カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

哲学とは

2014年08月30日 05時12分04秒 | 生き方

まずは、林語堂1937年の著述から引用しましょう。


だから私はいいたい、中国哲学の特質はつぎの三点にある。

第一に、人生をすべて芸術としてみる天賦の質、
第二に、単純哲学への意識的回帰、
第三に、中庸的生活の理想。

最後の産物は、変ないい方ではあるが、農民にして放浪者たる詩人への崇拝である。

:P.40-51 林語堂「人生をいかに生きるか(上)」阪本勝訳 昭和54年11月10日第1刷発行 講談社学術文庫

 

この人が言っていることと、現代の中国を比較して、どのように違っていて、何が同じか、を考えるのは楽しいもの。

  • つまり中国共産党〔1921-  現在 〕の初期〔結党16年目〕と末期〔結党93年目の2014年現在〕の比較です(笑)。
  • なぜ「末期(マッキ)」としたか。それは中国共産党が今や世界中に、迷惑と不安と敵意をマッキ散らし、文字どおり「あ~ぁ~やんなっちゃった~、あ~んがんが、オドロイた~」という牧(マキ)伸二〔1934-2013〕的症状、つまり末期的症状に陥っているからでした(笑)。

牧伸二も故人となりました。

中国共産党もいち早く崩壊して故党となり、「新しく世界中から信頼される立派な国」を作り「国が幾多の政党を作り、国民が政権を選択できる」という自然な姿に戻っていただきたいもの。

今の一党支配のまま建国した状態では、国民を弾圧し続け周辺国を威嚇し領土紛争を永遠に続けてゆき、世界中から経済封鎖されて自滅し自然崩壊するだけ。これでは、まるで北朝鮮の行く末のよう! 


さて林語堂の3つですが・・・・ 

■人生をすべて芸術としてみる天賦の質

なるほど、

最近の中国共産党による独善的な「防空識別圏設定」などをみると、話し合いのルールなど無視して、すべて表現の芸術だとばかり一方的に決めている点では、林語堂が77年前に正しく指摘している通りです。世界中の国がすべて中国共産党の独自決定に従わねばならない、つまり何でも「芸術」とみる天賦の質なのでしょう(笑)。

自分(中国)が存在できるのは、

人(他国)がいるからだ、という交通が発達し相互交流が盛んになっている近代の基本理念をまったく理解できない中国人。

「自分が一番賢くて正しい」と信じること自体は結構なことですが

自分以外の人も「自分が一番賢くて正しい」と信じているかも知れない、というヒラメキをもてないのでは、中国人は「奇妙な人たち」ではなく、「欠陥だらけの人たち」、と言えます。

「人は誰でも欠陥だらけではないか」と反論する人もいるでしょうが、私は、あまりにもひどすぎる、と言っています。

中国共産党にも深刻な問題がありますが、中国人社会そのものを質的に大転換しないと、世界中から見放されてしまう。

もはや「13億の魅力的な市場」という美しい言葉を信用する人は存在しない時代になっています。

なぜならば、そうです、中国共産党が恣意的に法律を決めるやら、中国人がいつまで経っても偽造・偽証で人を裏切るから、でした。

このままの状態が続くのなら、中国は、ルールがある分野から撤退し、ルールがない分野でおおいに活躍するのがよろしいようで。

そうすると中国共産党は、

ルールを国民に押しつけて違反すれば暴力支配しながら、自らはルールを守らない現状ですから、必然的に中国国内からさえ撤退しなければならないでしょう。ですから私は、中国共産党は、崩壊するしかない、と言っているのです(笑)。

岡本太郎は言いました。

芸術は爆発だ! 芸術は呪術だ!

天文学では、

    • 比較的軽い恒星は、水素の核融合反応のあと「ヘリウムの核融合反応」に至ること能わず、膨張せず長い寿命の赤色矮星になるとのこと。
    • 真っ赤な中国の国旗は、赤色矮星を思い出させます。ルールという意味が解せない芸術好みの中国人は、爆発だといいながら、ほんの一部でしか通用しない呪術(じゅじゅつ)の世界で、寿命長く頑張ってゆくしかないであろう、私にはそう思われるのです。 

■単純哲学への意識的回帰

まぁ、いいも悪いも、

中国社会は複雑な社会形態ゆえに、入り込んだ仕組みを単純化しようと努力しないまま、わかりやすい主義に走りたがるのであろうと理解できます。まぁ、当人だけにしか理解できない趣旨をながながと述べ立てるよりはマシかも知れませんが。

ただし複雑さを単純化する努力を欠いたまま、安易に単純哲学へ傾倒するものどうか、と思います。

「単純化」は誉めたたえるべき特性ですが、複雑さから昇華した「単純化」のほうがよく、単なる「複雑忌避(きひ)」から単純へ向うのでは、もの足りません。

しかし、単純好みも複雑好みも、似たようなものか・・・・・・。

■中庸的生活の理想

これは好き勝手に動く人間社会では、あり得る方向でしょう。

電子などのブラウン運動のようにあっちこっちへ動き回る社会であればあるほど、人は、そうではない「普通の動き」を求めたがります。これが「中庸」なのでしょう。

しかし何もないところに中庸は生まれず、中国で、両極端に大きく振れる特性が顕著に見られるからこそ、中庸の存在意義があるのでしょう。

これゆえに、「中庸」の意味は、社会や国によってまったく異なってくることがわかります。

誰でも気付くことですが、

どんなに「あくどい」人間であっても、その「あくどい」人に言わせると

「自分は、誰それよりはマシだ」

と思う「誰それ」がいるもの。自分のほうが「マシ」だと思うからこそ、誰でも自分が「中庸」を得ている、と信じられるのです。一方的に人を判断してはいけないゆえんです。

中国人を見ていると、

「どんなにひどい中国人でも、自分よりもっとひどい中国人がいると信じこむ」習性があり、これが自分自身を見えにくくしているのではないか、と気付くことがあります。

ですから、中国国内しか見ずにいるなら、自分の「ひどさ」を理解できないまま、猥雑な社会を継続するしかないのでしょう。

もしも中国人が中国以外にも視野を広げる余裕をもてば

場合によっては自分も相当ひどいと気付くだろうし、自分だけがいつも最高の思考を構築しているのではなく、むしろ協力して最高の思考を構築するほうがいいのではないか、そうとらえる才能が芽生えることでしょう。

中国人に欠ける「視野の狭さ」とは、そういうことなのでしょう。 

 

強くなればなるほど、運というものの尊さを哲学として持っている。この世には考えてもしようがないということもある。 P.99 米長邦雄「カンが読みを越える」朝日出版社


元将棋棋士で将棋連盟会長在職のまま死去した米長邦雄〔1943-2012〕が主張する意味は、それなりにわかります。

同程度のレベルの人の闘いでは、

「自分の負ける筋道が見えているのに、幸運なことに相手がそれに気付かなかったため、勝ってしまう」

ことがあり、その逆で、

「自分の負ける筋道が自分には見えず、不幸なことに相手には見えていたため、偶然、負けてしまう」

こともあります。

しかし、

それ以上の人なら、限られた時間内でより深く考えて最善の結論に至るもので

凡人なら、考えた筋道のうちどれが最善なのかがわからないままなので、選べない、よって考えてもしようがなくなる

のでしょうか。

私は、米長という人物が、凡人どころか、将棋棋士の上位にいたことを理解していますが、残念ながらその米長の上の言葉が、しょせんはそれ以上の器ではなかったことを物語っている、と思いました。

 

すべての哲学は、支離滅裂な言語に翻訳された常識に過ぎない。(ゲーテ):P.327 ジェローム・デュアメル(吉田城訳)「世界毒舌大辞典」大修館書店


哲学が語ることと言えば、

    • あまりにも常識的だ、と思うことがあると思えば、
    • 勝手に類推するのは危険ゆえに、翻訳の間違いではないかと思われるほど支離滅裂だと感じることも多く

ゲーテの洞察力に対して、おみごと、しか言えません(笑)。

ただし「支離滅裂」に見える言葉の中にも、何かピッカリと光るものがあるはずで、それを探し求めようとするのは、ばかげたことでもあるし、高度な知能を獲得した人間には必要なこと、なのかも知れません。←いったいどっちだと言うのぢゃ? 

 

「隠れた徳は埋もれた無為とほとんど違わない」これはあまりにも誤った意見である。こんな考えが哲学者と呼ばれるほどのえらい人の頭に宿ることができたかと思うと残念でたまらない。

もしそれが本当なら、われわれは公衆の前でだけ有徳であればよいということになる。・・・・:P.38モンテーニュ「エセー四」岩波文庫


みかけだけやちょっとした発言だけでは、立派な人なのか、それとも、くだらない人なのか、がわかりにくいことが多いものです。

    • むしろ、くだらない人ほど、立派を装うために、なかなか区別できないとも言えます(笑)。
    • 「くだらない人などいるはずがない。くだらないと思うあんたがくだらない」という声が聞こえてきそうですが、話の進行上、立派な人とくだらない人を設けている、と理解していただける人なら、そうおっしゃるものではないでしょう(笑)。

モンテーニュは「公衆の面前でだけ立派そうにみえればいいのか」、と疑問を投げかけました。くだらない人が立派な人を演じているわけですね。

現代でも、テレビでの立候補者の政権演説や選挙公報での作文だけで投票する候補者を決める人がいると聞きますが、そんな経歴・公約が信じられない時代のことを、すでにモンテーニュ〔1533-1592〕は見通していたのかも知れません。

モンテーニュと同時代の人たちは、千利休〔1522-1591〕、織田信長〔1534-1582〕、豊臣秀吉〔1537-1598〕、徳川家康〔1543-1616〕などでした。

自作の「拡張年表」で、これで生きた年代を数値で見るよりも、一層明瞭に理解できます。

 

いまの韓国語では深遠な哲学や思想の議論はまず成り立たない。いかに朱子学の伝統を誇っても、あの気学の概念展開をハングルだけで理解することはできない。ハングルだけで世界的な水準をもった哲学論文を書くこともほとんど不可能である。日本語か西洋語でやるしかない。 

そこまでいわなくとも、私の知る韓国のご老人のなかには、「韓国語では難しいことは考えられない。考えようとすればどうしても日本語になる」といわれる方が何人もいる。いまや私も完璧にそうなっていて、小説ならば韓国語のほうが速く読めるが、専門書は日本語でのほうが数段速く読める。 

逆にいうと、韓国人の多くが、日常的な肌触りをもった言葉ですべてを論じられると勝手に思っている。日本の朝鮮統治の問題ひとつとっても、容易に日常的な感性から抜け出た議論をすることができないのもそのためである。私はそれを反日思想教育や伝統的な小中華主義のせいだとばかり思ってきたが、けっしてそれだけではない。 

元来、日本以上に漢字という表意文字を駆使して知的行為を行なってきた国民が、突然に表意の世界の伝統を断ち切り、音だけの表音文字の世界に入ってしまったことそれが最も大きな原因かもしれない。 :P.42-43 呉善花「漢字廃止で韓国に何が起きたか」PHP研究所

非常に鋭い指摘です。

私はもとよりハングルを、仕組みについては少しだけわかるものの、まったく読めませんが、ハングルでは、ローマ字的な発音の組合わせで自由に文章を書けるものの、抽象的な言葉を表現することができない、とは言われて初めてわかりました。

つまり日本語で言えば、ひらがなばかりの小学校低学年の文章と同じものが新聞に並んでいるとすれば、これは同音異義語が多すぎて、読み解くだけで精一杯、抽象的な思考ができないであろうことは、十分に理解できます。

漢字や英語の抽象名詞を頭に浮かべるならば、抽象的思考は「ひらがな」だけの世界では生まれないだろう、と思います。

呉善花は、「日本の朝鮮統治の問題ひとつとっても、容易に日常的な感性から抜け出た議論をすることができない」と指摘します。

自らの汚点を決して真っ直ぐ見ようとはせずに、幼稚な日本バッシングを繰り返している背景には、抽象的・哲学的表現が困難な「表音文字であるハングル」の限界があったのかも知れません

ただしこれも長い年月をかけて世界各国の文学書・哲学書・技術書を、翻訳調ではない自然なハングルに翻訳する作業を厭わない時代になれば、いくぶん緩和されるかも知れません。

そういえば私には、昔、こんなことがありました。

日本語の数学書を読んでもわかりにくかったことがあり、別の英語の数学書を読むと突然理解できた、そういうことがありました。なぜ日本語はこれほどわかりにくいのかと怒りさえ感じたこともありますが

今思えば、

その「日本語の数学書」の日本語そのものが、翻訳調だった

のかもしれませんね。翻訳調の日本語ほどわかりにくいものはなく、それならば英語のほうが、知らない単語で悩むことはあっても、全体の理解はたやすい、と言えます。

どうやら日本人は、ついに

もっとわかりやすい日本語を

と言い出すのかも知れません。

いや、すでに言い出しているかも知れません。好き勝手にばらばらに造語するのが豊かな日本語を象徴しているとみなす人もいますが、別の観点では、混乱をもたらしているだけなのかも知れません。

近い将来、見直すことを前提条件として、日本語にも一定の枠を設ける必要があるのではないか

そう私は思うのです。






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