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ゲゲゲの鬼太郎[第5作] #14「鬼太郎死す!? 牛鬼復活」感想

2007-07-06 23:46:36 | 水木しげる
・ゲゲゲの鬼太郎 [第5作] 第14話「鬼太郎死す!? 牛鬼復活」
(脚本/長谷川圭一、演出/角銅博之、作画監督/大河内忍)


 ここの所、アニメ「鬼太郎」の感想を休んでいたが、別に第12話以降を観ていないわけでも、録画ミスをしたわけでもない。
 第12話が個人的に感想を書きにくい内容だったので少し感想を保留にしておいたら、続く第13話は寝過ごして初めてリアルタイム視聴が出来ず、何となく感想を書く気分が盛り上がらなかったのだ。

 しかし、感想を休んでいると色々と書きたい事が出てくるので、そろそろ再開したい。
 ただ、今後は特に書きたいと思った回に絞って、感想を書く事にする。無理に毎回の感想を書いて、単なるノルマになってしまっては私自身がつまらないし、放送も2クール目に入って、そろそろ本シリーズをさらに落ち着いた視点で観るために、よい機会だと思う。

 と言うわけで、今回は最新の第14話を取り上げる。
 なお、今回から記事タイトルの形式を改め、また本文最初にはサブタイトルと主要スタッフを記すようにした。



 さて、第14話は「牛鬼」が登場した。牛鬼のエピソードも今回が4回目のアニメ化となるが、これまでは、鬼太郎が牛鬼を倒す→鬼太郎が牛鬼化→迦楼羅様に祈る→迦楼羅様が牛鬼を封じる、までの原作の展開は、概ね忠実に描かれている。
 もちろん、各シリーズごとに細かいアレンジはあり、たとえば前回の第4作では、鬼太郎と目玉親父の親子の絆にスポットが当てられていた点が特徴と言えるだろう。


 今回は、これまでのアニメ版「牛鬼」と比べると、非常に大胆なアレンジだった。
 まず、牛鬼の性質が全く異なる。人間の「恐怖」を糧として、ねずみ男の記憶を利用して鬼太郎を騙す、完全な「悪の妖怪」として描かれており、単に暴れているだけだったこれまでの牛鬼とは別物と言っていい。
 原作通りだと、最初に牛鬼を倒した後は鬼太郎自身に見せ場はなくなってしまうのだが、今回が牛鬼の意志と体を乗っ取られた鬼太郎の意志が戦う展開となり、最後まで鬼太郎が主人公として描かれている。

 そして、もう一つ大きく違ったのは、迦楼羅様の扱いだ。
 これまでは、村人や目玉親父が祈ると、迦楼羅様が現れて牛鬼退治をしてくれたが、今回は迦楼羅様の登場については最後まで引っ張る事で、鬼太郎が本当に助からないのではないかという緊迫感が出ていた。
 また、その一方で原作やこれまでのアニメを知っている身としては、もし迦楼羅様抜きで鬼太郎が助かってしまったらどうしようと、別の意味でドキドキさせられる展開でもあった。
 「牛鬼」のエピソードのキモは、鬼太郎ですら倒せない牛鬼および、その牛鬼を封じ込める迦楼羅様を登場させる事で、鬼太郎が絶対的なヒーローではないと描いている点なのだから、迦楼羅様抜きでこの話は成り立たない。
 結果的には、ちゃんと迦楼羅様は登場したが、引っ張った割にはあまりに出番が少なくて、逆に驚いてしまった。


 これらのアレンジによって、本話での鬼太郎は最後まで自分の意志で戦う、主人公らしい存在となったが、牛鬼と戦う鬼太郎の意志がはっきり描かれてしまった事で、「牛鬼」のエピソード特有の絶望感は感じられなかった。
 迦楼羅様の登場を終盤まで引っ張ったのは、代わりに絶望感を出させるためなのかもしれないが、村人や目玉親父が必死で祈っても助けてくれなかったのに、「よい友を持ったな」の一言で片付けられてしまっては、もったいぶって出てこなかっただけのように感じてしまう。
 この点については、ねずみ男が「人間に愛想を尽かしてしまったんだろうな」と言っていたが、封印を解こうとした村長の孫などをもっと掘り下げて、人間の愚かさがしっかり描かれていれば、また印象が変わっただろう。


 本編前半、無人となった村の不気味さや、圧倒的な牛鬼の邪悪さは魅力的だったが、中盤以降の展開には不満が残り、ちょっと残念なエピソードだった。
 ただ、第9話の「ゆうれい電車 あの世行き」にも言える事だが、散々アニメ化され尽くした感のあるエピソードを、敢えて新たなアイディアでアレンジしようとする姿勢は評価している。今後も、これまでの「鬼太郎」を知る者・知らない者の両方を楽しませてくれるような作品に期待したい。