力道山 監督ソン・へソン主演 ソル・ギョング 2004年 日韓合作
解説
日本人なら誰でも知っているこの名前だが、この人、実は朝鮮人だったというのは余り知られていない。力道山の激動の生涯を描いた伝記映画。力道山は、1963年暴漢に刺されてその傷が腹膜炎を起して死亡した。まだ日本にテレビが普及していない頃の昭和28年7月、街頭のテレビで見たアメリカの「シャープ兄弟」と力道山の試合が日本プロレスの幕開けとなった。
*この映画日本では5月末公開の予定だったが、何故か上映されなくなった。DVDのみ。
物語
1944年(昭和19年)4月、太平洋戦争が敗戦に向かい始めた頃の東京、街を大根をカジリながら歩いていると空襲警報がなる、人力車の芸者も道路へ放り出されてしまう、その手を引いて一人の男が防空壕の中へ、女は芸子で名前を「彩」と名乗った。
・・・二所の山部屋の稽古場で殴られている男が居る、「この朝鮮人の野郎人の顔を見て笑った」と訳もなく殴られている。
・・・東浪の横綱昇進の席、館野武雄後援会長がいて芸者の中に「彩」が居る。
・・・コウリから盗まれた財布が出て来たと男がオマワリに追及される、俺は盗んでない濡れ衣だと川の中へ逃げ込む男、この男が朝鮮人の相撲取りであった。それを見て居た親方が、どのみちお前は相撲が取りたいのなら警察で明白にしなさいと言う。
やがて、1951年秋、関脇に昇進、この時に、昇進について、相撲協会に朝鮮人だからと差別したと抗議して一年間の謹慎処分をくらった。それからの力道山は狂ったように酒を飲み暴れた。
ある夜バーで、喧嘩の強い外人に羽交い絞めにされ、俺より喧嘩の強い奴が居た事に驚いたが、その男は、アロル坂田と名乗るプロレスラーだと名乗った。そして、家のジムへ来るように言われるそして其処でレスリングの修行に励む、海の向こうアメリカではプロレスが盛んで其処で修行をつみたいと館野会長に頭を下げてお願いする、そしてアメリカへ渡るが、アメリカでは、”日本から来た猛虎力道山”無敗の力道山としてアメリカ中を震憾させた。
1953年7月、日本ではあまり知られていないプロレス、興行主はあまり乗り気にならなかったが、
最近、日本の男達は、大きな外人に圧倒されて、情けない、日本男児の意地を見せたいとプロレスを強調、それならと、まずはアメリカから「シャープ兄弟」を呼んで試合をやる、兎に角負けてくれと八百長臭かったが、ものすごい人気、テレビ中継に鈴なりの人、この人気に驚いたテレビなどがこの中継をやりだした。
しかし、力道山は負ける事が嫌いで、やって行くうちに興行として負ける事もしないと、という周囲の声も聞かず勝ちつづけ、テレビもオリンピック景気でプロレスは下火になった。
その後は見てのお楽しみ。
感想
この映画は、力道山の命日に劇場公開される予定だったが、どうしたわけか中止された、差別問題で協会からクレームでも付いたんじゃないかと推測されるが、・・・。
力道山が、朝鮮人であった事などは、’63年殺された頃に噂になった、でも気にも留めなかったが日本が朝鮮を植民地支配している頃、間違いなく朝鮮人を差別していた事は事実である。
だとしたら相撲部屋での力士の中で差別はあったかも知れない。
プロレスのテレビ中継を、わざわざ上野の西郷銅像の下にあった街頭テレビであまり良く映らない映像のプロレスを望遠鏡で見た記憶がある。
感じた度 ★★☆
解説
日本人なら誰でも知っているこの名前だが、この人、実は朝鮮人だったというのは余り知られていない。力道山の激動の生涯を描いた伝記映画。力道山は、1963年暴漢に刺されてその傷が腹膜炎を起して死亡した。まだ日本にテレビが普及していない頃の昭和28年7月、街頭のテレビで見たアメリカの「シャープ兄弟」と力道山の試合が日本プロレスの幕開けとなった。
*この映画日本では5月末公開の予定だったが、何故か上映されなくなった。DVDのみ。
物語
1944年(昭和19年)4月、太平洋戦争が敗戦に向かい始めた頃の東京、街を大根をカジリながら歩いていると空襲警報がなる、人力車の芸者も道路へ放り出されてしまう、その手を引いて一人の男が防空壕の中へ、女は芸子で名前を「彩」と名乗った。
・・・二所の山部屋の稽古場で殴られている男が居る、「この朝鮮人の野郎人の顔を見て笑った」と訳もなく殴られている。
・・・東浪の横綱昇進の席、館野武雄後援会長がいて芸者の中に「彩」が居る。
・・・コウリから盗まれた財布が出て来たと男がオマワリに追及される、俺は盗んでない濡れ衣だと川の中へ逃げ込む男、この男が朝鮮人の相撲取りであった。それを見て居た親方が、どのみちお前は相撲が取りたいのなら警察で明白にしなさいと言う。
やがて、1951年秋、関脇に昇進、この時に、昇進について、相撲協会に朝鮮人だからと差別したと抗議して一年間の謹慎処分をくらった。それからの力道山は狂ったように酒を飲み暴れた。
ある夜バーで、喧嘩の強い外人に羽交い絞めにされ、俺より喧嘩の強い奴が居た事に驚いたが、その男は、アロル坂田と名乗るプロレスラーだと名乗った。そして、家のジムへ来るように言われるそして其処でレスリングの修行に励む、海の向こうアメリカではプロレスが盛んで其処で修行をつみたいと館野会長に頭を下げてお願いする、そしてアメリカへ渡るが、アメリカでは、”日本から来た猛虎力道山”無敗の力道山としてアメリカ中を震憾させた。
1953年7月、日本ではあまり知られていないプロレス、興行主はあまり乗り気にならなかったが、
最近、日本の男達は、大きな外人に圧倒されて、情けない、日本男児の意地を見せたいとプロレスを強調、それならと、まずはアメリカから「シャープ兄弟」を呼んで試合をやる、兎に角負けてくれと八百長臭かったが、ものすごい人気、テレビ中継に鈴なりの人、この人気に驚いたテレビなどがこの中継をやりだした。
しかし、力道山は負ける事が嫌いで、やって行くうちに興行として負ける事もしないと、という周囲の声も聞かず勝ちつづけ、テレビもオリンピック景気でプロレスは下火になった。
その後は見てのお楽しみ。
感想
この映画は、力道山の命日に劇場公開される予定だったが、どうしたわけか中止された、差別問題で協会からクレームでも付いたんじゃないかと推測されるが、・・・。
力道山が、朝鮮人であった事などは、’63年殺された頃に噂になった、でも気にも留めなかったが日本が朝鮮を植民地支配している頃、間違いなく朝鮮人を差別していた事は事実である。
だとしたら相撲部屋での力士の中で差別はあったかも知れない。
プロレスのテレビ中継を、わざわざ上野の西郷銅像の下にあった街頭テレビであまり良く映らない映像のプロレスを望遠鏡で見た記憶がある。
感じた度 ★★☆