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“男のためのガーデニング”改め

「豆腐田楽発祥の地」目川立場と歌川広重の石部宿~東海道五十三次の街道~

2024-09-29 15:00:00 | 風景・イベント・グルメ
 「豆腐」は平安時代末期に中国より伝わり、その後串刺しにして焼いたり、焼いた豆腐に味噌を付けたりして「田楽」として親しまれるようになったといいます。
子供の頃には祭りの日などハレの日におもてなしの料理のひとつとして食べた記憶があり、豆腐の上に乗っている味噌の甘辛さが今も好きです。

滋賀県の栗東市の目川は「田楽発祥の地」とされており、東海道沿いに面した街道筋には江戸時代には3軒の田楽茶屋があったといいます。
目川にあった「京いせや」「こじまや」「元いせや」という田楽茶屋は今は跡形もありませんが、「田楽発祥の地」という石碑が残っていました。



歌川広重の「東海道五十三次」の五十一番目の宿場・石部宿の田楽茶屋の様子が描かれており、店の暖簾には「いせや」の文字が見えます。
前を流れるのは野洲川と思われ、後方に連なる山は比良山系になるのでしょうか。

広重の浮世絵は、実際の光景を描写したものではなく、その地をより抒情的で風情のあるように描きます。
実際にその地を訪れてみると現実的ではない場面に出くわしますので、絵は伝聞と広重の想像力の産物ともいえます。
また浮世絵に登場する旅人や宿場の人物からも、それぞれの人のドラマを感じさせてくれて見る方が楽しめるようにもなっています。



広重は目川の田楽茶屋を石部宿として描いていますが、実際の目川は石部宿と草津宿の間にある立場(宿場と宿場の間に設けられた茶屋)になります。
東海道を実際に移動して見ると、石部宿から目川まではかなり距離があり、目川はむしろ草津宿に近い場所にあります。



石部宿にはかつての田楽茶屋が再現されていて、田楽や郷土料理が食べられるお食事処があり、ここでの食事を楽しみにしてやって来ました。
このところ豆腐田楽の食べ歩きをしておりますので、石部宿の豆腐田楽のお味はいかが?といったところです。



田楽茶屋は平成14年に旧石部制百周年記念事業として再現されたそうで、東海道沿いの曲がり角の一角にありました。
お店は一見観光茶屋に見えるのですが、この日は観光の客は当方たちだけで、地元のお年寄りが次々に訪れて食事しながらの社交の場になっているような感じです。



食事は「自然薯蒲焼き」の丼に「豆腐とコンニャクの田楽」郷土料理だという「芋つぶし」を注文。
すりおろして焼いた自然薯はミョウガ・大葉・ネギで丼になっていて、あっさりとして食べやすく滋養強壮食の自然薯と一緒に食べられますので夏に最適な料理です。



「豆腐とコンニャクの田楽」は赤味噌ベースの味で、豆腐は厚みがあって柔らかくて箸の間から零れ落ちそうな感じ。
「芋つぶし」は、里芋とご飯を一緒に炊いてつぶしてお団子にしたもので、この土地の郷土料理だそうです。
味噌だれと醤油だれの2個がセットになっていて五平餅をもっちりさせたような食感でした。(もうお腹いっぱい)



宿場内に石部宿と書かれた灯籠があるのは「西縄手」という場所で、石部宿に入る前に参勤交代の為の大名行列を整列した場所とされます。
縄手とは立場(休憩所)と立場の間の道の事だといい、石部宿の西にあることから西縄手と呼ばれるようになったそうです。





東海道を草津に向かって進んで行くと「旧和中散本舗」という豪商の店舗が見えてきます。
「和中散」は漢方薬の胃薬とされ、徳川家康が腹痛を起こした時にこの薬を飲んで治ったことから和中散と名付けられ、道中薬として重宝されたそうです。
店頭には暑気あたりなど夏の諸病に効くという「ぜざい(是斎)」の看板が掲げられ、東海道の両端に並ぶ建物の3棟は国の重要文化財に指定されているという。





東海道を草津方面に下ってきたのは「田楽発祥の地」の碑を探すためですが、いつまでたっても到着しません。
そうこうしているうちに梅ノ木立場の一里塚に来てしまったのですが、食事した田楽茶屋の近くにも一里塚があるので少なくとも4㌔は移動してきています。



一里塚からさらに下ったところに「田楽発祥の地」の碑(1枚目の写真)はありましたが、石部宿から梅ノ木立場・目川立場と距離がありました。
その後、やっと「田楽発祥の地」の碑(元伊勢屋跡)に到着しましたが、今は普通の民家ですので、余分な物を写さないよう気を使いながら写真を撮ります。

写真一枚目の「田楽発祥の地」の碑は「元いせや」跡にありますが、もう一つ「京いせや」跡にも碑が立てられていました。
「こじま屋」を含む3軒の田楽茶屋の田楽と菜飯は街道を通じて、西は京都北野天満宮、東は江戸の浅草寺など各地に広がっていったといいます。
田楽と菜飯のセットは「目川」と呼ばれて親しまれ、目川は田楽発祥の地として全国にその名を知られていったといいます。



目川は栗東市ですが、草津市と隣接していますのですぐに草津市の「うばがもちや本店」の前を通ることになります。
「うばがもち」は草津宿の茶屋で出された「あんころ餅」で、広重の東海道五十三次「草津宿」でも「うばがもちや」が描かれています。
草津宿は東海道と中山道の合する交通の要衝ということもあって人の往来はにぎやかで、これから江戸へ向かう人、京都まであと僅かな人、ここで会うのも一期一会。



誰もが長旅に出ることは出来なかった時代、広重の東海道五十三次を見て、旅やグルメへの想いを馳せた庶民が多かったことでしょう。
食べてばっかりですが、うばがもちや本店で「うばがもち」を購入。



草津は東海道と中仙道の交わる交通の要衝ですので、街道を行き来する多くの人たちが名物の餅を食べて旅路を進んだのでしょう。
「姥が餅」は、信長に滅ぼされた六角義賢の曾孫を養うため、乳母が餅を作って往来の人に売って質素に暮らしていた姿が名の由来となっているようです。



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