臓器移植法改正案提出 3月31日

臓器移植法改正に関する2案が、議員立法として今日国会に提出された。父・河野洋平氏に生体肝臓移植を行った河野太郎自民党衆議院議員が強行に主張する「脳死を一律に人の死とする」改正案は、家族の同意を条件に挙げてはいるものの、脳死者にドナーとなることを明らかに強要する結果をうむ独善的な内容だ。与党内でも反対が多く、公明党の斉藤鉄夫氏が中心となって、現行法の枠を越えず、臓器提供の場合のみ脳死を人の死とし、臓器提供の年齢を12歳以上に引き下げるという改正案を河野案に対峙する形で提出した。

現在の医療では、脳死状態に陥った患者の意識は戻らない。数分後には必ず心停止を迎えるが、心停止を迎えるまでは生きていると信じて疑わない人も存在する。今日、国会に提出された2案は、いずれも第三者の命を助ける目的で臓器を提供する場合、脳死を人の死と認定し、心停止を待たず臓器を摘出するものであり、心停止をもって人の死と考える人々にとっては、納得できない内容だ。射水市民病院の例もあり、脳死や安楽死・尊厳死に関する議論はいよいよ避けられない状況になってきた。脳死を人の死と認めない案も土俵に乗せて、この際、徹底的に議論を深める必要がある。

仮に、自分が脳死状態になったらどうして欲しいのか、安楽死や尊厳死と同様に事前に意思を明確に示しておくシステムの構築も必要だ。臓器移植は、人工臓器や新薬が開発されるまでの緊急避難的措置だ。いずれ将来、脳死を人の死とする必要性がなくなる日もやって来るだろう。更に、脳死から「生還」する日も来るかもしれない。しかし、それまでの間、レシピエントを救うためにはドナーの臓器が必要なのだ。その意味において、1997年脳死臨調が議論を重ねて生み出した臓器移植法の本筋を踏襲し、臓器提供年齢を子どもの権利条約で意見表明権が発生する12歳まで引き下げた斉藤案は、ドナーとレシピエント双方の人権に配慮した許容しうる妥当な内容だと私は考えている。

レシピエントだけの立場が強調されれば、河野案のような独善的な法案になるが、ドナーの立場を強調するあまり、臓器提供がまったくなされない状態もどうかと思う。この2案は、本人の意思確認が出来ないことが議論の前提にある。しかし、本来は、事前に本人の意思が表明されていることが理想的だ。その点を国会でも議論して、システムの構築を急ぐべきだと私は思う。

厚労省と(財)日本臓器移植ネットワークが発行する「臓器提供意思表示カード」は、コンビニや郵便局など身近な場所に置かれるようになったが、このカードに自分の意思を書き込み携帯している人の数はまだまだ少ない。私はカード創設時から携帯している。2000年に総理府が行った世論調査によると、当時このカードを携帯している人の割合は9.4%。先月末までに配布されたカードの累計は、1億枚強。近年では、運転免許証や保険証に貼付できるように専用のシールも配布されるようになったが、先月末現在2,700万枚強に留まっている。なんとかこれを制度化して、事前の意思確認を推進すべきだ。「わからない」も含めて、意思のない人はいない。そして、明日になれば意思が変わってしまう可能性もある。その都度、シールを上から貼ればよいではないか。

自分の最期の在り方は、自分で決めたいし決めるべきだ。それこそまさに、私たちが最後に課せられた、社会への責任というものではないだろうか。
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射水市民病院の外科部長は殺人者か!? 3月30日

富山県射水市民病院外科病棟で行われた、末期ガン患者らに対する人工呼吸器の取り外しによる延命治療の中止を、殺人と呼べるだろうか。報告されている7名のうちの6名の患者の人工呼吸器を取り外した外科部長は、今日、取材陣を自宅に招きいれ、「医師と患者との信頼関係の中で、自然に死を迎えたほうが良いという患者の家族との同意のもとに、延命治療の中止を決断した」と、動機について詳しく語った。併せて、「心停止が人の死だという考えと、延命治療の中止は正しかったという両方の思いが揺れ動いている」と、現在の心境を述べてもいる。

外科部長のこれらの行為は、昨年10月、病院長の知るところとなった。厳しく詰問した(と思われる)院長に対して、当初は尊厳死を強行に主張していたこの医師は、最後には「間違っていた」と反省し謝罪をしたそうだ。この医師は明日31日付で病院を辞職するが、末期ガン患者らに対する安楽死が明確に法制化されていない日本の社会の現状を踏まえると、責任がこの医師だけにあるとは言いきれない。

7名の患者の家族は、「同意がなかった」とは言っていない。わざわざ玄関先に、前言を翻し「(家族は)同意した」とはり紙をしている家もあり、この医師の独断でなかったことは間違いなさそうなのだ。6名の患者は、「意識がなく、回復の見込みがなく助けられない状態」だったとこの医師は述べている。医師の行為が「殺人」なら、仮に家族から頼まれて人工呼吸器をはずしたのだとしたら、真の「殺人」の首謀者は家族ということになる。患者本人が、意識がなくなったら延命措置をとらないで欲しいと事前に意思表示していた可能性もある。

「安楽死」は、「肉体的に耐え難い苦痛」「死期が迫っている」「苦痛を和らげる方法がない」「患者の明らかな意思表示」の4要件を満たしていることが基本で、積極的に生命を縮める行為をさす。一方「尊厳死」は、「死が不可避な末期状態」「患者の意思表示がある(家族による推定も可)」「自然の死を迎えさせる目的に沿う」の3要件を満たし、人工呼吸器などの延命措置を中止する行為をいう。今回のケースは、尊厳死であるか否かが問われているが、闘病にかかわっていない第三者には、実際のところ計り知れない部分が多く、真実は医師と患者・患者の家族にしかわからない問題だ。

終末期医療で最も重要なことは、患者と医師との信頼関係だ。この7名は、自ら意思表示できる状態ではなかった。そもそも、ガンであることを告知されていなかった可能性もある。その場合には、本人に「死」に対する自覚がなかった可能性が高い。いずれにしても、オランダのように、明確に「安楽死」が法制化されていない以上、ガンであるか否かを問わず、不慮の事故も想定して、自分がどういう「生き方」あるいは「死に方」をしたいのか、思考が明快なうちに意思表示をしておくシステムの構築が、今後重要となる。予め本人がどういう「生き方」または「死に方」をしたいのかを明確に意思表示することで、他人を巻き込む度合いが縮み、安楽死あるいは尊厳死の是非に関する問題は随分すっきりする。

現在のように、安楽死や尊厳死に対する議論を、社会が比較的避けているような状況では、責任を逃れるために、延命措置を無期限に継続する医師が多いはずだ。高齢化が進む日本では、現在300万人以上のガン患者が存在し、2015年には2人に1人がガンで死ぬと予測されている。にもかかわらず、終末期医療というある意味医療にとって最も重要な部分が、医師からも敬遠され社会全体としてもおざなりにしている傾向がある。

末期ガン患者に、誠心誠意向き合える医師は、残念ながら現在の日本にはまだまだ少ない。そもそもの「告知」についても、医師の人格によってその質は様々だ。たまたま出会った担当医が、私たちの終末期の在り方を決めるものではない。患者の意思を忖度し、患者の「生き方」あるいは「死に方」を支えるのが医師の役割だ。

黒字経営になりにくいという理由で、日本にはホスピスや緩和ケア病棟の数は非常に少ない。富山県で終末期医療を専門とする病棟は、富山市内にある県立中央病院1ヶ所だけなのだ。ガン死亡率が激増する状況に、医療現場のほうが実は追いついていないのである。外科手術など積極的な治療にあたる専門家は沢山いるが、肝心の、患者が最も苦痛を伴う終末期を支える医療が、日本ではまだまだ未成熟なのだ。命の最後を支える環境が未整備である以上、少なくとも、延命措置を希望するのかしないのか、予め出来る限り具体的に意思を固めておくことは、自分へのそして社会への責任ではないか。

射水市民病院の外科部長の主張に嘘がなければ、ある意味この医師は、医師としての責任をむしろ積極的に果たしたとも言える。ただ、日本の社会全体が「安楽死」や「尊厳死」に対して未だに曖昧な状況であるために、過失を問われ刑事罰に処せられる可能性があるのだ。これらの法制化を急ぐことは勿論、自分の最期の迎え方を、予め意思表示するシステムをつくりあげることが、何より重要だと私は思う。
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