或る「享楽的日記」伝

ごく普通の中年サラリーマンが、起業に向けた資格受験や、音楽、絵画などの趣味の日々を淡々と綴ります。

フォーライフ(14)

2006-04-28 06:27:00 | 020 小説「フォーライフ」
◆隣室
真由美は、最近イライラしていた。亭主が浮気をしているのは間違いないと確信しているが、あのハートマーク事件以来、なかなかしっぽを出さない。取引先を旅行に連れて行ったり、そんな接待が社長の仕事の一つだと言われると、なかなかそれ以上突っ込めない。ええいシャクにさわる、こっちも遊んでやれと、忙しい片瀬を無理に誘ってハーバーランドに遊びにきた。

「ねえ、私最近ヘン?」「いや、別に、そうは思わんけど」「どうもね、亭主が浮気してるみたいなんだよ」「浮気かあ・・・」「片瀬さんて、浮気したことある」「浮気なあ・・・」「あるでしょ、普通。」「・・・」「それって、奥さんにバレたりしないの」「俺の場合はプロ相手で、その場限りだからな、それにほとんど外国だから」「東南アジアとか?よく聞くやつだね」「まあその辺だな」、そう答えながら、自分はずっと心は妻一筋、でもここには別の女がいる、と今さらながら、その状況に後ろめたさを感じていた。

「ねえ、あっちに白い建物が見えるでしょ、あれが前に話をしたリゾートホテルだよ、神戸メリケンパークオリエンタルホテル」「なんかいかにもって感じだな」「ねえ、あそこに行ってみようよ」「ああ・・・」、と奈緒美に言われるままにその方向へ歩き始めた。

ホテルに着くなり、フロントで真由美はツインの部屋をとり、片瀬を強引に連れて行った。もうあたりは暗くなり始めている。真由美は片瀬の腕を取りベランダに出ると、いきなり抱きついた。片瀬は突然のことに何もできないでいる。ぐっと抱き寄せれば話は早いのだが、こういう状況に慣れていないせいかそれができない。気まずい時間が流れ、真由美は何も言わず部屋に戻っていった。

片瀬は独りベランダにぼーっと突っ立っている。女がせっかく誘っているのに、それを分かってここまで来たのに、何を躊躇してるんだ。その時、隣りのベランダに人影が見えた。二人ともバスローブに身を包んでいる。何故かはっきりと男女の顔が片瀬の記憶にインプットされた。また別の場所で再びこの男の顔を見ることになるような予感がした。

隣人に刺激を受けたのか、もやもやした気持ちが吹っ切れた。部屋戻るなり、真由美をベッドに押し倒した。人生に一度ぐらい、男らしく決めてみろ、そう別の自分が話しかけてくる。普段真面目な片瀬にしては、珍しく興奮していた。

◆ウェスティン都ホテル京都
東山にある地下鉄蹴上駅から歩いてすぐの所にウェスティン都ホテル京都はある。敷地内には京都市文化財に指定された葵殿庭園を持ち、ホテルからは北山連峰、比叡山、東山連峰の山々の景色が楽しめる。市街地からは少し離れていて、閑静という意味では最高のロケーション。

高台寺を出ると、広之は美和子を車に乗せて、京都では老舗として有名なこのホテルに向かった。駐車場に車を止め、ロビーに立ち寄った後、3Fにある鉄板焼き「くぬぎ」へ。店に入ると、一番奥の目立たない場所に席がリザーブされていた。二人はそこでコース料理を堪能。ワインで頬が赤く紅潮した美和子が楽しそうに喋るのを見ながら、全て予定通りと広之は自分の手際の良さに感心した。

「実は今日は部屋をとってあるんですよ」「・・・」「いや、別に変な意味がある訳じゃないんだけど、ジュニアスイートが使えるってさっき分かったから」「ジュニアスイート?何ですかそれ?」「たまたま空いていると、ワンランク広い部屋を使わせてくれるらしいです、飛行機だとアップグレードとかよくありますよね」「どんなお部屋なんですか?」「いや、よく知らないけど、スイート程じゃないけど、広いのは広いみたい」「へえー、見てみたいわ」「でしょ、とにかく行ってみましょうよ」

広之は、こういう誘い方が恐ろしくうまい。ちゃんと女性に部屋に行く口実を与えている。まさに外堀から埋めていく。二人はレストランを出て、館内に見惚れて歩いているうちに部屋に着いた。ドアを開けると室内の広さにビックリ。普通のツインの倍以上。美和子が感激しているのがすぐに分かった。

「すごく広いわね、高いんでしょ、このお部屋?」「いや、普通のツインと一緒ですよ、気に入りました?」「ええ、広之さんは初めてじゃないんでしょ?」「いや、初めてですよ、でもすごいなあ」「なんだか新婚旅行に来たみたい」「そうそう、そんな感じ」

広之の言葉には少し誤りがあった。確かにホテルがこの名前になってから来るのは初めて。もともとこのホテルは「都ホテル」という名前だったが、数年前にスターウッドのウェスティンブランドの仲間入りをした後で大改装し、現在の名前に。広之は昔ここに来ていた。別の女と。部屋もその時と同じジュニアスイート。ただし微妙な嘘というのは、ほとんど誤りに近い。

音楽が欲しくなりFMをつけると、聞き覚えのある声が流れてきた。ジェームス・テイラーのヴォーカル。マイケル・ブレッカーのバラード集「Nearness of you」のタイトルチューン。ハービー・ハンコックのピアノが洒落ていて、気に入っているアルバム。いい夜になりそうな、そんな予感がした。

美和子は窓から遠くの京都市街の灯りを眺めている。広之は、後ろからゆっくり美和子に近づき、肩を後ろからすっと抱き寄せた。言葉のいらない時間が流れた。

翌朝、二人で遅い朝食を済ませた後、清算のため独りでロビーに向かう途中、広之の目に玄関から入ってきた女性の姿が飛び込んだ。うわっ。突然のことにかなり驚いた。妻だ。どうしてここに。とっさに通路を気づかれないように引き返す。柱の影に隠れながら、そうか、「Nearness of you」は、「Near-miss of you」の間違いだったのか、と昨晩の曲を思い出した。


Nearness of You: The Ballad BookNearness of You: The Ballad Book

フォーライフ(13)

2006-04-28 06:22:32 | 020 小説「フォーライフ」
◆芦屋「Left Alone」
植田と貴美子は芦屋のジャズクラブ「Left Alone」にいた。ここはJR芦屋駅から北に入った閑静な住宅街の一角。ひっそりとした佇まいは、まさに隠れ家。都会の喧騒から離れて静かな時間を楽しむにはもってこいの場所。

「そうそう、メール見たけど、旦那が出張するんだって?」「うん、今週の金曜日から土、日の3日間、東京なんだけど、なんか最近出張が多いんだよね」「そりゃちょうどいい、その岡山のジャグジー付きのホテルを予約しておいてよ?」「任せなさいって、もう予約済みだよ、だってジャグジー付きは2部屋しかないから、すぐに押さえておかないとね」「さすが、そういう所ホントすばやいんだから、天性の遊び人だよな」「それって、褒めてるの?」

二人が話をしていると、貴美子が注文したお気に入りのバーボンソーダがすっと目の前に。この店で普段使っているのは、「Jim Beam」と「Four Roses」。今日はレア物のバーボンが手に入ったと、マスターが特別にケッタッキーの高級ブランド、ブラントン(Blanton’s)を出してくれた。このバーボンはブレンドではなく、珍しい樽出し品。その濃厚な味わいは他に類を見ない。

一口飲み始めた時に、独特の金属質のヴォーカルが流れてきた。カーメン・マクレーの「The Great American Songbook」.。彼女の代表作として有名なアルバム。最初の曲、“Satin doll”を聴きながら、貴美子がしゃべり始めた。

「ねえ、”Satin doll”ってどういう意味か知ってる?」「知ってるよ、娼婦だろ?」「へえー、知ってるんだ」「そりゃ、ジャズには結構うるさいからね」「だからこのお店も知ってるんだ」「ここなら知り合いにまず合わないだろ?」「そうよねえ、娼婦と一緒の所を見られちゃねえ」「馬鹿、なんで娼婦なんだよ」、娼婦というところだけ大きい声を出した貴美子を見て植田は慌てた。

5曲目は、“What are you doing the rest of your life?”(これからの人生)。「なんかしっとりして、いい感じだね」「ミシェル・ルグランの曲で、私はこれからもずっとあなたと一緒っていう歌詞だったかな」「ねえ、これからどうするの?」「どうするって?」「私とどうするのかってこと?」「だって旅行にいくんだろ?」「そうじゃなくてその後よ」

6曲目は、”I only have eyes for you”(瞳は君ゆえに)。「そう言えば、この曲は古谷充のヴォーカルのオハコだったよなあ」「誰?その人」「関西のアルトサックスの重鎮だよ、ヴォーカルもなかなかでね、昔大阪のライブハウスでよく聴いたもんだ、そうそう、この店でも聴いたことがあるなあ」「へえー、うちのダンナも音楽好きだから、今度知ってるかどうか聞いてみるね」

7曲目は”The days of wine and roses/It's impossible”と続くメドレー。「酒とバラの日々かあ、貴美子ってさあ、バラみたいだよな、ピンクの」「どうして?」、「チャーミングだけどトゲがある、ハマったら後が大変そうってこと」「あはは、分かってるじゃない、でも私はハマらないわよ、それはインポシブル、だってダーリンを愛してるんだもん、ところでさあ、ティファニーのクロスでいいの見つけたんだけど、買ってくれない?、買ってくれなきゃ奥さんにチクっちゃうかもよ「ほら、言ったこっちゃない」

二人は、笑みを浮かべてそんな話をしながら、岡山の温泉への旅に胸を弾ませた。

The Great American SongbookThe Great American Songbook

◆ホテル・アイリス
奈緒美はいつになくそわそわしていた。朝起きてカーテンを開けると、明るい太陽が差し込んでいる。今日は洋菓子の展示会。待ちにまった土曜日。朝食はわざと抜いた。甘いものは別腹とよく言うが、今日はいつもと気合いの入れ方が違う。昼食代わりに徹底的に食べまくるつもり。いつもより入念に化粧をして会場のウェスティン都ホテル京都へ。

地下鉄を降りて、ゆるやかに道を登っていくと、眼前に大きなホテルが。つい最近読んだ小川洋子の小説「ホテル・アイリス」で出てくる、民宿に毛が生えたような小さいのとは、まるで違う。改装後に来るのは初めてだったが、中に入ると、そのゴージャズな雰囲気に圧倒された。催し物の案内板で会場を確認した後、すこし胸をドキドキさせながら会場へ。

「奈緒美さーん、来てくれたんですね」、と言いながら、スーツ姿の佐藤が小走りに近づいてきた。「ええ、お言葉に甘えて」「いやー、嬉しいなあ、ホントに来てくれるなんて」「なんかすごくオシャレな展示ですね」「そういってもらえると嬉しいなあ、昨日からほとんど徹夜で準備したんですよ」「それはお疲れ様です」、と佐藤と話すうちに奈緒美の緊張はすぐに和らいだ。

「今日はね、ケーキから焼き菓子まで新製品を全部揃えたんですよ」「へえー、私甘いもの大好きだから」「そうそう、あっちのテーブルに好きなだけ持っていって試食してみて下さいね、気に入るのがあればいいけどなあ」「ありがとう・・・」「僕は、まだ準備が残っているから、また後で来ます」「ええ、私のこと気になさらなくてもいいですから・・・」

奈緒美は好都合だと思った。ずっと一緒にいられると、遠慮して少ししか食べられないかもしれない。佐藤が去ると、早速生菓子コーナーへ行って品定めを始めた。もう目移りするぐらい、素敵なスィーツが並んでいる。本当は、端から端まで全部食べたいところだが、人目もあるし、少しずつ選んで食べているふりをして、回数を重ねて全部を網羅しようと意気込んだ。

試食を始めて約1時間。かなりの量を食べ終わった頃に佐藤が近づいてきた。「どうですか、うちの新製品、お気に召したかな?」「うーん、どれも美味しそうで目移りがしちゃって、あまり食べてないんですよ」「それはもったいない、まだまだ時間はあるから、しっかり楽しんでいって下さいね」「ええ、でも太るのいやだから、あと少しだけ・・・」

佐藤は、奈緒美のその言い方に可愛いらしさを感じた。確かに若干太ってはいるが、逆にそれが健康的な明るさを醸し出している。その素朴さは、自分の女房にはない所だなあとつくづく思った。

奈緒美は、それから残りのほぼ全ての新製品を食べた。どれにも満足したが、やっぱりアンリは、神戸に遊びに行った時に本店で食べたクレープ・シュゼットが一番だなあと思った。

小川洋子 ホテル・アイリス小川洋子 ホテル・アイリス