「極超音速ミサイル」の防衛手段は
「スクラムジェット」の可能性【日曜安全保障
防衛分野の最先端、「極超音速ミサイル」。
その脅威が、さらに日本に迫りつつあります。
防衛手段とは。 映像から分析します。
FNNプライムオンライン https://www.fnn.jp/
防衛分野の最先端、「極超音速ミサイル」。
その脅威が、さらに日本に迫りつつあります。
防衛手段とは。 映像から分析します。
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バドさんは、膝の痛みをこらえながら、一歩、また一歩と、歩みを進めて、
寄宿学校があった建物に入った。階段を降り、何カ所かのドアと廊下を通って、
その場所になんとか辿り着いた。今も地下1階にあるボイラー室だ。
ここで、ある経験を明かした。 9歳のとき、何度か会話をしていたという
教職員の男から「ボイラー室を見に行こう」と誘われた。
室内に入ると、石炭で湯を沸かすというボイラーの仕組みを説明されたという。
そして男は、バドさんを壁に押しつけた。 バドさんは当時と同じ場所に残る、
その壁に向かって語った。
「彼は、私を壁に押し付けたんです。何か他のものを見せてくれるのだろうと、
私は喜んで壁に向かいました。でも違いました。彼は私の首に指を回し始めました。
そして、私のシャツを引っ張り出して、服を脱がし始めました。私は悲鳴を上げていました。
私の服、靴、すべてを脱がされました。それから、私を弄んだのです。
彼は私の上に覆いかぶさり、私の心は悲鳴を上げていました」
職員の男からの性的暴行だった。恐怖心が今も強く残っているとバドさんは言う。
だが性的暴行は、この1回だけではなかった。 ある夜、ベッドで寝ていると、
身体に重みを感じたという。そこにいたのは、面識のない職員の男だった。
「すぐには目が覚めませんでした。半分寝ているような状態でした。
彼が毛布を取ると、それで目が覚めたんです。
その大柄な男は、簡単に私を押さえつけました。
うつ伏せにして、下着を脱がされ、何度も、何度も犯されました。
私は全力で抵抗しましたが、少年にできることは限られていました」
その後も、同じことが十数回、繰り返されたという。
レイプの経験については「恥ずかしさ」から誰にも報告できなかった。
初めて語ることができたのは、バドさんが50歳を過ぎてからだった。
弟も、性的暴行を受けたことを最近になって初めて告白したという。
世代が少し若いダイアンさんも、こう証言した。
「女の子だけでなく、男の子も多くがレイプされていました」
二人によれば、当時、校内で性的暴行を受けた少女が、
校舎の壁のレンガに「Help me」と文字を掘っていたという。
だが、そのSOSは外部に届かなかった。
モホーク寄宿学校で性的暴行が継続的に横行していたと見られる。
調査委員会の報告書によれば、他の寄宿学校でも多数の報告があるとされている。
食事や衛生状態も劣悪だった。ダイアンさんが、ある日の食事について語った。
器に穀物が入っていた。ぐつぐつと沸騰しているように見えたという。
ところが…。 「穀物は、ほとんど温かくなかったのです。
実は、その中にウジ虫が入っていたんです」
女の子たちはスプーンで一度、口に入れてから、歯を使って虫を取りだして、
テーブルの下に押し込んでいたという。 バドさんも常に空腹で、
ゴミ捨て場に行き、ゴミのなかから焦げたサンドイッチを拾ってよく食べたという。
それでも「飢え死にしそうだった」と話した。
虐待、劣悪な食事などから脱走を試みる子どももいたという。
バドさん自身も一度、脱走したがすぐに捕まり、
罰として何度も激しく鞭打ちされたと話した。
「あの大きな木の向こう側に、幼い子どもが埋まっていると聞いた」
建物の裏側にある木を指さしながら、バドさんは言った。
「多くの子どもたちが消えています。死んだのか、殺されたのか、わからないのですが…
あんなに酷い暴行があったのだから、死んでいてもおかしくない」
私たちがモホーク寄宿学校跡地に到着した日、10人以上の警察官らが
エントランス近くで地中調査に向けた作業を進めていた。
コンクリートの下に子どもが埋められているのか。
地中調査に使われていたレーダーは、深さ2.5メートルの状況を把握する性能があるという。
当日、作業をしていた責任者、ジェシー・スクワイアさん(26)の曾祖父母も、
モホーク寄宿学校にいた。 「元生徒たちの話を聞くと、
間違いなく、このあたりに遺体が埋まっているようです。
不幸なことに、人道に対する罪が数多くあったのです」
子どもの遺体が埋まっている可能性のある敷地は、
600エーカー、東京ドーム50個分に及ぶ。
調査をすべて終えるには、今のペースでは6年から10年近く必要だという。
こうした遺体探索の作業を、ジェシーさんは「歴史をつなぎ合わせている」と表現した。
元生徒のダイアンさんも遺体の発見を期待している。
「私たちの子どもたちを見つけたい。
そうすれば、彼らを安らかに眠らせることができ、
空へと旅を続けるのを助けることができるのです」
去年5月、カナダ西部カムループスでは、学校の跡地から
子どもと見られる約200体の遺体がレーダーの地中調査で発見された。
これまでに複数の寄宿学校の跡地周辺で、合わせて1000人以上の遺体が見つかっている。
だが、これも一部と見られる。カナダ当局の発表によると、
ローマ教皇の謝罪について、バドさんも、ダイアンさんも「意味がない」と突き放した。
直接の詫びがあっても「決して、許すことはできない」と語った。
寄宿学校での過酷な経験は、当事者たちのその後の人生に、あまりに深い傷を残した。
バドさんも、長い間、アルコール依存症に悩まされた。
虐待や性的暴行の記憶を「ごまかす」ために、酒に頼っていたと話す。
「彼らは、言語、勇気、立ち上がる意志など、多くのものを私から奪ったのです。
彼らは全てを奪ったのです。 銃も撃つこともなく、全てをやったのです」
言うまでもなく、カトリック教会の責任は極めて重い。
だが、宗教だけの問題と捉えるべきではないだろう。
なぜ長き年月にわたり、愚劣の極みとも言える性的暴行が横行し、
数千人という命が奪われるまでの大規模な虐待が見逃されたのか。
少数派の先住民に対する「人種差別」、子どもという「弱者の人権蹂躙」。
こうした問題は、今の時代にも通底する人類の課題でもある。
また現在のカナダ政府の、「多様性こそが力」という姿勢があるが故に、
寄宿学校の実態調査が進んだとも言える。当事者にとっては十分ではないが、
ローマ教皇とともに、少なくとも「過去の過ち」に正面から取り組んでいる。
今回のケースは、自国が抱える“歴史の闇”にどう向き合うのか、
という問いを考える材料にもなるだろう。
※動画はこちらから。 https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/105426
ニューヨーク支局長 萩原 豊
「心から深くお詫びします」極めて異例の謝罪となった。
85歳という高齢のローマ教皇フランシスコが、
7月25日、カナダ西部のエドモントン郊外を訪れた。
カナダ国内で最大級の寄宿学校があった跡地だ。
集まった先住民の人々に向けた演説で、カトリック教会運営の寄宿学校での、
先住民の子どもに対する政策は「取り返しのつかない過ちだった」とした。
謝罪の言葉が英語で翻訳された直後に、大きな拍手が沸き起こった。
長年求め続けた教皇本人からの「直接の謝罪」を、ようやく得られた歴史的な瞬間だった。
さらに教皇は「キリスト教徒による悪行について、謙虚に許しを請う」とまで語った。
だが、この謝罪を「意味がない。決して許せない」と語る人々がいる。
取材した寄宿学校の元生徒たちだ。彼らが明かした虐待の実態は、
「悪行」という言葉だけでは、決して言い表せないものだった。
カナダ東部オンタリオ州にある小さな町、ブラントフォードに、
モホーク寄宿学校があった建物が残る。一見、瀟洒(しょうしゃ)に見えるが、
ここが、先住民の子どもたちへの「虐待」の場だった。 モホーク寄宿学校は、
1828年から1970年までカトリック教会によって運営されていた、
カナダで最も古く、長期間にわたり開校していた学校のひとつ。
20近い先住民族出身の約1万5000人の子どもが暮らしたという。
この寄宿学校の元生徒、バド・ホワイトアイさんは、学校から車で2時間半、
200キロ近く離れた米国との国境近くに住んでいる。78歳という年齢とともに、
膝の状態が悪く、最近歩くことも難しくなっていた。
それでも、私たちの取材依頼に、学校があった「現場」での証言を承諾してくれた。
取材した日は、緯度が高いカナダでも、日差しが照りつけ、焼けつくような暑さだった。
寄宿学校の建物の前に立ったバドさんに、学校に来た経緯から訊いた。
「黒い車がやってきて、私たちが歩いている長い間ずっと、ついてきたのです」
8歳のときだった。自宅と祖母の家との間の道を弟と歩いていると、
突然、黒い車が近づいてきたという。車内にいた男たちから乗るよう誘われたが、
何度も断った。だが「アイスクリームを買ってあげるから」と言われ、
幼い二人は車に乗ったという。アイスをもらったあと、家に帰ることができると思っていた。
ところが、車は家とは反対の方向に進んでいったという。
途中、眠りに落ちたあと、車が大きく揺れて、
目が覚めたときには、全く見たことのない場所にいた。
そこが、自宅から100キロ以上離れたモホーク寄宿学校だった。
「しばらくして、私たちは、誘拐されたんだと気づいたのです」
バドさん兄弟のケースは特別ではない。モホーク寄宿学校にいた、
多くの子どもたちが自宅から拉致されたと指摘されている。
カナダでは、1870年代から1990年代までに、
約15万人もの先住民の子どもたちが
インディアン法に基づき親元から強制的に引き離され、
カトリック教会が主に運営する139校の寄宿学校に送られた。
先住民を教育して、白人と「同化」させようという狙いだった。
■先住民の伝統を奪った「文化的大虐殺」
「自分の番号を今でも覚えています。53番でした。
彼らは、何かをやらせたい、納屋かどこかで作業をさせたければ、番号で呼んだのです」
子どもたちは、名前ではなく「番号」で呼ばれたという。
このとき、私は、過去に取材したアウシュビッツ強制収容所の
元収容者の言葉を思い起こしていた。
その男性は左腕の袖をまくって、肩の近くに彫られた数字を見せながら
「私たちは、人間ではなく番号だったのです」と語った。
無論、寄宿学校と強制収容所の役割は全く異なる。
だが、人権侵害という視点からは重なり合う部分も見えてくる。
バドさんも、のちに、ナチスによるユダヤ人強制収容所の実態を知り、
寄宿学校と似た部分があると感じたという。
「同化政策」の名の通り、先住民固有の文化を奪うことが目的だった。
子どもたちは先住民の言葉を使うことを堅く禁じられた。
「私たちの言葉を奪われました。何の問題もない、完璧な言語があったのに。
最も悲しいことでした」とバドさんは話す。
カナダ政府は、寄宿学校の実態を解明するために「真実と和解委員会」を設けて、
生存者の聞き取りや資料の調査などを行った。その報告書(2015年)では、
先住民の伝統を奪う、こうした同化政策を「cultural genocide=文化的大虐殺」と批判して、
こう定義した。「集団としての存続を可能にする構造や慣習を破壊することである」。
「そこは教育の場ではなく、農作業の場所でした。そして殴られました。
罰は教育のためではなく、ただ私たちを壊すことが目的でした」
勉強よりも農作業ばかりを強いられた、とバドさんは話した。
「暴行は毎日でした。生徒の集団の中から何人かを選んで連れて行き、
大きなベルトで殴っていました。どこに当たるかは気にしていませんでした」
教職員らからの暴行が連日続いたという。 同じモホーク寄宿学校の元生徒、
ダイアン・ヒルさん(66)にも取材できた。
ダイアンさんは、元生徒のなかで最も若い世代である。
「私は58年間、このことを決して話しませんでした。私は一度も言ったことがありません、
一度も」 彼女は7歳の時に、この寄宿学校に連れて来られた。膝下まであった長い髪。
先住民の伝統文化で、三つ編みにするのが少女の誇りだったという。
ところが、到着直後、強制的に髪を切られた。
さらに裸にされ、固いタワシで身体を洗われたという。
その後、ベッドで横になり、寂しくて泣いていると、部屋のドアが開いた。
ダイアンさんは「誰かが慰めにきてくれたんだ」と喜んだという。
だが入ってきたのは、見知らぬ職員の女性だった。このあと、何が起きたのか。
58年前の記憶は鮮明だった。 「彼女は、私から布団を奪いました。
突然、顔を殴られて、白い星みたいなものが見えて、鼻血が出ました。
それまで殴られたことがなかったので、何が起こったのかわからなかった。
大人は殴らない、という世界から私は来ました。
でも殴られ、足首を掴まれ、ベッドから引きずり下ろされました。
7歳の子どもだった私は、ショックで反応できませんでした」
さらに女による暴行は続いた。
「床に叩きつけられると、その瞬間から、殴る蹴るの暴行が始まりました。
ベッドの下に潜り込もうとしたら、髪を掴まれ、引きずり出されて、また殴られ、叩かれ…。
『泣くな、泣くな、泣くな』と言われたんです。『泣くな、絶対に泣くな 』って 。
それが、ここでの最初の夜でした。翌朝に見ると、毛布やシーツが血だらけでした」
彼女は噛み締めるように語った。閉じた瞳からは涙が流れていた。
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