∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」

  ―― 水野氏史研究ノート ――

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C-3 >水野三郎右衛門元宣(その6)

2006-07-22 19:27:05 | C-3 >山川山形水野

                               水野三郎右衛門元宣から藩主への嘆願書



水野三郎右衛門元宣(その6)

◎水野三郎右衛門元宣略傳
  「水野三郎右衛門元宣略傳(復刻版)」発行者:松野尾繁雄(*1) 1988年5月20日
   昭和十年(1935)五月、水野三郎右衛門元宣墓碑改修委員発行の『水野三郎右衛門元宣略傳』の復刻版――
上記を基に筆者が現代文に訳したものである。

10.藩主へ嘆願書
 三郎右衛門が謝罪嘆願のため、米沢から福島へ行き、更に二本松に至り、嘆願は聞き届けられたが、この日数はほとんど十日間を要した。三郎右衛門が二本松に到着した九月十九日、薩州兵隊は上の山に多数入り込んだが、三郎右衛門からは未だ何にも状況を知らせる便りがないことから、山形藩老等は薩摩軍参謀黒田亮介へ嘆願書を差し出したところ、開城し器械を差し出すよう達しがあった。二十一日、薩摩藩は山形へ多勢で来藩し、同藩会計方西徳次郎は城内の器械等を検分し、謝罪嘆願は聞き届けられ、器械等はそのまま残らず渡された。更に庄内征伐の先鋒を命じられ、嘆願書の趣旨が発効するまで、家臣一同は謹慎するようにと達せられた。参謀黒田亮介への嘆願書は、水野和泉守の家来雄蔵源右衛門の名で書かれた。一方、藩士鈴木武治、志賀幸内が隊長として庄内に出兵したが、庄内藩もまた降服謝罪の意を表したことで開戦には至らず、薩摩藩会計方西徳次郎の命により山形に引き揚げた。また西徳は、謝罪降服した各藩に対し、主裁者を出すよう命じたが、山形藩は藩主不在であることから、藩老等は藩主に対してまでも謝罪書を提出させてはならないという次のような謝罪書を作って、十月末日、秋元鐵輔を上京させ藩主両公に提出した。

微臣(*2) 元宣等は、誠に恐れ多いことながら嘆願申し上げます。先頃奥羽大藩に従って出兵し、
事の成り行きにより官軍に抵抗致しましたが、この度米沢藩から天子の有難い思し召しを伝えられ、
御直書(*3)をもって、含みを持たせて仰せつけられたご趣意については、帝を敬い奉るほかには
他意は無いはずのところ、その後道路は閉じて塞がれ、連絡を断たたれた遠く離れた土地にあっては、
今どのような状態にあるかという事情をよく知らずに、正誤の判断を誤り方向を失い奥羽のこの先は
無いものと後悔致しました。官軍参謀殿へ謝罪嘆願を願い出たところお聞き届けいただき、庄内征伐の
先鋒を仰せ付けられ、謝罪嘆願書が効力を発するまで、主だった采配者は厳しく謹慎を致し、お達しが
あってからは、家臣達は頑固で愚かで荒れて暴れるような振る舞いは全くなく裁きにまでは至らず、
一同はよく謹慎致しており、ここに偏に嘆願申し上げます。
 十月
                        水野三郎右衛門元宣  (花押)
                        水野式膳信〓(車偏に兒)(花押)
_________________二本松大炊義達    (花押)
_________________鈴木文右衛門敬昌   (花押)
                        大道寺舎人直利    (花押)
                        志賀淺右衛門直   (花押)
                        拝郷五左衛門直道   (花押)
                        水野小河三郎將義   (花押)
                        友松彌五左衛門信義  (花押)
                        石原兵治右衛門重明  (花押)
                        水野雅楽之助信行   (花押)
因みに、前文中「御直書」云々とあるのは、去る六月一日をもって、藩主父子から藩臣等に出した次の書面を指したものである。

 現在その地の形勢が切迫していることは致し方なく、朝廷に対する大いなる不敬の罪からは逃れることは出来ず、
時期を待って道義が立つよう法に従う所存である。委細は淺右衛門に申しおいた。
 六月一日
                                 忠弘
                                 忠


11.三郎右衛門の決心
 各藩の降服嘆願書は、藩主の名を以て提出したが、会津藩は藩主および藩臣、山形藩は藩主不在のため家臣の名を以て差し出したものの、軍務局では藩主をことごとく極刑に処することに忍びないことから、各藩主から主宰者を差し出すこととした。その直後、降服許可と共に山形藩主からもこのお達しがあったので、藩老等は評議したが三郎右衛門は言うまでもなく藩老の主席であることから、自ら進んで主宰者の責任を取り、藩主に対して藩老連署の嘆願書を差し出すと共に、自身一人の嘆願書(添付写真)をも次のように差し出した。

微臣 元宣誠惶頓首奉嘆願候 先般以
御直書 被 仰含候御旨奉敬承候に就きては益々
王事遵法の道相守候外他念は毛頭
無御座候處山形表の儀は大藩國の間に接し
罷在候に付奥羽各藩に従ひ順逆を誤り恐多くも
奉抗 官軍候事件に立至り誠に恐懼
至極奉存候處今般米澤侯降服之趣傳承
仕候に付不取敢謝罪嘆願仕候處
御聞届に相成候得共 主裁し者嚴敷謹慎
罷在候様御達有之奉恐入一同謹慎罷在
此上之 御處置一同より奉嘆願候得共全く
順逆を誤り候主裁の者は則元宣に御座候に付
別而謹慎罷在申候 依之外一同へは何卒寛典

御沙汰被成下元宣へ如何様之
御沙汰にても被 仰付被下置候様仕度
奉存候此段偏に奉嘆願候誠恐誠惶謹言
  十月                    水野三郎右衛門元宣 (花押) 

 三郎右衛門が一身を持って、一藩の犠牲にそなえるという決心で、頑固として貫くのは、確かに忠義の心で正義を貫くものであると言える。 
慶応四年(1868)九月、明治と改元された。
十月二十三日、大総督府御使番から在京の藩主のお呼び出しについて、公用人關口鈞が出頭したところ、由井九十九を通じて次のようにお達しがあった。

                               水野和泉守
在国の家来謝罪嘆願之趣被聞届候條名分順逆を誤候主裁の者厳重に
謹慎可申付旨御沙汰候事
 十月

 この達書は十月二十六日に出て、飛脚便で十一月四日に山形に到着した。即座に三郎右衛門の名代水野藤五を呼び出し、厳重謹慎の旨を達したが、三郎右衛門はこれより先の十月二十九日、藩主父子へ嘆願書を提出すると、既に風邪であると届け出て、役所へは出勤しなかった。しかも厳重謹慎の達しを得たので一室に籠居して一層謹慎した。(この日以来日記を廃した)
十二月、東京から山形藩に対し、奥羽同盟の始末および戦争に関する届書を出すよう制裁が下されたが、仙台藩白石において開かれた会議に三郎右衛門および笹本籐馬の両人は出席はしたが、三郎右衛門は一日早く帰藩したので一部始終を知らないことから、謹慎中ではあるが笹本を自邸に呼んで事実を聞き取り、苦心して届書を書き記し、藩主に提出した同盟届書は次の通りである。

 辰(1868)閏四月六日、仙台、米沢両藩の重役 竹俣、千阪、但木、坂の四名の名で、
陸奥守ならびに彈正大弼儀会津容保の御追討の先鋒を仰せつけられた。陸奥守が出
陣したところ容保の家来達が陣門にやって来て、降服謝罪の嘆願申し出に衆議一致し、
白石陣中に早々出張云々という書面に接したことで、水野三郎右衛門と笹本籐馬は同
道し、閏四月八日に山形表を出立し、同九日白石へ着きました。当地では仙台侯は三
月中頃から当地へ出陣しており、同十一日に米沢侯も白石に着き、同夜仙台但木土佐、
米沢竹俣美作両名で度々衆議を行う間、片倉小十郎の家来佐藤雄記宅へ早々と出席
した様子を廻し文により知り出向しました。仙台藩坂英力、但木土佐、米沢藩千阪太郎
左衛門、竹俣美作等が聞いたところでは、この度会津藩の降服謝罪嘆願書を重役達か
ら陣門へ差し出した事に付いて、国情を探索したところ相違はなく、これによって仙台侯
米沢侯の両中将から総督府へ嘆願書を取り次いで届けるということで、各藩においても
共に同意し別紙の通り嘆願書へ連名するようにと聞かれた。早速各藩重役も集まって
評決する様子であり、山形藩は大国の間に接しており、何分にもその意を説明すること
は難しいことから、書き判に加わりました。各藩の出席者の姓名および嘆願書は次の通り
であります。
(嘆願書及び姓名は別記の如し(*4))
                          水野三郎右衛門

[連署者の姓名のみ全25名分を連記する――姓名に後に全て花押がある]
伊達陸奥守内 但木土佐/上杉彈正大弼内 竹俣美作/南部美濃守内 野々村眞澄/佐竹右京太夫内 戸村十太夫/津軽越中守内 山中兵衛/丹羽左京太夫内 丹羽一學/松平大學頭内 岡田彦左衛門/戸澤中務大夫内 舟生源右衛門/南部遠江守内 吉岡左膳/阿部美作守内 梅村角兵衛/相馬因幡守内 相馬靱〓(刀の下に貝)/秋田満之助内 秋田帯刀/水野眞次郎内 水野三郎右衛門/安藤理三郎内 三田八彌/松前志摩守内 下岡彈正/板倉甲斐守内 池田権左右衛門/六郷兵庫守内 六郷大學/本多能登守内 石井武右衛門/岩城左京太夫内 大平伊織/内藤長壽内 池田彦助/立花出雲守内 屋山外記/生駒大内蔵内 椎川嘉藤太/田村左京太夫内 渡邊五郎左衛門/織田兵部大輔内 長井廣記

因みに、十二月七日忠精は次ぎの如く謹慎を命ぜられた。

                             水野和泉守
 この度在藩の家来どもが奥羽諸賊と同盟し、帝に抵抗し重大な事態を見誤ったことは、
そなたが在京中であったと言えども、結局は平生の教示が不行き届きに付き、お咎めが
仰せつけられるところを、格別の思し召しにより謹慎を仰せつけられた。
 十二月
                             太 政 官

なお、忠精の謹慎は翌明治二年(1869)五月二十六日に宥免(*5)された。


[註]
*1=水野三郎右衛門元宣の末弟・松野尾元明の五男(明治三十六年(1903)生。
*2=びしん。臣下が主君に対してへりくだっていう語。
*3=じきしょ。古文書の一様式。本人が署判して名宛人に直接自分の意思を伝達する書状。直状(じきじょう)。この場合は藩主父子から藩臣等への書面。
*4=「6.奥羽各藩の同盟書」の中の「太政官建白書(全文割愛)」。
*5=ゆうめん。罪を大目にみてゆるすこと。宥恕(ゆうじよ)。



                 舊邸池邊の老松(三郎右衛門旧邸宅、池のほとりの老松)





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