこあそびに かけてくる
    なんなんなの花 匂(にお)う道
   三
    仲よし小道の 小川には
    とんとん板橋(いたばし) かけてある
    仲よくならんで 腰(こし)かけて
    お話するのよ たのしいな
   四
    仲よし小道の 日ぐれには
    母さまお家(うち)で お呼びです
    さよならさよなら また明日(あした)
    お手手をふりふり さようなら

「歌の町」も好きな曲だ。終戦後の世相に、子どもたちに明るさを与えてくれた曲の一つだろう。
 作詞の勝承夫(かつ よしお)は明治35年(1902年)東京四谷生まれである。旧制中学の頃から詩人として知られ、東洋大学に進んで「新進詩人」「新詩人」に参加した。大学卒業後は報知新聞社の記者となり、昭和18年に退社して文筆に専念した。戦後は音楽教育活動や全国の学校の校歌も手がけ、日本音楽著作権協会の会長となり、また東洋大学の理事長も務めた。
 作曲の小村三千三は明治33年(1900年)神奈川県三崎町の生まれである。彼もまた全国の小・中・高・大学の校歌を作曲した。

   一
    よい子が住んでる よい町は
    楽しい楽しい 歌の町
    花屋はちょきちょき ちょっきんな
    かじ屋はかちかち かっちんな
   二
    よい子が集まる よいところ
    楽しい楽しい 歌のまち
    雀は ちゅんちゅく ちゅんちゅくな
    ひ鯉は ぱくぱく ばっくりこ
   三
    よい子が元気に 遊んでる
    楽しい楽しい 歌の町
    荷馬車は かたかた かったりこ
    自転車 ちりりん ちりりんりん
   四
    よい子のお家が ならんでる
    楽しい楽しい 歌の町
    電気は ぴかぴか ぴっかりこ
    時計は ちくちく ぽんぽんぽん

 私の幼少期、横浜には子どものお馬車が走っていた。それ以前に馬車道という地名もあった。少年期に銚子に暮らしたが、ヤマサやヒゲタの醤油工場の荷馬車が、醤油樽を積んで公道をガラガラと行き来していた。花屋は今も「ちょきちょき ちょっきんな」のままだが、さすがに鍛冶屋は町から姿を消した。しかし下町でたまさか見かける板金屋は「ばんばん」と叩き、通りかかった町工場の音は、今でも「がったん、がったん」と耳にすることがある。自転車の「ちりりん りんりん」は蕎麦屋の出前の兄さんか、三河屋の御用聞きのおじさんの自転車か。いきいきとした小さな産業と、暮らしの音があった。
                                                                 
                                                        
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加藤典洋さん 日本の独立を語る

2016年10月09日 | 言葉
                                                                  

 明治維新期、フランスから帰ってくる途中、思想家の中江兆民は欧州人がサイゴンの港でアジア人を足蹴にして使役しているのを見て、彼らの自由平等博愛の原則は立派だが、彼らにはそれを実行できない。本当に実行できるのは、彼らではなくて、彼らの思想を輸入し、学ぶ自分たちのほうなのだと悟ります。それと同じことが、ここにもいえるからです。

 その課題とは、民主主義の原則は、戦後、占領期に米国によってもたらされたのですが、これを、米国以上にはっきりと実現し、国際社会に寄与していけるのは、彼らではなくてわれわれなのではないか、というものです。日本に民主原則、平和原則を確立するために、米国の非民主的、また軍事的な介入を排除し、あくまで平和主義を貫き通すかたちで、対米自立を獲得する、というのがその具体的な目標です。そこからはじめ、米国を含む近隣諸国とのあいだに友好的な善隣信頼関係を築き上げ、国連中心主義に立ち、世界の平和の確立に寄与していくのです。

            (2015年8月15日「ポリタス」より)
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