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敦賀茶町台場物語 その11

2021年04月09日 | 小説

敦賀茶町台場物語 その11

 

黒船が浦賀へやって来たのは六月三日である。それが、七月の末にはこのようなお達しが出るほどに、商売を怠って金銀を買い集める者が目立つようになった。日本が外国の植民地になりそうだからとの危機感による行動だろう。実に素早い反応である。金銀を買えるのは金持ちだけだから、そのような者を見て庶民たちも動揺し、焦燥感にかられて不穏な動きの気配があったのかもしれない。

このお達しのあった同じ月に、民家に所有する武具馬具の調査が行なわれ、祭礼用のものまでも書き上げるよう指示された。さらに、二十三日には武器御手当入用のための調達金が命ぜられ、二四日には昨年五月の江戸城西丸炎上で申し付けた上納金を武具御手当へ回すとの通知もあった。

翌安政元(一八五四)年四月には、藩主忠義が敦賀の台場を巡視した。七日に各台場から三発ずつ発射するのを見て、江戸へ戻って行った。

藩がこのようだから、町民が動揺するのは無理もない。しかも藩は、兵力の不足を補うために、格式のある町人や村の庄屋格の者に、大筒の稽古の軍役を申し付けた。気比宮の神官までが砲術の稽古にかり出された。月の内に休みの日を定めて、他は毎日の稽古となった。町人や農民が武術の稽古にかり出されるという状況は、身分制度の崩壊につながる重大な事態であり、そんな大事な事が黒船渡来の一件で引き起こされたのである。

 お上の動揺は配下の武士に伝わり、情報を掴んでいる商人や町役人も不安を覚え、それが庶民へも伝わった。

「あほ。役人に聞かれたら手鎖にされるぞ。いや、裸に剥かれて敲きの刑にされる」

 見せしめに敲かれるのは真っ平だ。

「ここのお上は、勤皇の志士とやらに狙われとるからな」

 殿さん連中も一枚岩ではない。内輪もめも聞こえてくる。

「そやそや。長州か薩摩の軍艦が敦賀に来る言うとるぞ。北から京に入って、玉(ぎょく)を取るんやと。そやけど、玉って何や?」

 敦賀を襲う軍艦は、外国船だけではないということだ。小浜藩主は幕府の忠臣だから、薩摩や長州とは敵対している。

「天子様という、日本で一番偉い人や」

 尊皇とか勤皇と言い、天子様と呼ばれるものがいるそうだ。

「一番偉いのは将軍様と違うのか?」

 それがこれまでの常識だった。

「しっ! 誰か来たぞ、黙れ」

 こんな話をしているのが知られたら、敲きの刑だけでは済まないだろう。

「……何や、犬か」

このような調子で、毎日の話の種には事欠かなかった。

 

敦賀湊に洋式船がはじめて入ったのは、安政五(一八五八)年九月二十四日のことだった。外国船ではない。越前大野藩の藩船で、武蔵の川崎で建造され、この六月に竣工した船だった。長さが十八間、幅が四間あった。八月に品川を出て、兵庫に寄り、西廻りで敦賀にやって来た。

この大野丸は、同藩の樺太経営のために建造されたもので、北海渡航に使われた。敦賀を根拠地としたために、毎年冬になると敦賀に帰港して、浦底に繋船して冬を越した。

最初の蒸気船が敦賀に入ったのは文久三(一八六三)年五月で、福井藩船の黒龍丸だった。茶町台場の完成直後である。