アンネの日記
あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話できそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。
1942年6月12日
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アンネの日記は、1942年6月12日、アンネの13歳の誕生日から始まっています。
お父さんから日記帳をプレゼントされたアンネは、日記に‘キティー’と名前をつけて、架空の友達である彼女に手紙を送るようにして日記を書きました。(いつも親愛なるキティーへ、ではじまりアンネより、で終わっていました。)日記の1ページ目には自分の気持ちを日記になんでも打ち明けられそう、と書いています。
1944年8月1日まで2年と2か月の間日記は続きました。3日後の8月4日、ドイツ軍のユダヤ人狩りから身を隠していたアンネ達は密告によって発見され、アムステルダムの隠れ家から強制収容所に連行されてしまいます。この強制収容所から、生きて戻ってこれたのは、アンネのお父さんだけでした。
アンネは神様より知っている
幼い頃、アンネは病弱で、学校に行けない日もありましたが、性格は明るく活発な女の子でした。ときには周りの大人を困らせるほどのおしゃべりで“神様はなんでも知っておいでだけど、アンネはもっとなんでもよくしっている“と言われるほど。通っている学校では人気者で、いつも周りにはたくさんの友達がいました。アンネは自分が男の子から注目されていることも自覚していて、クラスのほとんどの男の子が自分に気があると思っていました。アンネは日記で、この頃の事をこのように回想しています。
そう、たしかに天国のような生活でした。どこに行ってもボーイフレンドが五人はいましたし、同年輩のお友達だの知り合いだのは二十人ぐらいもいました。
1942年の7月からアンネ・フランク一家(アンネのお父さん、お母さん、お姉さんのマルゴー、アンネ)は、お父さんの会社の中にひそかに造った‘隠れ家’に身を隠して生活するようになりました。お父さんの会社の協力者たちに食糧をはこんでもらい、自分たちは、一歩も外にでられない生活でした。アンネたち姉妹も学校に行けず、友だちと連絡をとることもできませんでした。
アンネ一家の他にファン・ダーン一家(ファン・ダーンのおじさん、おばさん夫婦と息子のペーター)も一緒の同居生活でした。すこし遅れた時期には歯医者さんのデュッセルさんが加わります。
はっきりとものをいう女の子だったアンネは、隠れ家の生活でも自分も意見をだまっていることはできません。お姉さんのマルゴーは、おしとやかな性格で、アンネは、よくお姉さんと比べられて怒られていました。
ファン・ダーンおばさんは、アンネのことをわがままで強情だとたびたび小言を言いましたし、アンネはおばさんは身勝手でうるさいと思っていました。他にも、食糧や家内でのルールをめぐって隠れ家の中はいざこざが絶えませんでした。隠れ家生活では、みんながつねに顔を合わさなければならず、アンネはこんな状況に疲れてしまいました。
うちじゅうが家鳴り震動するような、すごい喧嘩つづきです。・・・すてきな雰囲気でしょう?
しかし、アンネは、戦場の悪いニュースを聞いてみんなが落ち込むようなときでも、
(隠れ家)を(憂鬱の隠れ家)にしてしまったところでいったいなにになるの・・・①?と明るく振る舞いました。
二人のアンネ
このころアンネは、自分をこども扱いするお母さんと衝突することが多くありました。
優等生であるお姉さんのマルゴーと比べられることにアンネはがまんできません。
毎日わたしは、私のことを理解してくれるほんとうのお母さんがいないのをさびしく思っています。ママはなにかとマルゴーの味方をします。(中略)・・・もちろんふたりのことは愛してますけど、それはふたりがわたしのおかあさんであり、お姉さんであるからにすぎず一個の人間としてはふたりともくたばれと言ってやりたい。パパについては、ぜんぜんちがいます。(中略)パパだけがわたしの尊敬できるひとです。
アンネは自分のことを日記の中で二重人格だと表現しています。たいていの人は、アンネのことをわがままででしゃばりだと感じているのだけれど、キティーにだけにみせるより良い、りっぱな一面もあると。いつもみんなにみせている明るい道化のアンネ、もうひとつは、傷つきやすい、繊細なアンネと。
ときどきわたしは自分に問いかけます。ユダヤ人とか、ユダヤ人でないとかにかかわらず、わたしがたんにひとりの少女であり、はしゃいだり、笑ったりすることを心の底から欲している、このことをわかってくれるだろうか?でもわたし自身には答えられませんし、このことをだれかに話すこともできません。話せばきっと泣いてしまうでしょうから・・・。
アンネは、いつ自分たちが自由になれるかわからない隠れ家での状態のなかで、つらい時期を過ごします。自分は孤立していて途方もなく大きな真空にかこまれている気分・・・② だと感じていました。戦争中の過酷で異常な環境でアンネの内面は実際の年よりも急激に成長してしまいます。
ですが、まわりは、アンネが大人へと成長していく過程で苦しんでいることに気がつきません。隠れ家の中で一番年下でいつも怒られ役だったアンネは、一人のりっぱな人間として扱われることを望んでいましたが、その気持ちは誰にも、大好きななお父さんにも理解してもらえませんでした。日記の中でだけ、アンネは、本当の自分になれたのかもしれません。
わたしはますます両親から離れて、一個の独立した人間になろうとしています。・・・
わたしがわたしとして生きることを許してほしい。
ときどきわたしは、神様がわたしをためそうとしていらっしゃる、そう考えることがあります。・・・わたしはほかにお手本もなく、有益な助言も得られないまま、ただ、自分の努力だけでりっぱな人間にならなくてはなりません。
ここでキティーに約束しましょう、どんなことがあっても前向きに生きてみせると。涙をのんで困難のなかに道を見いだしてみせると。
アンネは、これまでの自分のことを反省し、両親へのなまいきな態度や嫌いだったファン・ダーンのおばさんにも理解を示すようになります。
勇気と信念とを持つひとは、けっして不幸におしつぶされたりはしない・・・③、アンネは強い気持ちをもって、また平和な世界になると信じていました。
つねに勇敢に、強く生き、あらゆる不自由を忍んで、けっして愚痴を言ってはなりません。
このいまわしい戦争もいつかは終わるでしょう。いつかはきっとわたしたちがただの
ユダヤ人ではなく、一個の人間となれる日がくるはずです。
アンネの日記の出版
ユダヤ人にとって絶望的な環境下にあっても、アンネはあきらめませんでした。隠れ家生活を「危険でロマンティックな冒険」とし、ほかの少女とは異なった生きかたをし、おとなになったら、普通の主婦たちとは、異なる生きかたをしてみせる、と日記に書いています。
アンネはドイツのベルゲン・ブルゼン収容所で亡くなりました。ガス室はなかったものの衛生状態が悪く、ほとんどの人が飢えと病気で苦しみ亡くなりました。アンネとお姉さんのマルゴーもチフスに罹り亡くなっています。15歳の生涯でした。マルゴーがチフスで亡くなった3日後、アンネは、裸で毛布にくるまった状態で一人息を引き取っていました。
2人の死亡日時は、はっきりわかっていませんが、1945年の3月の初めごろといわれています。収容所が英軍によって解放され中の人たちが救出されたのは、4月12日でした。
生き残ったアンネのお父さんは、周りの薦めもあり、1947年にアンネの遺した日記を出版しました。
すると、世界中でベストセラーになります。
アンネの日記は、アンネが、戦争が終わったら公表するつもりで、書かれたものです。
オランダ政府は、ドイツ占領下の国民の苦しみの記録を募集すると発表していました。
アンネは、ラジオでそのことを聞きぜひ自分の日記を応募して出版してもらおう、と考えていたのです。もともと書いていた日記を清書し、登場人物を仮名にしたりと手を加えていました。
日記があまりにも良く書けていたため、本当に15歳の少女が書いたのか、信憑性を疑われたくらいでした。もちろん、今では、正真正銘アンネ自身が書いたものだと証明されています。
アンネは、将来作家かジャーナリストになりたいと考えていました。
アンネは特別な少女だったのでしょうか?
その他大勢の女性たちのように、毎日ただ家事をこなすだけで、やがて忘れられてゆくような生涯を送るなんて、わたしには考えられないことですから。周囲のみんなに役立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。わたしの周囲にいながら、わたしを知らない人たちにたいしても。わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!
*アンネの日記本文はすべて「アンネの日記 増補新訂版」深町眞理子訳 2003年文藝春秋 949/フ (中央・西原・笹塚・代々木所蔵)
から引用した。
また、①、②、③の文章、写真の引用も同書を使用した。
参考文献
「写真集 アンネフランク 訳編」 木島和子 小学館 289/フラ (中央保存庫所蔵)
「新版 悲劇の少女アンネ」 シュナーベル著 偕成社 28/フ (中央・富ヶ谷・笹塚・本町・臨川・笹塚こども所蔵)
「アンネ・フランク最後の七カ月」 ウィリーリントヴェル著 徳間書店 289/フ(渋谷所蔵) 316/リ(笹塚所蔵)
「この人を見よ歴史をつくった人々伝7」 アンネフランク ポプラ社 28/コ(中央・笹塚所蔵) 28/フ(笹塚こども所蔵)