石壁神社(せきへきじんじゃ)
祐徳稲荷神社を創建された、鹿島藩主鍋島直朝公夫人
萬子媛(御神名萬媛命)をお祀りしてあります。
萬子媛は後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の
娘でありますが寛文2年直朝公にお輿入れになりました。
その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所でありました
稲荷大神の神霊を神鏡に奉還して萬子媛に授けられ
「身を以ってこの神霊に仕え皇位の無窮と国家の安泰をお祈りするように」と
諭されました。
萬子媛は直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ
二人のお子様を不幸にしておふたりとも早世されたのを機に
亭亨4年62歳の時この地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕えられました。
80歳の宝永2年石壁山山腹のこの場所に巌を築かせ、ここに安座して
断食の行を積み入定された。
明治の神仏分離令でご神号を萬媛命と称されました。
祐徳院様が吉凶を占っておられた水鏡は現在も残っています。
祐徳稲荷神社を創建された、鹿島藩主鍋島直朝公夫人
萬子媛(御神名萬媛命)をお祀りしてあります。
萬子媛は後陽成天皇の曾孫女で、左大臣花山院定好公の
娘でありますが寛文2年直朝公にお輿入れになりました。
その折、父君の花山院定好公より朝廷の勅願所でありました
稲荷大神の神霊を神鏡に奉還して萬子媛に授けられ
「身を以ってこの神霊に仕え皇位の無窮と国家の安泰をお祈りするように」と
諭されました。
萬子媛は直朝公に入嫁されてより、内助の功良く直朝公を助けられ
二人のお子様を不幸にしておふたりとも早世されたのを機に
亭亨4年62歳の時この地に祐徳院を創立し、自ら神仏に仕えられました。
80歳の宝永2年石壁山山腹のこの場所に巌を築かせ、ここに安座して
断食の行を積み入定された。
明治の神仏分離令でご神号を萬媛命と称されました。
祐徳院様が吉凶を占っておられた水鏡は現在も残っています。