介護現場の矛盾 2月15日

石川県かほく市のグループホーム「たかまつ」で発生した、介護職員による入居者殺害事件は、介護現場のひずみをまたしても露呈する結果となった。犯行に及んだ28歳の男性介護職員は、「理想と現実とのギャップに爆発した」と供述しているそうだ。この言葉から察するに、犯行に及んだ介護職員には「理想」はあったのだ。

残念ながら、介護現場を支えるスタッフの劣悪な労働状態は、昨日今日始まったことではない。2000年4月の介護保険制度導入前後、ケアマネジャーとしても仕事をしていた私は、介護保険制度がいかに介護スタッフに過酷な労働を強いる制度かということを、嫌と言うほど味わっていた。以来、状況は一向に改善されず、現在もなお体調を崩しながらも任務に没頭する介護スタッフが、私の周りには大勢いる。

一方で、介護保険を利用する高齢者あるいはその家族にとっても、現在の介護保険制度は不十分な制度だ。以前からも指摘されているように、利用者の立場からみて現況の介護保険制度の最大の欠点は、認知症の高齢者介護に極めて不親切だという点だ。物忘れが激しくなると、その方の命そのものが危険にさらされることになる。火をつけたことさえ、忘れてしまいかねないのだから。当然、炊事やお風呂は、1人ではこなすことができない。持病に関する内服薬も、過剰に服用してしまう危険がある。とても1人暮らしなどさせられない、と家族は思う。当然だ。

しかし、その高齢者が、自分で歩いたり、手足を自由に動かすことが出来たり、排泄が可能であったりすると、要介護度は極めて低く認定され、実際に必要とする介護サービスやデイサービスを、必要十分に受けられないという矛盾に突き当たる。要介護度の認定において、最もやっかいな問題だ。誰が考えても、認知症が進んだ高齢者から、目を離すことなどできるわけがない。付きっきりでそばに居ることのできない家族にしてみれば、ヘルパーさんの時間を少しでも増やしたいし、デイサービスに行く日数が増えれば増えるほど安心もできるのに、例えば「要支援」の認定では、毎朝1回のヘルパーと週1回のデイサービスを受けるのがやっとなのだ。

ほどなく、家族の介護保険制度に対する怒りは、頂点に達する。日常、患者さんと接する中でも、そのようなケースはいくつも話題にのぼる。今度の改正介護保険制度では、「痴呆・うつ介護教室」あるいは「痴呆高齢者専用デイサービス」などの項目が挙げられてはいるが、現状打開にはほど遠く、家族が納得のいく内容には一歩も二歩も三歩も足りない。先日も、「子どもの学費がかかり始め働きに出たいのに、おじいちゃんから目が離せなくてホトホト困っている。介護保険は、本当に悪法よ!!」と、鼻息あらく1人の主婦から訴えられた。「行政に電話をしても、どうにもならないの一点張り。本当に腹が立つ!」と、剣幕は続く・・・。これが、現場の実態なのだ。

利用者が本当に求めているところに手が届かない。働く介護スタッフは、過酷な日常の繰り返し。この矛盾を解決しない限り、厚生労働省の理想とする「持続可能な介護保険制度」の構築は、ままならない。「痴呆」を認知症と呼び方を改めても、認知症の高齢者を抱える家族の負担が軽減されるわけではない。そして、グループホーム「たかまつ」での悲劇は、もしかしたら、どこの介護現場でも起こり得る身近な問題なのだ。劣悪な労働環境のもと、有機的な介護サービスは生まれない。仮にスタッフの精神がすさんでいた場合、高齢者に愛情を持って接することができるだろうか。介護保険制度の改正で最も重要なことは、スタッフが健全な精神で任務に没頭できる体制づくりなのだ。

知的障害者施設や介護施設では、躾と称する虐待が横行していると解説する専門家もいる。現場では虐待が当たり前のことになってはいないか。行政の責任で、1つ1つの施設をチェックするための評価機能の構築を急がなければならない。グループホーム「たかまつ」の28歳の介護職員は、介護保険制度の矛盾に耐えることができず、最悪の事態を起してしまった。勿論、大半の職員は耐え忍び、志高く任務に没頭している。しかし、人間はロボットではない。28歳の職員のように、いつか「爆発」する時が来るかもしれない。その前に、介護保険制度を作った国の責任として、1日も早く事前の対策を打たなければならないのだ。とにかく、現場を見、現場の声に耳を傾けることだ。それしかない。
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寝屋川小学校殺傷事件 2月14日

寝屋川の小学校で、また、悲惨な殺傷事件が発生した。犯人の17歳の少年は、この小学校の卒業生だ。犯人の少年は、この小学校に、どれほどの暗い思い出を抱えているのだろうかと、思ってしまう・・・。少年は現在も黙秘を続けているというが、この小学校に、口にすることすら憚られる切ない思い出でもあるのだろうか。

犯罪を犯したものの責任は、当然追及せねばならず、犯人の少年は刑事裁判の場で、相当な刑に処せられるべきだ。しかし、一方で、少年が犯罪を犯すより選択肢がないところまで追い詰められた環境にも、目を向けなければならないとも思う。少年がこれほどまでの暴挙に出た背景が、必ずあるはずだ。

犠牲になられた先生のご冥福を、心からお祈りするしかない。今や、小学校は聖地ではなくなり、厳重に外部の者をシャットアウトする警護体制が必要となった。しかし、そんな外部と隔絶された環境で、伸びやかな子どもが育つのだろうかと、疑問に思う。

社会は、何をなすべきか。無言のプレッシャーを、子どもたちに与えてはいないか。すべての子どもたちが、平和で天真爛漫に笑っているか。もし、笑わない子どもがいたら、それは問題を抱えているサインととらえ、社会の責任として放置してはならない。二度とこのような事件が起こらぬよう、学校現場だけでなく社会全体が考え襟を正していかなければならない。犯罪を犯した少年だけの、問題ではないだろう。

社会の立法府にある政治家も、いつまでもぬくぬくとしてはいられない。このままでは国のかたちの制度設計の変革以前に、地域社会そのものが崩壊してしまいかねない。政治家も、議員年金をもらう前に、やらなければならないことが山ほどあるはずだ。今のままでは、社会の不安定要素は、何一つ解決していないのだから。
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