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塩田剛三十段取得の経緯について

2008年04月11日 22時57分08秒 | 法務
タイトルからして、塩田剛さんが三十段なわけではないです。念のため。でもそれに近いような話です。

http://www.geocities.jp/aikidokayama/kawaridane/kawaridane4.htm
によれば、

合気道の植芝盛平開祖と、養神館の塩田剛三宗家との逸話が書かれてある。

植芝翁やその他の人々が「岩間の奥ノ院」というのは、茨城県岩間町にある盛平翁の住居である。

 翁がここに千坪あまりの原野を買って、その松林の中に、はじめ仮小屋のような家を建てたのは昭和十五、六年であったが、そこへこもって修行のやり直しに専心したのは日本敗戦の年であった。

 その時から「力にほこる者はほろぶ」「合気道は戈(ほこ)を止める道だ」「その道を完成しよう」との大悲願を立てて、一心不乱の幾年となった。

 したがって、岩間時代の初期には、翁は至って悲観的で、自分のそれまでの合気をほとんど否定し、新しい道を模索していた。

 だから門弟の塩田剛三などがたまたま岩間を訪れて、

「先生は高齢で衰弱し、隠居してしまった。合気道の二代目はオレだ」とばかり、都民銀行の工藤昭四郎や国策パルプの南喜市の後援で、新宿区築土町に養神館道場を建て、合気の元祖のような態度で多くの門弟をあつめたのは、いささか短慮であった。

 塩田は植芝子飼の男で、道場長吉祥丸などといっしょに育った男だが、翁の真の精神を体得したとはいいがたい。

 若松町の本部道場が吉祥丸や藤平光一のこん身の努力で、隆隆と発展してくると、塩田のパトロンの南喜市が「本部道場と養神館を対等にしてくれ」「塩田に十段の段位をくれ」と申し入れてきたのに、

 「おう、おう、好きなようにさしたる。十段でも百段でもやる」と笑って答える翁であった。

 あとで翁は著者に語った。

「合気は段位でも道場の格でもない。そんなもんとはおよそ無関係や。南はんはシロウトやさかいしようがないが、塩田が、そないな世間のミエにこだわっているかと思うと、かわいそうでならん。ハダカ一貫になってわしのところへかえり、もう一ぺん修行をやり直したらええのやけど、あきまへんかなあ」

武道に段位というものが設けられているが、私自身は全く意味のないものだと思ってきた。政治家のプロフィール欄によく何道何段とか書いてあるのをみて、かつては「あ、こいつ馬鹿だ」ぐらいの認識があった。まあ、はっきり言って給与を払わなかった山本譲司元衆議院議員のことなのだが、ここまで思う必要はないけれども、ある程度の目安としては必要であると同時に、これにこだわるのはどうかと今は思う。

合気道の初段は、柔道三段・剣道三段ぐらいに取得が厳しい。通常の武道よりも二、三段上のようだ。・・・・と言っていること自体、気にしているのかもしれない。

逆に森田健作氏などは自分で剣道何段だとは言わないので、それが気になったりする私自身を買垣間見るに、やはり段位にこだわっているのかもしれないなとも思い反省する。

ちなみに私が山本さんと立川で飲んだ時、山本さんは「森田健作は史上最大のバカ候補者」であると言っていたことをここで暴露しておきます。

柔道・剣道で知る段位の認識としては、通常は八段までがその極めるところであり、よほど特別な場合に九段があり、さらに特殊な場合とか、新たに分家できるほどの場合は十段なのだろうなという認識がありましたが、植芝翁においては、百段でもくれてやるという。

現実に百段なんてもらったら、それこそ、よくあるふざけたクイズ番組で、
「それでは最後の問題は、得点が十倍です」
「おいおい、じゃあ今までのは何だったんだよ」的な突っ込みも出なくもないですが、

植芝翁にしてみれば、それと同じような感覚だったのではないかと考えられます。

このリンク先では、どうも塩田氏について下に見ている様子があるようですが、やはり晩年の塩田氏は植芝的宇宙レベルまでにはいたらなかったけれども、やはり武道というものは戦闘ではなく、平和のためにあるということを悟りながら、現実武道の方法を多くの人たちに教授したのではないかと私は思います。

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