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不覚!!「官給道」延長戦突入!

実物 下士以下飯盒(明治31年制定型)

2017-11-04 16:53:20 | 日本陸軍 飯盒
■2016年10月8日に投稿した記事を改訂
海外の軍装解説サイトに日本軍の飯盒の参考としてリンクが貼られていました。
当初の記事では民間型のみを掲載していましたが、軍用と混同される恐れがあり軍用を追記しました。
このブログ内での軍用とは「軍での使用を第一に想定して製造されたもの」という意味です。


■概要
明治31年に制定された飯盒は、日露戦役前後の小改正を経て、完成形に到達します。
今回紹介するモデルは日露戦役以降~昭和期に製造されたと推定されるものです。
明治34年に釣手が、日露戦役中の明治38年に塗装色が、そして大正期までに「耳」の形状が改正されます。
昭和に入り新式飯盒が制定された後も支那事変~終戦まで用いられており、当時のフィルムにその姿を確認できます。
(※参考品は煤により黒くなっていますが、元々は旧式水筒と同じく茶褐色塗装であったと思われます。)





(1)構成
體(タイ)、釣手、掛子、蓋で構成されており、現代の飯盒とほとんど変わりません。
明治型飯盒は昭和5年以降に登場する新式飯盒に比べて小さいです。
精米炊爨が前提であり、膨張率の高い麦飯などの炊爨は考慮していないためこのサイズになったようです。
日露戦役頃から脚気が問題になると、麦などを混ぜて栄養管理がなされました。
よって、後の新式飯盒では膨張率の高い麦飯に対応できるように容量を増加させたと言われています



蓋の内側には大阪砲兵工廠の大砲をクロスさせたマークがありました。
刻印の位置は革通(カワトオシ)の下などバリエーションがあるようです。

*サンプル1


*サンプル2


釣手の基部、「耳」の形状は最も特徴的な部分です。



下の図は左が新式(ロ号)、右が明治型です。
耳の長手方向が新式は水平方向に、明治型は垂直方向にあります。




さらに、制定当初の「耳」の形状は下の図に示すように、 P 型の穴に釣手を連結しています。
いつ頃から形状が変化していったのかは不明ですが、日露戦役以降~明治末でしょうか。
図は明治34年 標題「飯盒釣金具改正の件」より引用したもので、制定まもない頃の飯盒の形状が描かれています。
後発のものと「耳」と「釣手」の形状を比較してみてください。




(2)民間企業での製造品
こちらは大阪アルミニューム製のものです。
全体的に造形が粗く、釣手が耳のリベットと干渉してしまうものもあります。



革通の下には大阪アルミニュームの刻印があります。
この刻印は水筒でもおなじみですが、製造年などは特に刻印されていません。




(3)民間用
ここでは民間規格のものを「民間用」と定義します。
当時は日常生活にも軍用品に類似したデザインのものがあふれていました。
軍用と比較しても、特徴的な部分をよく捉えていることがわかります。










昭和16年10月2日から10日間にかけて行われた防空演習で撮影された写真の中に同様のものがありました。






(4)不明
こちらは「ニギリ矢」でおなじみの那須アルミニュームの製造品です。
蓋の裏側にニギリ矢マークがありますが、戦中の製造品でよくみかけるものとはデザインが異なります。
戦後品ともいわれているようですが、詳細不明です。
戦後しばらくは戦中に製造された軍用品に類似したものが市場に多数あったようで、これもその類かもしれません。






■まとめ
飯盒の制定や改正、手入れに関しては水筒と一緒に併記されていることが多いです。
過去に書いた旧式水筒関連の資料にも参考になるものがあると思います。
簡潔ですがこれで終わります。


ではでは。



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