健康ってなんでしょうか。
身体に痛みや苦痛がないことをいうのでしょうか。
元気でいるときは、健康なんてどこかへ行っています。
調子が悪くなると、どこかからか現れて、
声高に騒ぐ輩が健康という存在かもしれません。
だから、健康でいたいなら、
多少、苦痛もあった方がいいのかもしれません。
誰もが常に頭から離れない身体、その実感としての命とは、
いったいなんでしょうか、
とみによく知っておく必要があるようです。
人は生まれて間もないころは、命も身体の実感もない。
振り返れば闇の中に遠く消えていく時期がありました。
泣いたり笑ったりもするが、いつどんなことで泣いたのか、
まして健康とか病気とかの意識すらないまま育ってきたし、
生まれたという経験も一切自覚していないままでした。
いつの間にか、どこをどうすれば、どうなるという、
自分との付き合い方を知り、それが当然になったまでです。
生まれたときは、命も身体の自覚があったわけではありません。
生まれきた世界に、われわれのいう「健康な身体」などなく、
自覚した「健康」もなかったといえませんか。
健康はもともと影も形もなかった。また誰のものでもなかった。
この世に生まれきて、出会いの刺激に触れて病んで傷ついて、
はじめて自らの身体イメージに気づいた、それが身体という自覚です。
健康は自分の身体全体に分布していますが、
もともと自分が所有していたものではないはずです。
意識とともに自然が造った風景であり知覚です。
生まれてこのかた、身体や命、健康と連れ添った経緯を考えてみると、
ゆえにそのケアは自分の責任ですべきであった。
病院があるから。保険があるからと人頼りに考えてきたのは間違いです。
まず、その自覚があり自立という認識があってのわが命でしょう。
高齢とはただ歳や経験を重ねた状態を示します。
でも、ほんとうは、変化や刺激のない環境に暮らしていて、
外界との関わりや興味を退化させ、風化させたことをいうのでしょう。
答えは、小引き出しの中にあります。現在の立ち位置・足元にもあります。
眼を開いて視てみましょう!
解決策よりどんなイメージを感じたいか、その感覚が生として大事です。
理性の端くれだけでは何もできません。痛みが治まるだけです。
健康とう風景に役立つものは、そこに関わる人の気持の連鎖だけです。