芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

戦後の改革、光と影

2016年07月03日 | エッセイ

 東久邇宮内閣はGHQから出された治安維持法の廃止や、投獄していた三千人以上の政治犯の釈放、言論の自由の指令に驚愕し抵抗した。GHQはそれを許さず、東久邇宮内閣は総辞職した。
 その後の改革指令も息つく暇もなかった。五大改革として農地改革、財閥解体、労働改革(労働組合組織の奨励)、教育改革、新憲法の制定…。
 ところがこれらの民主改革を幣原喜重郎内閣はやりたくないし、まったくやる気もない。彼らの頭を占めていたのは天皇制の国体護持だけだった。その五大改革をGHQはやらせた。
 その改革を政府は不承不承服従したが、それを喜んで迎え同調したのは民間組織や、一般大衆がいた。女性解放令や男女平等、家父長制廃止を喜んだたくさんの女性たちがいた。農地改革を喜んだ多くの自作農や小作農民がいた。財閥解体や自由競争を喜んだ中小企業や、零細企業、そして起業家たちがいた。
 教育改革で民主的な教育、自由な学問を喜んだ子どもたち、青少年たちと、先生たちがいた。もう教育勅語の暗唱や、天皇皇后のご真影が収められた奉安殿に最敬礼する必要もなくなった(全く今の北朝鮮と同じだったのだ)。
 GHQの改革を「押し付けられた」と思ったのは、保守政治家や保守的な財界人や地主、戦前の既得権者たちであった。
 GHQはそれまでの日本の障害物を排除してくれ、その後の発展のきっかけになったのである。自由のない重苦しい戦前、苛烈で悲惨な戦時下を生き延び、廃墟から、荒廃した国土から一般の人々が、それらの改革をきっかけに立ち上がったのである。

 もちろん、GHQは一枚岩ではなかった。矢継ぎ早の改革を打つ民生局のホイットニー准将やケーディス大佐とそのスタッフのニューディール左派に対抗意識をむき出しにしたウィロビー中佐がいた。
 彼は戦時中マッカーサーの下で、情報・諜報を専門とした将校だった。戦後は連合国軍最高司令官の総司令部参謀(G2)部長となり、諜報、保安、検閲(プレスコード)を担当した。強硬な反共主義者であり、のちに赤狩りのウィロビーと恐れられた。
 民生局のホイットニー准将、ケーディス大佐らが進める民主化推進、政治犯・日本共産党幹部の釈放、労働組合活動の奨励、特高廃止などにことごとく異を唱え、彼らと対立した。ウィロビーは特高警察に代わる組織として警察内に公安警察を作らせ、公安庁の設置を後押しした。
 ウィロビーのG2直轄の情報・謀略機関を部下のキャノン少佐に担当させた。これがZ機関(通称キャノン機関)である。
 またウィロビーは元陸軍中将で極右の河辺虎四郎に「河辺機関」を作らせ、右翼を呼集し反共工作に当たらせた。
 A級戦犯として巣鴨拘置所に収監されていた岸信介は、拘置所内で次の歌を詠んだ。「名にかへてこのみいくさの正しさを 来世までも語りのこさむ」
 みいくさ、つまりあの15年を超える戦争は正しい(侵略ではなく)聖戦だったというのである。ウィロビーは巣鴨から岸信介や笹川良一、児玉誉士夫らを釈放させた。まったく余計なことをしてくれたものである。もちろんウィロビーは彼らから何がしかの情報を得、また何がしかの画策・策謀の指令を与えたのである。
 ウィロビーはこの狗のような男たちと、何がしかの取引をし、反共の猟犬として利用しようと思ったのであろう。この岸らの保身行動は、まことに「みっともない」。

 戦後の事件で昭和史の謎、昭和史の霧と呼ばれ、国鉄の三大ミステリーと呼ばれるものに下山事件、三鷹事件、松川事件がある。これらの1949年の7月、8月と立て続けに起こった怪事件では、キャノン機関とウィロビーの名が囁かれるのである。

                 

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