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臨川小学校の歴史

2013年10月15日 | 地域

臨川小学校の歴史

  

 

「臨川みんなの図書館」は臨川小学校の改築の際、その一部を図書館にしたのでその名がついた事はご存知の方も多いことでしょう。今回はその臨川小学校についてご紹介したいと思います。

 臨川小学校はとても歴史のある学校で、創立は明治10年(西暦1877年)12月で初めは祥雲寺の部屋を借り、翌年の5月にやっと

草葺き屋根の校舎ができました。教室は4つ先生が3人、児童数は96人でした。

 最初は「臨川学校」という名前でした。「臨川」という名前は、高い所から渋谷川を見おろすという意味でつけられたといわれていますが、祥雲寺が臨済宗のお寺だったことから、その「臨」の字をとってつけたともいわれています。

 開校当初の校舎平面図

 

明治の中頃になると、新しく家を建てて移り住む人が増え、児童数も多くなりました。そのため何回も増改築をしてだんだん大きな学校になっていきました。しかし明治44年には児童数が1800人余りとなったため、翌45年に臨川第二小学校(現在の長谷戸小学校)ができて約750人が、大正3年には広尾小学校ができて約700人が、大正5年には猿楽小学校ができて約20人が、大正8年には加計塚小学校ができて約160人が、大正14年には常磐松小学校ができて約25人が移っていきました。それでも創立50周年の頃には1200人以上の児童がいました。

                 

       創立50周年記念誌                                                       創立50周年の時の校舎平面図

 

 昭和5年に制定された校旗

そのため、校地を広げて校舎を建て直したり、プールを作ったりしましたが、昭和16年に始まった太平洋戦争の空襲で校舎は全部焼けてしまいました。

 しかし、昭和21年には祥雲寺を借りて授業を再開し、翌年の開校70周年には渋谷区立臨川小学校と改称し、校舎を建て直しました。児童数は600人、二部授業でしたが、7年の歳月をかけて児童全員が勉強できる校舎となるよう、再び増築を繰り返し、開校80周年には児童数が1000人を超え、校歌も制定されました。

 その後、木造だった校舎は鉄筋校舎に改築され(現在の校舎)に改築されたり、幼稚園ができたり、体育館・屋上プールも完成しました。昭和52年には開校100周年記念式典が盛大に行われ、50年後に開封することを約束した100周年記念のタイムカプセルを埋めました。

一体どんなものが入っているのか、50年後が楽しみですね。

    戦後改築された校舎平面図   

  80周年に制定された校歌

  

 100周年校舎全景

 それから35年の間にパソコンルームやふれあいルームなどができ、平成5年に校庭の裏庭に作られたほたる池では、毎年5月末から6月にかけてほたるのまばゆい光に酔いしれることができます。

 現在の児童数は142人です(平成24年4月時点)。区内で1番最初にできた渋谷小学校が平成9年に大向小学校・大和田小学校と統合したため、今では臨川みんなの図書館は区内で1番古い小学校になりました。これからも統廃合することなく、歴史を刻んでいってほしいと思います。

 

参考文献・掲載写真

 「臨川」創立百周年記念副読本 臨川みんなの図書館所蔵 (館内)

 「臨川」創立120周年記念誌  臨川みんなの図書館所蔵 (館内)

 「臨川」創立130周年記念誌  臨川みんなの図書館所蔵 (館内)

  渋谷区立臨川小学校ホームページ URL  home.u00.itscom.net/rinsen/


緑川 聖司 「晴れた日は図書館へいこう」

2013年10月02日 | 文学

緑川 聖司 「晴れた日は図書館へいこう」

 

 皆さんが図書館を題材とした文学作品と聞いて、すぐに思い浮かべることができる作品といえば何でしょうか。やはり最近映画化もされた有川浩の「図書館戦争」を思い浮かべる方が多いでしょうか。図書館を題材とした作品は「図書館戦争」以外にも、もちろんたくさんあります。今回は図書館を題材とした児

童文学作品の一つである「晴れた日は図書館へいこう」について紹介していきたいと思います。

 

 

「晴れた日は図書館へいこう」 (文学の森)

著者名:緑川 聖司 出版社:小峰書店

所蔵館:中央、西原、富ヶ谷、笹塚、大和田、臨川、笹子図書館所蔵

(あらすじ)

本と図書館が大好きな女の子が図書館で出会ういろいろな人々との交流や、図書館で起きるちょっとした事件をミステリアスタッチに描く。

第1回日本児童文学者協会長編児童文学新人賞佳作受賞作品。

 

あらすじにもあるように主人公は、本と図書館が大好きな小学校5年生の女の子「茅野しおり」ちゃん。物語の舞台となるのは、しおりちゃんのいとこでもある美弥子さんが司書をしている「雲峰市立図書館」です。雲峰市立図書館での日常や図書館の本と利用者に関する謎を、図書館利用の案内人である司書の美弥子さん、良識ある利用者の代表ともいえるしおりちゃんを通して物語は描かれています。図書館で働いている者としてこの本を読んで驚かされたのは、図書館の日常や問題をとても詳しく描いているという点です。例えば図書館での子どもたちによる追いかけっこやブックポストへのいたずら、水濡れ本や不明本など、図書館で働いた経験がある方が読めば思わず「あ~、あるある」と頷いてしまう事柄です。またそれと同時に図書館のよくある日常と問題をちょっとしたミステリーとして物語に昇華しているところもすごい。また作中には架空の本が多数登場し、どれも魅力的なタイトルかつ内容で作者のセンスが光ります。

 

個人的にこの本は図書館利用のマナーブックとして、小学校高学年を対象とした「図書館利用案内」のブックトークなどで紹介するのに適している本だと思います。この本を読むことによって、図書館利用のマナーや図書館で働いている司書のこと、図書館の歴史についてなど、物語を通して触れることができて理解を深めることができます。また児童書ですので読みやすく、図書館をみんなで気持ち良く利用するには、図書館のルールやマナーを守って利用することが何よりも大切であることを教えてくれています。図書館をよく利用する子はもちろん、図書館をあまり利用しない子や図書館をご利用される大人の利用者の方にもぜひお薦めしたい一冊です。

 ちなみにこの物語には続編がございます。

 

「ちょっとした奇跡 晴れた日は図書館へいこう2」 (文学の散歩道)

著者名:緑川 聖司 出版社:小峰書店

所蔵館:中央、西原、富ヶ谷、笹塚、大和田、笹子図書館所蔵

 

(あらすじ)

図書館は奇跡にみちている!図書館で起きる、本に関するミステリーを、主人公のしおりと友達の安岡君が、いろいろな人の力を借りながら解き明かします。

 

今回紹介した「晴れた日は図書館へいこう」にご興味を持たれた方にはこちらもセットでお読みいただければきっと楽しめると思います。2冊とも渋谷区立図書館に所蔵がございますので、この機会にぜひ図書館へいってみませんか。

 

参考文献:

・『晴れた日は図書館へいこう・(文学の森)』 緑川 聖司/小峰書店/913ミ(中央所蔵)

・『ちょっとした奇跡 晴れた日は図書館へいこう2・(文学の散歩道)』 緑川 聖司/小峰書店/913ミ(中央所蔵)

 


昭和モダン東京の風景 同潤会アパート

2013年09月15日 | 地域

昭和モダン東京の風景 同潤会アパート

 

明治神宮の南東に位置する表参道には、トレンドの最先端を担うショップが数多く軒を連ねています。

その中で、通り沿いに悠然と続くガラス張りのお洒落な建物、「表参道ヒルズ」

全長約250mの建物内には100店舗ほどの専門店が立ち並び、今日も日本のファッションや文化の中心としてトレンドを発信し続けています。

そんな表参道ヒルズが建っているこの場所。

かつてここに何があったか、ご存知でしょうか?

そう、あの有名な「同潤会青山アパート」がここに存在していたのです。

もちろん知っているという方も名前だけなら知っているという方もいるかもしれません。

外観は記憶にあるけど…。しかし、そもそも“同潤会”とは何なのか?

今回はその“同潤会”に焦点を当てていきたいと思います。

 

大正12年(1923)、9月1日、関東一帯を襲う大地震が発生しました。この関東大震災による激しい揺れと火災の影響で、東京都内の被害は甚大なものとなりました。

震災後、内閣直属の帝都復興院が創設され都内の復興が進む中、内務省は震災義捐金の一千万円を支出して都市居住集合住宅の建設を担うある団体を設立しました。

これが財団法人“同潤会”誕生の経緯です。時は大正13年(1924)5月23日。

震災から約半年後のことでした。

 

同潤会の主な活動は関東大震災の復興関連事業でした。失われた住宅の供給や震災の負傷が元で仕事を失った人たちを収容し再教育を行う授産場の経営などです。(後者は、後に組織される同潤啓成社が請け負うことになります)

始めのうちは普通住宅事業が進められたそうですが、これがあまり一般の人たちからの評判が良くなかったとか。理由は、立地の悪さや住まいの形式(長屋形式の建物)が不評だったからのようです。

一方、予想以上に好評を博したのがアパートメント事業でした。なにより立地が良い!下町の工業地帯や商業地帯、山の手地区などの市域内に建設が進められたことに、人々は大いに魅力を感じたようです。

そして昭和2年(1927)、日本初の鉄筋コンクリート製アパートとなる“青山アパートメント”が竣工されました。

 [01・同潤会青山アパートメント]

当時、昭和モダンが進む東京の人々にとって、このハイカラなアパートメントがいかに魅力的だったのか、

この写真を見るだけでもその様子を感じることができます。

当初は軍人、役人、大学教授などしか入居できないような高級アパートメントだったそうですが、

貸付が開始されると申込みが殺到するほど、このモダンで洋装デザインのアパートメントは人々を魅了し受け入れられていきました。

それから解体されるまでの約80年、激動の昭和時代を生き抜いた青山アパートメントは、

表参道の顔として存在し続けたのです。

ちなみに同潤会が活動していたのは大正13年~昭和16年までのたった18年間で、

その間建設したアパートメントの数は東京に13か所、横浜に2か所でした。

(不良住宅改良事業として行われた、猿江裏町共同住宅を含めれば16か所)

そのいずれもが、昭和モダンな東京の風景にふさわしい雰囲気を醸し出しています。

 

しかし、現在に至るまでに現存している同潤会アパートは1か所のみ。

青山アパートメントは平成18年(2006)に「表参道ヒルズ」へ、渋谷区に存在していたもう一つのアパート、「代官山アパートメント」は平成12年(2000)に、居住空間、商業施設が一体となった複合施設「代官山アドレス」へと生まれ変わっています。

ちなみに現在の青山アパートメント跡地はこんな様子。

 [02・表参道ヒルズ]  

 [03・表参道ヒルズ]

メインの商業施設の隣には、かつての青山アパートメントを彷彿とさせる「同潤館」が建てられています。

 [04・同潤館]   

[05・同潤館の階段から覗く表参道]

そしてついに平成25年(2013)5月、最後の同潤会アパートである「上野下アパート」(台東区)の解体が始まりました。老朽化した同アパートは人々に惜しまれつつも解体の道を進み、再来年の夏に14階建てのマンションに生まれ変わるそうです。

 

今ではお洒落の代名詞として知られる表参道。

この道にかつて何があったのか、昭和の東京をどのように彩っていたのか。

新旧様々な息吹を感じながら、ぜひ一度、表参道を歩いてみてください。

 

〔参考資料〕

「消えゆく同潤会アパートメント」河出書房新社 527/キ(中央・笹塚)

「復興建築の東京地図」平凡社 523/フ(中央・渋谷・富ヶ谷・笹塚・本町・大和田)

「原宿 1995」隠田表参道町会 S13(中央他)

「東京人no.115 (1997年4月号)」東京都歴史文化財団 S71(中央・渋谷)

「東京人no.157 (2000年9月号)」東京都歴史文化財団 S71、291.3/ト(中央・本町)

「東京人no.184 (2002年11月号)」東京都歴史文化財団 S71(中央・渋谷)

【表参道ヒルズ ホームページ】http://www.omotesandohills.com

 

〔掲載写真〕 [01]「東京人no.115 (1997年4月号)」P34より引用

          [02~05]自主撮影


エディンバラの忠犬ボビーと犬にまつわるこぼれ話 その3

2013年09月07日 | 地域

エディンバラの忠犬ボビーと犬にまつわるこぼれ話

その3

 

イギリスには、こんな意味合いの諺があるそうです。

   《ステッキと犬は最良の友》 《犬のいない家庭は完全な家庭ではない》

 

二番目の諺には、犬の飼える家庭は十分な収入があり、犬が走り回れるだけの広さの庭がついた家を持っている、という意味もあるようですが、イギリス人と犬の深い絆をあらわした言葉です。ペット先進国といわれるイギリスでは、よくしつけられた犬が列車に乗り、多くの飲食店に入ります。怪我をしていたり、成犬になっている犬をあえて選び、動物保護団体から引き取って育てることも一般的です。何故ペットショップで元気な可愛い仔犬を選ばないのでしょう?その背景には『家を必要としている犬にこそ家を与えてあげたい』という考え方があるようです。

 

ボビーが生きていた頃のロンドンで、ある女性が自宅で野良犬を保護する活動を始めました。周囲の冷たい批判と多くの困難の中、救世主となったのは国民作家チャールズ・ディケンズが書いた、彼女の活動を支持する記事でした。(労働に明け暮れ、劣悪な環境で子ども時代を過ごした彼は作家の道を選び、社会的弱者も作品の中で描き、国民の人気を集めていました。ディケンズの一言には大きな影響力があり、記事をきっかけに協力者や寄付が集まりました)彼女の蒔いた種は、現在先進的な動物保護団体へと成長し、2011年は犬だけでも7,762頭を保護しているそうです。

 

 今でこそイギリス人は犬を友人や家族として受け入れ、伝統的な狩猟犬の廃止も大きな議論になっていますが、長い間二者は支配者と被支配者の関係でした。12世紀以前からイギリスには犬等を使った動物虐待を娯楽とする常設小屋があり、人々は日常的に残酷な動物いじめを楽しんでいたそうです。17世紀に入り、そういった娯楽を嫌悪し非難する文章が、詳細な日記を残したイギリス人の著述に見られるようになります。18世紀半ばにはキリスト教の慈悲、という感性が中産階級の間に広がり、優しさや涙もろさが人々に認識される中で、動物にも無益な苦痛を被らない権利がある、と主張した哲学書が出版され(『道徳哲学体系』1755年フランシス・ハッチンソン)、宗教家や思想家が次々と動物愛護論を展開していきます。文学の分野でも、人間中心の伝統的な考え方がゆらぎ始め、人間以外の生き物に対して、兄弟よ、と呼びかける詩なども登場するようになります。上流階級では相変わらず狩猟も広く行われていましたし、残念ながら動物いじめの民衆娯楽も相変わらず盛んだったそうですが、動物も人間も同じく神の被造物であるという考え方は徐々に広がっていきました。進化論なども影響しているのかもしれませんね。長い動物虐待の歴史への認識と反省が、現在の先進的な動物保護制度や動物愛護精神にしっかりと反映されているのですね。

 

日本人と犬との関係はどうだったのでしょう?犬が登場する話といえば、花咲爺、桃太郎、里見八犬伝等でしょうか。信州・遠州地方では、伝説の霊犬、悉平太郎(しっぺいたろう)が有名で、静岡県磐田市見付天神には犬が神様として祀られています。この伝説をよく耳にして、私も子どもながら感動したものです。万葉集や、枕草子にもわずかですが犬も登場し、枕草子では、体罰を受けた犬がポロポロと涙を流しているのを見た清少納言が不憫に思い、犬にも心があるのではないか、と言う記述もあります。現代に至っては忠犬、名犬、珍犬、迷犬、介助犬、盲導犬、セラピー犬など、人と心を通わせた犬達が書籍などでも広く紹介されています。私は少し前から「読書犬」がちょっと気になっています。訓練を受けた犬が、子どもが絵本を読むのを傍らで最後までじっと聞いていてくれたり、言葉につまってしまうと、“続けて読んでよ”と優しく鼻で催促するので、本が苦手な子どもや心に不安を抱えた子どもも安心して本を読むことに集中できるようになるそうです。

また、犬とかかわりの深い作家を調べてみると、意外とその数の多さに驚きます。

戸川幸夫は、直木賞受賞作品の『高安犬(こうやすいぬ)物語』の中で、山形で出会った幻の高安犬、チンと猟師の堅い信頼関係を描いています。絶滅してしまった高安犬は武士にも例えられる風格ある猟犬でした。熊を何頭も殺した横綱犬のチンが老いて遠方に引き取られた後、猟師の元へ戻る場面では、エリク・ナイトの『名犬ラッシー』も思い起こされます。

遠藤周作も渋谷にゆかりのある作家の一人ですが、たいへんな愛犬家だったというのをご存知でしょうか?『わが最良の友動物たち』、『狐狸庵動物記』の中で、三分の一程の頁をさいて氏の幼少期からの愛犬達の思い出を綴っています。電車など公共の場でこの本を読まれる際は、ちょっとご注意ください。思わず噴き出してしまうくだりや、ほろりとしてしまうエピソードが、あちらこちらに散りばめられていますので。

 ちなみに目次をご紹介しますと、犬は人生の相棒/ただ一人の話し相手/犬を飼えない不幸/犬に学ぶ/字を書く犬の悲しさ/犬は主人の病気を心配してくれる/犬は人間に恋をする/シロとクウとの日々/どこへ行ったかクウちゃん/変な犬/駄犬 と続きます。読後は、ご自分の生活に小さな動物が住んでいた頃の、忘れかけていた大切な思い出がしみじみと心に蘇るのではないかと思います。 

 

参考文献

『それでもイギリス人は犬が好き』ミネルヴァ書房、飯田操著、645.イ(こもれび大和田図書館所蔵) 

『文学賞受賞・名作集成7』リブリオ出版、二上洋一監修、Xブン大活字(代々木図書館所蔵)

『わが最良の友動物たち』グラフ社、遠藤周作著、Xエン(中央・富ヶ谷図書館所蔵)

朝日新聞2003年11月29日朝刊(be週末P60より)

 


アンネの日記

2013年08月17日 | 文学

アンネの日記

あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話できそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。

1942年6月12日

 

アンネの日記は、1942年6月12日、アンネの13歳の誕生日から始まっています。

お父さんから日記帳をプレゼントされたアンネは、日記に‘キティー’と名前をつけて、架空の友達である彼女に手紙を送るようにして日記を書きました。(いつも親愛なるキティーへ、ではじまりアンネより、で終わっていました。)日記の1ページ目には自分の気持ちを日記になんでも打ち明けられそう、と書いています。

1944年8月1日まで2年と2か月の間日記は続きました。3日後の8月4日、ドイツ軍のユダヤ人狩りから身を隠していたアンネ達は密告によって発見され、アムステルダムの隠れ家から強制収容所に連行されてしまいます。この強制収容所から、生きて戻ってこれたのは、アンネのお父さんだけでした。

 

 

アンネは神様より知っている

幼い頃、アンネは病弱で、学校に行けない日もありましたが、性格は明るく活発な女の子でした。ときには周りの大人を困らせるほどのおしゃべりで“神様はなんでも知っておいでだけど、アンネはもっとなんでもよくしっている“と言われるほど。通っている学校では人気者で、いつも周りにはたくさんの友達がいました。アンネは自分が男の子から注目されていることも自覚していて、クラスのほとんどの男の子が自分に気があると思っていました。アンネは日記で、この頃の事をこのように回想しています。

 

そう、たしかに天国のような生活でした。どこに行ってもボーイフレンドが五人はいましたし、同年輩のお友達だの知り合いだのは二十人ぐらいもいました。

 

 

1942年の7月からアンネ・フランク一家(アンネのお父さん、お母さん、お姉さんのマルゴー、アンネ)は、お父さんの会社の中にひそかに造った‘隠れ家’に身を隠して生活するようになりました。お父さんの会社の協力者たちに食糧をはこんでもらい、自分たちは、一歩も外にでられない生活でした。アンネたち姉妹も学校に行けず、友だちと連絡をとることもできませんでした。

アンネ一家の他にファン・ダーン一家(ファン・ダーンのおじさん、おばさん夫婦と息子のペーター)も一緒の同居生活でした。すこし遅れた時期には歯医者さんのデュッセルさんが加わります。

はっきりとものをいう女の子だったアンネは、隠れ家の生活でも自分も意見をだまっていることはできません。お姉さんのマルゴーは、おしとやかな性格で、アンネは、よくお姉さんと比べられて怒られていました。

ファン・ダーンおばさんは、アンネのことをわがままで強情だとたびたび小言を言いましたし、アンネはおばさんは身勝手でうるさいと思っていました。他にも、食糧や家内でのルールをめぐって隠れ家の中はいざこざが絶えませんでした。隠れ家生活では、みんながつねに顔を合わさなければならず、アンネはこんな状況に疲れてしまいました。

 

うちじゅうが家鳴り震動するような、すごい喧嘩つづきです。・・・すてきな雰囲気でしょう?

 

しかし、アンネは、戦場の悪いニュースを聞いてみんなが落ち込むようなときでも、

(隠れ家)を(憂鬱の隠れ家にしてしまったところでいったいなにになるの・・・①?と明るく振る舞いました。

 

 

二人のアンネ

このころアンネは、自分をこども扱いするお母さんと衝突することが多くありました。

優等生であるお姉さんのマルゴーと比べられることにアンネはがまんできません。

 

毎日わたしは、私のことを理解してくれるほんとうのお母さんがいないのをさびしく思っています。ママはなにかとマルゴーの味方をします。(中略)・・・もちろんふたりのことは愛してますけど、それはふたりがわたしのおかあさんであり、お姉さんであるからにすぎず一個の人間としてはふたりともくたばれと言ってやりたい。パパについては、ぜんぜんちがいます。(中略)パパだけがわたしの尊敬できるひとです。

 

アンネは自分のことを日記の中で二重人格だと表現しています。たいていの人は、アンネのことをわがままででしゃばりだと感じているのだけれど、キティーにだけにみせるより良い、りっぱな一面もあると。いつもみんなにみせている明るい道化のアンネ、もうひとつは、傷つきやすい、繊細なアンネと。

 

ときどきわたしは自分に問いかけます。ユダヤ人とか、ユダヤ人でないとかにかかわらず、わたしがたんにひとりの少女であり、はしゃいだり、笑ったりすることを心の底から欲している、このことをわかってくれるだろうか?でもわたし自身には答えられませんし、このことをだれかに話すこともできません。話せばきっと泣いてしまうでしょうから・・・。

 

アンネは、いつ自分たちが自由になれるかわからない隠れ家での状態のなかで、つらい時期を過ごします。自分は孤立していて途方もなく大きな真空にかこまれている気分・・・② だと感じていました。戦争中の過酷で異常な環境でアンネの内面は実際の年よりも急激に成長してしまいます。

ですが、まわりは、アンネが大人へと成長していく過程で苦しんでいることに気がつきません。隠れ家の中で一番年下でいつも怒られ役だったアンネは、一人のりっぱな人間として扱われることを望んでいましたが、その気持ちは誰にも、大好きななお父さんにも理解してもらえませんでした。日記の中でだけ、アンネは、本当の自分になれたのかもしれません。

 

わたしはますます両親から離れて、一個の独立した人間になろうとしています。・・・

わたしがわたしとして生きることを許してほしい。

ときどきわたしは、神様がわたしをためそうとしていらっしゃる、そう考えることがあります。・・・わたしはほかにお手本もなく、有益な助言も得られないまま、ただ、自分の努力だけでりっぱな人間にならなくてはなりません。

ここでキティーに約束しましょう、どんなことがあっても前向きに生きてみせると。涙をのんで困難のなかに道を見いだしてみせると。

 

アンネは、これまでの自分のことを反省し、両親へのなまいきな態度や嫌いだったファン・ダーンのおばさんにも理解を示すようになります。

勇気と信念とを持つひとは、けっして不幸におしつぶされたりはしない・・・③、アンネは強い気持ちをもって、また平和な世界になると信じていました。

 

つねに勇敢に、強く生き、あらゆる不自由を忍んで、けっして愚痴を言ってはなりません。

このいまわしい戦争もいつかは終わるでしょう。いつかはきっとわたしたちがただの

ユダヤ人ではなく、一個の人間となれる日がくるはずです。

 

 

アンネの日記の出版

ユダヤ人にとって絶望的な環境下にあっても、アンネはあきらめませんでした。隠れ家生活を「危険でロマンティックな冒険」とし、ほかの少女とは異なった生きかたをし、おとなになったら、普通の主婦たちとは、異なる生きかたをしてみせる、と日記に書いています。

アンネはドイツのベルゲン・ブルゼン収容所で亡くなりました。ガス室はなかったものの衛生状態が悪く、ほとんどの人が飢えと病気で苦しみ亡くなりました。アンネとお姉さんのマルゴーもチフスに罹り亡くなっています。15歳の生涯でした。マルゴーがチフスで亡くなった3日後、アンネは、裸で毛布にくるまった状態で一人息を引き取っていました。

2人の死亡日時は、はっきりわかっていませんが、1945年の3月の初めごろといわれています。収容所が英軍によって解放され中の人たちが救出されたのは、4月12日でした。

 

生き残ったアンネのお父さんは、周りの薦めもあり、1947年にアンネの遺した日記を出版しました。

すると、世界中でベストセラーになります。

アンネの日記は、アンネが、戦争が終わったら公表するつもりで、書かれたものです。

オランダ政府は、ドイツ占領下の国民の苦しみの記録を募集すると発表していました。

アンネは、ラジオでそのことを聞きぜひ自分の日記を応募して出版してもらおう、と考えていたのです。もともと書いていた日記を清書し、登場人物を仮名にしたりと手を加えていました。

日記があまりにも良く書けていたため、本当に15歳の少女が書いたのか、信憑性を疑われたくらいでした。もちろん、今では、正真正銘アンネ自身が書いたものだと証明されています。

アンネは、将来作家かジャーナリストになりたいと考えていました。

アンネは特別な少女だったのでしょうか?

 

その他大勢の女性たちのように、毎日ただ家事をこなすだけで、やがて忘れられてゆくような生涯を送るなんて、わたしには考えられないことですから。周囲のみんなに役立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。わたしの周囲にいながら、わたしを知らない人たちにたいしても。わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!

 

 

アンネの日記本文はすべて「アンネの日記 増補新訂版」深町眞理子訳 2003年文藝春秋 949/フ (中央・西原・笹塚・代々木所蔵)

から引用した。

また、①、②、③の文章、写真の引用も同書を使用した。

参考文献

「写真集 アンネフランク 訳編」 木島和子 小学館 289/フラ (中央保存庫所蔵)

「新版 悲劇の少女アンネ」 シュナーベル著 偕成社 28/フ (中央・富ヶ谷・笹塚・本町・臨川・笹塚こども所蔵)

「アンネ・フランク最後の七カ月」 ウィリーリントヴェル著 徳間書店  289/フ(渋谷所蔵) 316/リ(笹塚所蔵)

「この人を見よ歴史をつくった人々伝7」 アンネフランク ポプラ社 28/コ(中央・笹塚所蔵) 28/フ(笹塚こども所蔵)