Mrヘルの緩~い生活

ベンツG350d・パッソル改パッジョグ&アプリオ・キャンプ・釣り・御食事・旅・音楽等をベースにした初老の絵(写真)日記

2020冬みちのくへの旅@岩手県平泉町/関山 中尊寺(前半)

2020-08-01 | 旅行記
アチラを出たオイラ達が向かったのが・・・

気になっていたがなかなか訪問出来ていなかった初訪なコチラへ!



【駐車場】
若干雪の残る駐車場へ愛機を停め・・・

GO!

<中尊寺の御由緒>
中尊寺は嘉祥3(850)年、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開かれました。

その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行われました。

清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもありました。

清衡公は長治2(1105)年より中尊寺の造立に着手します。まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します。

この伽藍(がらん)建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したものでした。

清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした。

清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています。

この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。

諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味です。

法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだといいます。

二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立しました。

三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました。

平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした。

しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5(1189)年奥州藤原氏は滅亡したのです。

鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退し、建武4(1337)年の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失しました。

しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。

平成23(2011)年に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載されました。

以上。公式HPより勝手に抜粋・・・













【月見坂】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

県道30号線より中尊寺坂下へと足をすすめると、月見坂と呼ばれる坂の入り口へとたどり着きます。

中尊寺は標高130mほどの東西に長い丘陵に位置しているため、この坂が古くから本堂・金色堂へと参拝する人々の表参道として利用されてきました。

参道をのぼり始めると、両脇には江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数えようかという幾本もの老杉が木陰を作り参拝客を迎えます。

老杉と山の空気が作り出す荘厳な雰囲気に浸りながら足をすすめると、右手には奥州藤原氏に縁の深い束稲山・北上川・衣川を眺望することができます。

古の俳人芭蕉翁をはじめ多くの旅人がここで足を止め眼下に広がるその光景を眺め、在りし日の平泉の栄華に想いを馳せたに違いありません。

以上。公式HPより勝手に抜粋・・・

凍っていて滑りやすいので極寒な季節はご注意を・・・























【八幡堂】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

天喜5年(1057年)鎮守府将軍源頼義、義家、安倍氏追討のためこの地に至り月見坂で戦勝祈願。

明治の神仏分離で八幡堂と称し阿弥陀如来尊像も合祀。

以上。どこぞかのHPより勝手に抜粋・・・





































【弁慶堂】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

表参道沿いには諸堂が点在しますが、ほとんどが江戸時代中期以降に再建・移築されたものです。

境内の木々と共に四季折々にいろいろな表情を見せてくれます。

弁慶堂は文政10(1827)年の建立で、ご本尊は勝軍地蔵。

古くは愛宕堂と称していましたが、義経・弁慶の木像を安置し、明治以降は弁慶堂と呼ばれるようになりました。

堂内の格天井には60種余りの草花が描かれています。

以上。公式HPより勝手に抜粋・・・

顔ハメ看板があったので当然ながら相方の趣味である撮影会・・・笑









【地蔵院】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

建長2(1250)年作の金銅「孔雀文磬」(国宝)中尊寺建立当時のものとみられる金銅「千手観音像」(重要文化財)を所蔵する。

こちらは立ち入り禁止となっておりました!

























【地蔵堂&奥の細道展】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

1877年の再建で、本尊は地蔵菩薩(じぞうぼさつ)。

また隣に建つ祠(ほこら)には道祖神(どうそじん)が祀(まつ)られています。

<松尾芭蕉と中尊寺>
源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2(1689)年、松尾芭蕉は門人の曽良と2人、「奥の細道」の旅に出ます。

芭蕉46才、曽良41才の春です。

江戸を発ってから44日後の5月13日、細道のはて平泉を訪れた芭蕉は、まず義経公の居館があったと伝えられる高館の丘陵にのぼります。

丘の頂きに忽然とあらわれるのは束稲山のふもとに悠然と横たわる北上川と、それに合する衣川。

そこには往時の栄華はなく、旧跡は田野となってひろがっているばかりです。

<夏草や 兵どもが 夢の跡>
「国破れて山河あり、城春にして草木深し」という杜甫の句を思い起こしながら芭蕉はしばらく高館に笠を下ろします。

続いて中尊寺を訪れた芭蕉は、かねてより伝え聞いていた金色堂に参詣します。

鎌倉北条氏によって建てられたといわれる覆堂の中で、朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかけます。

<五月雨の 降り残してや 光堂>
金色堂を光堂と称したのも、仏と人との間に介在する光と、その光の彼方にある盛衰の歴史に、芭蕉のまなざしが向けられていたからに相違ありません。

以上。公式&どこぞかのHPより勝手に抜粋・・・

そんな話よりもオイラはコチラで抹茶を楽しみたかった・・・笑











【薬師堂】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

1885年の改築で、本尊の薬師如来(やくしにょらい)、日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)と十二神将(じゅうにしんしょう)を安置し、和歌山県の熊野より飛来したと伝えられる熊野権現(くまのごんげん)の御神体を並び祀(まつ)っています。

正月4日には中尊寺一山(ちゅうそんじいっさん)の僧侶(そうりょ)によって修正会(しゅしょうえ)が行われます。

以上。公式HPより勝手に抜粋・・・









【観音堂】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

観音堂は観音菩薩が所蔵されているお堂。

































































































【本堂】
じゃじゃ~ん!

こ~んな感じ・・・

中尊寺というのはこの山全体の総称であり、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院です。

本堂は一山の中心となる建物で、明治42(1909)年に再建されました。

古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められます。

本尊は丈六の釈迦如来。像高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像です。

中尊寺の大壇主藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい平成25(2013)年に造顕・開眼供養されました。

中尊寺は天台宗の天本山であり、本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されています。

中尊寺の寺格は別格大寺、天台宗東北大本山です。

以上。公式HPより勝手に抜粋・・・

オイラ的には白い象が気になりましたねぇ~
※お子ちゃまなんで・・・笑

で・・・文字数(写真も含め)が多くなったので前後半の2部構成とさせて頂きます!

前半編はこれにて終了!


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