1994 ブログのタイトル『老い生い』に変更した
老人という言葉の響きから、老人は負のイメージがあり、いつの間にか「できた」ことが「できなくなった」り、惚けてきたりする。
鏡の前に立つと「おまえは誰だ」、と叫ぶ認知症老人の言葉に、自分に向けられた言葉なのか、とはッとさせられてしまう。顔躰は老醜の呈となり喪失の時代にある。そんな老いに抗い、老いは楽しく生き往くものだ、と捉え過ごしてきた。
老いてもまだ仕事をせねばならない躰にあるけれども、死のことが気になりだしてきた。
老いの身にある自分。老い生いのはかなさと無力さを思う。
物はいつか失くなる。貧しさのなかに育ち、「高度経済成長」とテレビに毒され生きてきた。いつの間にか、物欲に溺れ大切な心を見失ってきたのではないか。
老いたいまになって気がついた。そんな生きることのはかなさとかなしさ。
この先、いつ人生の幕が降りるかはわからなさのなかで、おいおい(老い生い)の出来事を遺せたなら、と思っいる。
老人という言葉の響きから、老人は負のイメージがあり、いつの間にか「できた」ことが「できなくなった」り、惚けてきたりする。
鏡の前に立つと「おまえは誰だ」、と叫ぶ認知症老人の言葉に、自分に向けられた言葉なのか、とはッとさせられてしまう。顔躰は老醜の呈となり喪失の時代にある。そんな老いに抗い、老いは楽しく生き往くものだ、と捉え過ごしてきた。
老いてもまだ仕事をせねばならない躰にあるけれども、死のことが気になりだしてきた。
老いの身にある自分。老い生いのはかなさと無力さを思う。
物はいつか失くなる。貧しさのなかに育ち、「高度経済成長」とテレビに毒され生きてきた。いつの間にか、物欲に溺れ大切な心を見失ってきたのではないか。
老いたいまになって気がついた。そんな生きることのはかなさとかなしさ。
この先、いつ人生の幕が降りるかはわからなさのなかで、おいおい(老い生い)の出来事を遺せたなら、と思っいる。
お正月を寿ぎ喜ぶ気分が、何処かに吹っ飛んで、
唯々、テレビにくぎ付け状態。
厳しい現実から、賢く学び、新しく生まれ変わっていかねばなりませんね。
その力を信じて、祈るしかありません。
老いが現実の我がこととして感じるようになりました。
頭で思っていた? 老いの姿とは違い、現実は厳しく困難なものだと解ってきました。
上手に、生きていけると良いなぁ~と願っています。
コメント ありがとうございます。
自分も老いの門をくぐる前は
要介護認定を受けた高齢者(老人)に対し、
「歩かないと筋力低下するよ」「自分のできることをしないと”できた”ことも”できなくなるよ”」、と無神経に話していました。
いざ自分が老いに入ったとき、
年々齢が増えるにつれ、足が上らなくなり、歩く速度も目に見えるように落ちてきました。
車の乗り降りも、スムーズにいかなくなり、wifeから「降りるの遅いよ」、と小言を頂くようになった。
お茶を飲むとき、たまにむせることも出始めてきた。
しまい忘れ、置忘れも出てきました。
老いるとは、こんなことを指すのか、と始めて実感しました。
でも、身体の衰え、集中力の持続性の低下などもろもろあるけれど、「老い」を認め受け容れていくしかない、と前向きに捉え直しています。
yasuragi samaのお言葉のように「上手に」老いを「生きていけると良いなぁ~」と、自分も同感します。