退職を数カ月後に控え後期人生を楽しまんとしていた義兄が、
癌であっけなくこの世を去って早12年が過ぎた。
大学病院へ定期的に通院している夫の予約日が、
偶々、義兄の正命日だったので病院へ付きあって帰りがけに、
寺が近いので墓参りをしようと出掛けた。
して驚いた。墓地は広大な敷地なのだが僅かな場所を除いて、
びっしり墓石で埋め尽くされていた。
この12年間にこれほどの人々が逝ってしまわれたのかと心底驚いた。
夫と二人、時の流れと命の儚さに言葉少なになり墓地を後にした。
薄曇りの、時折白い太陽が顔をのぞかせる寒い日であった。
「姉さん、母さんの形見の指輪よ。好きな方を取って・・・」
康代(仮名)は姉の前に翡翠の指輪を二つ差し出した。
姉と言っても腹違い、母と言っても継母だった。
康代は1カ月程前にこの母を見送った。96歳だった。
実母のミチ(仮名)は康代と二つ違いの弟を残し病死した。彼女が5歳の時だった。
公務員だった父の与一(仮名)は躊躇することなく1年後に再婚した。
そうして迎い入れたのが継母の聡代(仮名)だった。
再婚の身だった。戦死した夫の間に娘があったが、
その子を子無しの縁者に託し、人を介して与一のもとに嫁いで来たのだ。
残してきた娘は康代より3つ年上だったと、
物心ついた頃に親類の者から康代は聞いた。
恐らく、聡代は生涯に渡って心の隅で託してきた娘に詫びていたに違いない。
気丈な性格だっただけに誰にも気持ちを吐露することはなかったし、
新家族に心を砕き康代や弟を育て、やがて与一との間に女の子を設けた。
このように複雑な家族構成であったにも拘らず、
どの子も皆、ひねくれもせずグレもせず健康に育ったのは、
父・与一が真面目だったことと、
聡代が真っ直ぐな性格であり誠実な女であった所為だ。
皆成人して、たま々康代が両親の傍近くで家庭を持ったために、
父を送り、独居生活を厭わぬ聡代をサポートした。
まるで実の母娘のような絆を持って・・・
後年病に倒れた聡代を献身的に介護し最期を看取った。
康代は、ほんの数回程度しか姉には会うことがなかったが、
臨終の折には知らせ母との最後の対面の場を作った。
通夜の晩、姉がしみじみと、「母が迎えに来てくれるかと
どんなに待っていたろうか・・・」と語った時は声をあげて泣いた。
しかし、姉は恨みがましいことは一切言わず、
「康代さん、本当に御苦労さまでした」と深々と頭を下げ礼を述べた。
形見の指輪は、もう少し先気持ちの整理が出来てから頂くと辞退した。
他のきょうだい達も、続いて康代を労い一切の権利を放棄し、康代に全てを託した。
これは母の知人の実話である。
最近、あまりにも肉親間の惨たらしい事件や話題を聞くが、
この話を聞いて、ひとって心持次第で恥じない人生が送れるんだと、
清々しい気持ちになった。
多分、かの皆さんは真のきょうだいの強い絆でもって、
今後の人生を付きあっていかれることだろうと確信している。
【心持】・・・私は一切知らない、関知しない。秘書任せ。
4億円など端金、天下国家を想い云々・・・
あぁ、なんとムズ痒くなるような言葉を発するご仁だろうか!?
【国民の生活が第一】・・・もう一度民主党に任せろ!って~
冗談は休み休み言い給え!! きみ、君だってば、キミ等だよ~~
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