「無事」とは馳求心(外に向かって求める心)を、
すっかり捨て切ったさわやかな境涯をいう。
求める心を捨てるといっても、無気力無関心であれ、
惰性で生きろということではない。
また、財産や名誉をあくせく求めるなという表面的な戒めとも違う。
「無事」とはいわば、求めなくてもよいことに、
気づいた安らぎの境地といえる。
臨済禅師は "悟り" "仏" "救い" "幸せ" などといったものを、
頭に描き、それを自分の外に追い求める愚かしさを厳しく戒められた。
それらは求めて得られるどころか、
求めれば求めるほど遠くへ 逃げていってしまうもの。
求める心を捨て、ああしたいこうなりたいといった欲を捨て、
限りなく純真無垢な自分と出会う時、
無限にして偉大なるものに生かされている自分に気づくことができる。
「無事是貴人」とは、そういった安らぎの境地を、
心の底から実感した人こそ老若男女・貧富地位の別を超えて、
本当に貴い尊ぶべき人である。
我々は「無事」を変わりがないこと,健康であること、
平穏であることの感謝や願望を表す挨拶語として使うが、
禅語としての「無事」には以上のような深い意味があるそうだ。
臨済宗祖・臨済義玄禅師の言葉・禅語である。
ドゥーイングよりもビィーイング。
ただ、≪いる≫ことが幸せと、或るところに書いてあった。
モモよ、わっかるかなぁ~~
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