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2012-08-24 10:15:57 | 資料
イタリア [編集]
ルネサンスの中心都市であったフィレンツェルネサンス(イタリア語でリナシメント rinascimento)は北イタリア、フィレンツェなど地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方の諸都市を中心に、教会やイスラム世界、東ローマ帝国の保存していた古典文化の影響を受けて14世紀頃にはじまった、というのが一般的な理解である。

その先駆者とされるのは神聖ローマ帝国皇帝のフェデリコ2世(1194 - 1250年)である。フェデリコ2世はローマ教皇と敵対し十字軍との戦いでギリシャ、ローマ文明の取り入れが失敗に終わる。その後フィレンツェ出身の詩人ダンテ(1265 - 1321年)が政敵によってフィレンツェを追放され、流浪の生活の中で代表作「神曲」を完成させた。古代ローマの詩人・ウェルギリウスが地獄・煉獄巡りの案内人として登場し、主人公が地獄・煉獄から魂の浄化を経て天国へ昇ってゆくという内容であり、ローマの古典文学とキリスト教による救済との調和を図った一大叙事詩である。続いてペトラルカ(1304年 - 1374年)は古典古代の時代こそ人間性が肯定されていた理想の時代であり、中世(キリスト教公認以降のローマ帝国が衰退した時代)を暗黒時代と考えた。ペトラルカは古代の文献を収集し、ラテン語による詩作、著述を行ったが、このように古典の教養を持ち、人間の生き方について思索する知識人を人文主義者(Umanista ウマニスタ)と呼ぶようになった。また、1453年のコンスタンティノープルの陥落(東ローマ帝国滅亡)の前後には、東ローマから多数のギリシャ人の知識人がイタリアへ亡命してきた。末期の東ローマ帝国では古代ギリシャ文化の研究が盛んになっており(パレオロゴス朝ルネサンス)、彼等が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識は古代文化の研究を活発化させた。人文主義者の一人、フィチーノ(1433年 - 1499年)はメディチ家のプラトン・アカデミーの中心人物で、プラトンの著作を翻訳した。

イタリアは古代ローマ帝国の文化が栄えた土地で、古代の遺物も多く、彫刻家、建築家らはこれらから多くを学ぶことができた。建築の分野ではブルネレスキがルネサンスの建築家の始めとされる。ブルネレスキは当時困難とされていた、フィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に大ドームをかけるという課題に合理的な解決をもたらし、世の賞賛を浴びた。中世の職人とは異なる、高い教養と科学的知識を持つ建築家の誕生である。「人間はあらゆるものになる可能性を持っている」と説いた人文主義者アルベルティは建築論と実作、絵画論など多くの分野で業績を挙げており、ルネサンスの理想である「万能の天才」の一典型とされる。また、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロはそれぞれ絵画、建築、彫刻など多方面での才能を発揮した。

芸術表現の特徴としては、キリスト教の洗脳による先入観から解放するために、キリスト教が罪と定義する裸、すなわちカナンが奴隷となった原因であるところの「裸を見る」行為を奨励し、裸図や裸像を作った。また、ドナテッロやミケランジェロは、ユダヤ王ダビデの像のペニスを割礼のない様相を強調して彫り、ダビデがユダヤ人ではなくパレスチナ人であったことを主張した。さらに、レオナルドダビンチにおいては、絵画『最後の晩餐』で、聖杯の血の意味を暗示して、イエスが救済したのは、旧約聖書の律法において死刑にあたる女性とイエスのような子の命であることを、表現した。[要出典]


フィレンツェ・ルネサンスの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチ音楽の分野での「ルネサンス音楽」という用語は、単にルネサンス期に作られた音楽という意味合いが強く、実際に音楽家たちが「復興」を意識するようになったのはルネサンス末期である。16世紀後半フィレンツェ、ジョヴァンニ・デ・バルディ伯をパトロンとして、カメラータと呼ばれる研究グループが結成され、「古代ギリシア音楽の復興」を目指す試みがなされた。主要なメンバーは、ジュリオ・カッチーニ、リュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイ(科学者ガリレオ・ガリレイの父)、ピエトロ・ストロッツィである。彼らは従来のポリフォニー音楽では均整の取れた美しさと引き換えに歌詞が聞き取りづらいことを批判して、より人間の感情を強調できるモノディ様式とよばれる独唱のスタイルを生み出し、その成果はバロック音楽への発展に繋がった。また、カメラータの活動に刺激された同時代の作曲家は、ギリシア悲劇を思想上の範としてオペラを創出し、ヤコポ・ペーリの『ダフネ』(確認できるうちでは最古のオペラ)や、クラウディオ・モンテヴェルディの『ポッペーアの戴冠』といった傑作が生まれた。

イタリアでルネサンス文化が開花したのは、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ヴェネツィアなどの都市である。学芸を愛好し、芸術家たちを育てたパトロンとして、フィレンツェのメディチ家、ミラノのスフォルツァ家などが知られている。15世紀末にはサヴォナローラの改革によりフィレンツェの芸術は衰退し、フランスとの抗争でミラノのスフォルツァ家も追放された(1515年)が、ローマでは教皇によるサン・ピエトロ大聖堂などの建設が行われ、多くの芸術家を集めることになった。ローマ略奪(1527年)によりローマは一時荒廃したが、ヴェネツィア共和国やトスカーナ大公国(フィレンツェ)で美術の隆盛が見られた。

ルネサンスの時代は明るい時代ではなく、ペストの流行や(マキャヴェッリが『君主論』を著したことで知られるように)政争、戦乱の続く波乱の時代であった。文化を享受していたのも宮廷や教皇庁など一部の人々に過ぎず、魔術や迷信もまだ強く信じられていた。

ルネサンスのイタリアは文化の先進国としてヨーロッパを近代に導く役割を果たしたが、国内は教皇領や小国に分裂し、またイタリア戦争後は外国の勢力下に置かれたため国家統一が遅れ、政治・社会の近代化では立ち遅れる結果になったのである。

1600年には宇宙の無限性を唱えたブルーノが異端として火刑に処せられた。イタリアにおいては自由な科学研究も困難な状況であることが示され、ルネサンスの時代は終焉を迎えたというべきであろう(ガリレオ・ガリレイの項目も参照。なお、17世紀のローマはカトリック教会を中心にバロック美術の時代に入り、直ちに文化的に不毛な状態になったわけではない)。


ルネサンス

2012-08-24 10:08:46 | 資料
ルネサンス(仏: Renaissance 直訳すると「再生」)とは、一義的には、14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す。また、これらが興った時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある。

日本では長らく文芸復興と訳されてきたが、(文芸のみでなく広義に使われるため)現在では余り使われない。ルネッサンスとも表記され、通俗的に「復興」「再生」を指す言葉として用いられている場合、例えばコスメティック・ルネッサンス、あるいはカルロス・ゴーン著『ルネッサンス』などは、ルネッサンスと表記されることが多い。現在の歴史学、美術史等ではルネサンスという表記が一般的である。


宇野邦一

2012-08-08 11:37:23 | 資料
『ウィキペディア(Wikipedia)』

宇野 邦一(うの くにいち、1948年7月30日 - )は、島根県松江市生まれの哲学者、フランス文学者、立教大学教授。

京都大学文学部仏文学科卒業。パリ第8大学でジル・ドゥルーズの指導をうけ、アントナン・アルトーについての研究で博士号取得(1980年)。1979年、「文学の終末について」で第22回群像新人文学賞評論部門優秀作。大阪外国語大学を経て、1987年より立教大学勤務。現在は同大学現代心理学部教授。専門は、映像身体論、身体論、現代思想。

目次 [非表示]
1 著書
2 共編著
3 翻訳
4 訳書

著書 [編集]『意味の果てへの旅 境界の批評』(青土社)1985 
風のアポカリプス 青土社 1985
外のエティカ 多様体の思想 青土社 1986
混成系 死と批評 青土社 1988
『予定不調和 境界の小説』(河出書房新社)1991 
物語と非知 書肆山田 1993
ジュネの奇蹟 日本文芸社 1994
D 死とイマージュ 青土社 1996
『アルトー 思考と身体』(白水社)1997 
『詩と権力のあいだ』(現代思潮社)1999 
『他者論序説』(書肆山田)2000 
『日付のない断片から』(書肆山田)
『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社選書メチエ)2001 
『反歴史論』(せりか書房)2003 
『ジャン・ジュネ 身振りと内在平面』(以文社)2004 
『破局と渦の考察』(岩波書店)2004 
『<単なる生>の哲学 生の思想のゆくえ』(05年、平凡社)
『映像身体論』(08年、みすず書房)
ハーンと八雲 角川春樹事務所、2009
共編著 [編集]マイノリティは創造する 野谷文昭共編 せりか書房 2001
アメリカ・宗教・戦争 西谷修,鵜飼哲共著 せりか書房 2003
D.H.ロレンスとアメリカ/帝国 富山太佳夫,立石弘道,巽孝之共著 慶應義塾大学出版会 2008
翻訳 [編集]フーコー ジル・ドゥルーズ 河出書房新社 1987 のち文庫 
顔貌 フェリックス・ガタリ 田原桂一写真 PARCO出版局 1988
伴侶 サミュエル・ベケット 書肆山田 1990
見ちがい言いちがい サミュエル・ベケット 書肆山田 1991
消尽したもの ジル・ドゥルーズ,サミュエル・ベケット 高橋康也共訳 白水社 1994
千のプラトー 資本主義と分裂症 ドゥルーズ,ガタリ 共訳 河出書房新社 1994
ドゥルーズ横断 河出書房新社 1994
また終わるために ベケット 高橋康也共訳 書肆山田 1997
襞-ライプニッツとバロック ドゥルーズ 河出書房新社 1998
アントナン・アルトー著作集 5 ロデーズからの手紙 鈴木創士共訳 白水社 1998
無人島 1953-1968 ドゥルーズ 河出書房新社 2003
狂人の二つの体制 1975-1982 ジル・ドゥルーズ 河出書房新社 2004
狂人の二つの体制 1983-1995 ジル・ドゥルーズ 河出書房新社 2004
神の裁きと訣別するため A.アルトー 鈴木創士共訳 河出文庫 2006
アンチ・オイディプス ドゥルーズ,ガタリ 河出文庫 2006
時間イメージ ドゥルーズ 石原陽一郎,江澤健一郎,大原理志,岡村民夫共訳 法政大学出版局 2006
アルトー後期集成 1 岡本健共訳 河出書房新社 2007
わたしは血 ヤン・ファーブル 書肆山田 2007
訳書 [編集]ドゥルーズ『フーコー』(河出書房新社)
ドゥルーズ『襞』(河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』(共訳、河出書房新社)
ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』(河出書房新社 河出文庫版)
アルトー『ロデーズからの手紙』(共訳、白水社)
ベケット『伴侶』(書肆山田)
ベケット『見ちがい言いちがい』(書肆山田)

◆宇野邦一「やさしい顔の「鬼」たち」(「朝日新聞」H20.12.2)
テーマ:評論・エッセイ

 出会った人の多くが、すでに鬼籍に入っている。この歳になれば、仕方のないことである。「鬼籍」とは、死んだ人を「鬼」あつかいすることなら、ずいぶん失礼な言葉といえる。しかし「鬼」たちの印象の、なんとやさしいことだろう。


 たとえば留学生時代を終えて最初に就職した大学には、もう老齢で、なぜか僕と同姓のの教授が先輩でいらした。専門を存じ上げなかったのでたずねたら、「私に専門はありません。フランスの著書をABC順に読んでいます」という答えが返ってきた。ずっと独身で、結婚相手はピアニストで、それもフランス音楽を弾く女性でなければならないと決めこんでいた。お宅にお邪魔したところ、庭の一角に小さな建物があって、それがコンサートホールなのだと説明された。ピアノはおいてなく、未来の花嫁がもってくるはずだった。


 底のぬけた古いソファに二人ですわり、ラヴェルの「クープランの墓」のレコードをいっしょに聴き、そろそろお暇しようとしたら、もうひとつ聴いてって、とプレーヤーに古いレコードをおかれた。「旅の衣は篠懸の」で始まる「勧進帳」の長唄だった。秋口の夜に、月が出ていた。まもなく健康をそこなわれ、失火で炎にまかれて亡くなられた。それ以来ラヴェルを聴くと「勧進帳」が聞こえ、「勧進帳」の響く場面ではラヴェルが鳴るようになった。



 パリではヴァンセンヌの森の中にある大学に通い、とりわけある哲学者の講義に興味をひかれた。煙草の煙のたちこめる粗末な教室に、ぎっしり聴衆が並び、その奥に聴衆にまぎれてすわり、しわがれ声で奇妙な単語を次々くりだす先生がいた。名前をジル・ドゥルーズといった。まだフランスに着いたばかりで、何をいっているかよくわからなかったが、その口調とまなざしに、たちまち強烈な印象を受けた。はりめぐらせた巣のうえで、糸をつたわってくる振動をとらえながら考える哲学的な蜘蛛のイメージだった。僕もその巣にかかってしまったというか、とにかく聴衆のあいだを不思議な振動がかけめぐっていた。


 これで哲学という学問のイメージがすっかり変わってしまった。哲学の仕事とは、厳密な概念をみがきあげ、体系を築き上げることよりも、世界のカオスに直面しながら、様々な波動のあいだに概念を結晶させることであった。やがて論文執筆の指導を受けることになり、ついでこの人の著書を翻訳することにもなった。巨大なマグマのような思想を前にして、おずおずと意見を述べることがあったが、いつも励ましがやってきた。いや、それが励ましであったことは今頃感じるようになっている。当時は次々おしよせてくる難題の間で、ただもがき続けている感触しかなかった。



 自殺したドゥルーズについては、たくさん愚かなことが言われた。しかし「哲学者は、死者たちのもとから帰ってきて、またそこにもどっていく」。映画についての本のなかでドゥルーズは、ふとこんなことを漏らしていたのだ。それなら、この哲学者が生者のもとにあった、ほんの短い間に出会いはあったことになる。


 しかし出会いとは、そのときだけのものではなく、生きているときには達成されないのではないか。現に、死者たちの間にもどった人と、何べんでも出会っている。出会いの不思議に出会う。それは時間の不思議でもある。いま同時に、何人ものやさしい「鬼」たちの顔が浮かんでくる。



ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』

2012-08-06 15:25:30 | 資料
第千八十二夜【1082】2005年12月8日

ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』
1986 河出書房新社
Gilles Dejeuze & Felix Guattari : L'Anti-OEdipe 1972
市倉宏祐訳

『千のプラトー』
ジル・ドゥルーズ フェリックス・ガタリ 著
宇野邦一 小沢秋広 田中 敏彦ほか 訳
1994 河出書房新社


さっきから書斎の机上に『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』が置いてある。密告者が持ってきた秘密の二重標本箱のようだ。いずれも戸田ツトムと岡孝治のブックデザインで、浩瀚を律するにふさわしい。それを少し斜めに見ながらキーボードを打っている。いずれも最初に入手したときの書きこみを入れた2冊ではない。その2冊はだれかによって、どこかに攫われた。
 この2冊はジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが二人で一人になり、一人が二人にも多数にもn+1にもn-1にもなって、荒々しい華厳ともいいうるような一蓮托生で書きあげたもので、しかもこれが一番肝心なことだが、「資本主義と分裂症」というとんでもない統合標題がついている。
 だから二冊で一組の上下巻ともいえるが、それぞれ独立しているともいえる。実際にもこの著述物が示す空間はそれぞれの範疇がちがっている。『アンチ・オイディプス』が発表されてから8年後に、序文に「リゾーム」を掲げた『千のプラトー』が出たのだが、まるで別々の空間に繁茂した植物になった。
 ぼくはこれからちょっとだけ、この二重標本箱を開けて、その中身のいくばくかを漏洩しようとしている。手から零そうとしている。今夜はそういう夜である。最初に、「千夜千冊」に因んで『千のプラトー』のほうのプラトーのこと、リゾームのことから洩らすことにする。

 プラトー(高原・高地)という言葉の思想的な意味は、かのグレゴリー・ベイトソンがバリ島を調査したときに特別の用法で使ってこのかた、ドゥルーズとガタリがこれを新たなカテゴリーとして蘇らせるまで、ほぼ死んでいた。
 ドゥルーズとガタリ(二人のことを一蓮托生でいうときは、以下、ドゥルーズ=ガタリと綴る)にとってプラトーとは、とりあえずは多様な強度が連続する地帯のことなのだが、殊更に、そこでどこかの頂点へ向かおうとする目標を回避する気になるような高原地帯のことを意味している(こう言ってもわかりにくいだろうから、あとで補足説明をする)。
 一方のリゾームとは、このプラトーを"千のプラトー"ほどに内在して張りめぐらせている感情や欲望や思想のルートが、あたかも地下茎のようになっていることをいう。訳せば多系的根茎というしかない。
 根っことしての地下茎に千の高原があるのはおかしいけれど、気分はわかる。比喩的にいえば、『アンチ・オイディプス』が地上の資本主義の病巣を銜えこんだ樹木群の追跡記録だとすれば、それらのいっさいを『千のプラトー』は地下に潜伏させ、すべての結び目をハイパーリンク状に、脱中心的に、そして多重的に繋ぎ変えた。『アンチ・オイディプス』は地上の樹木的で系図的なるものへの大胆な挑戦なのだが、『千のプラトー』のほうはそうした地上と同じ結び目が見違えるほどに、まったく異なる連接性になっている世界なのである。これを気分的には、太陽的な『アンチ・オイディプス』と月的な『千のプラトー』といってもいい。
 これも気分の問題だが、2冊をくらべると『千のプラトー』のほうがずっと独自なアレンジメントになっていて、読みやすい(このアレンジメントという用語もドゥルーズ=ガタリのおハコだ。フランス語ではアジャスマンという)。ここにはリゾーム・マトリックスが歴史を超えて炸裂するように記述されている。そういう2冊が「資本主義と分裂症」という二重標本箱の外見である。

 それにしてもドゥルーズとガタリは、よくもこんな面倒な大著(それぞれ2段組で500ページを超える)を10年かがりで著述したものだ。
 ぼくはドゥルーズには面識がないままにおわったが、ガタリには2度会っている。
 1976年くらいのことだとおもうのだが(『アンチ・オイディプス』は訳されていなかったし、『千のプラトー』はまだ原著も発表されていない)、ガタリをぼくのところに連れてきたのはアラン・ジュフロワで、それはぼくが主体性を嫌っているためだった。それ以前にジュフロワとそんな話をしたことがあって、それをおぼえていて「この男も主体性が嫌いなんだ」とガタリを紹介してくれた。
 初対面の理屈屋のフランス人との会話をそんな話題から始めるなんて、まったくツイてないほどの最悪のコースだったけれど、ガタリが主体性そのものを嫌っているのではなく、20世紀の精神分析が勝手につくりあげたニセの主体性(そのくせ後生大事にされている主体性)を嫌っているんだということだけは、すぐわかった。「たとえば?」と尋ねると、「フロイトもユングも、それからラカンもね」と、眼鏡の奥でニコリと笑った。精神分析医のガタリがそんなことを言うのだからよほどのことだろうが、そのときはそれ以上の話はしていない。
 もっとわからなかったのは、マシーヌとかマシニークという言葉の用法だ。当時のぼくは「ソフトマシーン」というイメージを重視していたので、適当に機械感覚についての会話を交わしたのだが、どうもガタリの機械はそういうものではないらしい。もっと意識や活動に連動しているらしい。
 それで2度目に会ったとき(このときは金子郁容も一緒だった)、そのことを訊いた。「二人ともビョーキだからね」と言って、また笑っただけだった。ガタリにそう言われれば、二の句はつげない(ビョーキという言葉がいろいろ暗示的な意味合いをもっていたことはあとで説明する)。

 では、ここからは話を当時の時制から離して自由に書くことにするけれど、まずはガタリがマシーヌとかマシニークという言葉を乱発する意図から入っていこう。
 ガタリには『機械状無意識』とか『闘走機械』という本があって、しょっちゅう機械が出てくる。『アンチ・オイディプス』にも機械という単語は頻繁だ。
 この機械という言葉のもつ磁場のような意味はなかなかの曲者で、たとえば「原始土地機械」「専制君主機械」「資本主義機械」などとつかわれるかとおもえば、「欲望は機械である」とか「戦争機械」とか「無意識とは機械である」とかというふうに、ギョッとするような用法になったりする。
 いったい何が機械なのか、どういうことを機械的とか機械状と言っているのかというと、ここからはややマジメに解説しなければならなくなるのだが、ドゥルーズ=ガタリは、機械が何かにくっついた状態を強調したいのだ。何に機械がくっついているのかというと、この機械は身体や欲望にくっついている。逆にいえば、身体や欲望や表現や商品が機械にくっついている。

 われわれは原始古代からずっと道具や器具を作りつづけてきた。その道具や器具とともに欲望や思索を開発してきたわけである。
 たとえば、望遠鏡を発明して天体の謎をもっと深く解きたくなったのだし、蒸気機関車に乗ってからもっと速度を官能したくなった。ピストルがあるから離れた相手を殺したくなったのだし、カメラを手にしたから記念や証拠の写真を残したくなった。あるいは破り捨てたくなった。パソコンがあるからハッカーになれたのだし、ケータイがあるからメールをしたくなった。
 そうだとすれば、こうした道具や機械とわれわれの思索や欲望や身体はくっついていると見なしたほうがいい。ドゥルーズ=ガタリはそのように人間の活動と道具や機械がつながっている状態になっていることを「欲望機械」とか「機械状」とかと名付けた。
 これが、ドゥルーズ=ガタリが「機械」という用語を駆使する理由だった。ときに二人によってマシニスム(機械状主義)といわれる。まあ、わかりやすくいえば「みんな機械仕掛けになっている」という意味だ。
 しかし、その機械状なるものがわれわれの思索や欲望と切っても切れないものになっているとして、そのことを表明することがどうして「資本主義と分裂症」という奇怪な統合標題があらわすためのホットワードになっているのかというと、これについてはもう少し深入りして説明する必要がある。まして「無意識は機械である」というような言いかたを理解するには、ドゥルーズ=ガタリとともにこのことをしばらく考えてみる必要がある。

 まず、分裂症(スキゾフレニー)が大きな問題として扱われていることから解いておく。
 ドゥルーズは、ガタリと『アンチ・オイディプス』を共著作業する4年ほど前の1968年に、『差異と反復』という記念碑的な本を刊行した。ここにアントナン・アルトーが出てくる。アルトーはシュルレアリスムにかかわったフランスの詩人で、異能の演出家でも役者でもあったのだが、1930年代後半から8年にわたって精神病院に入っていて、退院してパリに戻ってから2年後の1948年に、癌のまま人知れず死んでしまった。ただ、そのあいだに、文章やデッサンや演劇やカーニバルのプランをいろいろ書いた。生前はほとんど知られていなかったのだが、死後に『演劇とその分身』が発表されると、みんなが圧倒された。
 その思考の跡はどんな領域にも収まりきらないもので、それをトレースしてみると、むしろ多様な境界を次々に侵食していくような、これまでにない根源的な思考の進みかたをあらわしていた。
 このアルトーの思考の進みかたはあきらかに分裂症に関係がある。ドゥルーズは『差異と反復』でそのようなアルトーに注目して、そこに思考することの衝動のすさまじさを発見し、この衝動こそがあらゆる種類の分岐を通りすぎつつ、さまざまな固定した思想の中心を崩壊させ、亀裂させ、そのうえで新たなものを結びつけていく力なんだということに気がついた。そして、その衝動の発現が「器官なき身体」というものから出ていると見た。

 ここに登場してきた、これまた奇妙な「器官なき身体」という概念は(ドゥルーズは概念を考えることが一番好きな哲学者なのだ)、アルトーが使っていた用語をそのまま流用したもので、ドゥルーズの説明では、ヨーロッパの歴史と社会の深層の危機を告げる拠点にあたるものだとされた。
 そのイメージはアルトーの次の詩に暗示されている。

  皮膚の下の体は過熱した工場である
  そして外では病者が輝いている
  彼はきらめくあらゆる毛穴を炸裂させて

 まさに分裂症の渦巻く衝動を綴っている。ドゥルーズはしかし、この衝動を本物ととらえたのである。意識の本来の正体はこういうものだとピンときた。
 そして、このような分裂症的な衝動(すなわち欲望)こそが思索の本来を貫くものとなり、さらには社会の滞留点をどんどんぶっこわしていくものになるのではないかと推理した。ただし、そこにニセの主体性やニセの精神分析による制御が加わらないかぎり――。
 こうした内容をもつ『差異と反復』の発表のあと、1968年のおわり近く、ドゥルーズはガタリと初めて出会う。ガタリはまさに精神病を研究している現場の精神科医だった。

 ここで急いでドゥルーズ=ガタリのそれぞれのことを、少しだけ覗いておくことにする。
 ジル・ドゥルーズは自分のことをほとんど語らなかった哲人だが、父親がエンジニアで、兄貴がレジスタン活動にかかわって、アウシュヴィッツの強制収容所に向かう列車のなかで死んだことは知られている。リセのころはサルトルに熱中したようだ。「そのころぼくのすべてがサルトルだった」というようなことを、どこかのインタヴューで言っている。
 長じてソルボンヌに入って哲学を専攻し、1952年に最初の著述を出版するのだが、それが『経験と主体性』というヒュームについての論考だった。それから10年ほどは沈思黙考したらしく、そのかわり60年代に入ると爆発的に書きまくった。タイトルを見るだけでなんとなくわかるだろうが、『ニーチェと哲学』『カントの批判哲学』『プルーストとシーニュ』『ベルクソンの哲学』といった連打だ。そのうえで1968年に『差異と反復』という傑作を発表した。
 このうち、ドゥルーズの思索がヒュームに始まったこと、ニーチェとベルクソンとプルーストに埋没したこと、そして『差異と反復』にアルトーの「器官なき身体」のほかに何を書いたかということがとくに重要であるけれど(基本は「差異」とは何かということ)、今夜は省略する。

 フェリックス・ガタリはドゥルーズより6歳下で、1953年に開業創立されたパリ郊外のラボルド精神病院に務めて、しだいに主導的な役割をはたすようになっていた。
 若いうちは共産党に入党していた活動家だったが(これはドゥルーズもフーコーも同じこと、ただ三人はルイ・アルチュセールのようにはずっと党員にとどまらずに脱党した)、やがてジャック・ラカンに始まったラカン派の精神分析を試みるようになっていた。ところがガタリは、だんだんラカン派の分析に疑問を抱く。
 それというのも、もともとラボルド精神病院は精神医療は医学の外部にあるべきもので、むしろ社会や組織や集団の問題とともに解くべきものだという方針をもっていたためだった。ガタリはもう一人の主導的メンバーだったジャン・ウリーとともに、ラカンに対して、さらにフロイトに対しても強い批判をもつようになっていく。
 こうしてさきほども言ったように、パリが五月革命で燃え上がった1968年という劇的な舞台の片隅で、二人が出会ってドゥルーズ=ガタリとなった。

 話を戻して、なぜ「資本主義と分裂症」という統合標題がついたかということだが、ドゥルーズ=ガタリは分裂症の本質には、衝動や欲望が内部にむかって押し潰されているところがあると見なした。そして、そのようになっているのは資本主義社会のせいではないかと考えたのだ。いや、資本主義というものはもともとそういう本質をもっているのではないかと考えた。
 なぜならひとつには、今日のような精神分裂症のひどい広がりは古代はむろん、中世近世にも、少数をのぞいて蔓延しているとは想定できない。どうも資本主義の発達と定着にしたがってふえたと考えられる。そうだとしたら、資本主義というものは欲望を内部に溜めてしまう欲望機械であり、分裂症は資本主義社会で自分の欲望に走ろうとしているかぎりは、だれにとっても発症しうるビョーキだということになる。
 ここからはいろいろの見方が出てくる。フランソワ・リオタールのように、これをリビドー経済学ととらえて、経済がたえず欲望を隠蔽し、排除し、変形しているというふうにも解釈できるし、ピエール・クロソウスキーのように、経済の構造は情動(欲望でもいいのだが)の副次構造にすぎないとみなすこともできる。
 しかし、ここにはさらにもうひとつの問題が裏打ちされている。それは、そのように資本主義がつくった精神のビョーキを、フロイト以来の20世紀の精神分析学はかえって封印するか、歪んで取り出してしまったのではないかという問題だ。この問題は資本主義の問題よりも、ばあいによってはもっと大きな問題である。ドゥルーズ=ガタリは、もしそのような問題があるのなら、それは、精神分析学というものが本来の欲望の動向が示すものが何かを見届ける前に、そこに"健全な主体性"というものを設定して、そこからずれるものを心の病いにしてしまったのが原因になっているのではないかと見た。それなら、これを告発するぞと決めたのだった。

 総じてフロイト心理学というものは、無意識がうまくコントロールされずに外にはみ出してしまった心理現象をもって、これを精神病と規定した学問である。
 もともとは、ヒステリーや神経症がキツネや魔女や悪魔などのせいではなく、また本能や遺伝や家系などのせいでなく、幼児期などに受けた心の抑圧が要因になって、それがさまざまに体にあらわれて病いのかっこうをとっているとしたのだが(このようにしたからフロイト心理学は医学という科学になりえた)、しだいにその心のモデルが整理されるうちに、精神のビョーキは無意識(エス)、自我、超自我といった自己規定型の概念でことごとく説明されるようになっていった。
 こうなると、ビョーキの説明概念が人間の心の説明概念にとって代っていく。
 たとえばフロイトによれば、われわれが眠っているときに見る夢は目的が果たされなかった願望の充足や補足なのである。子供は食べたいキャンディが食べられなくて、夢のなかでキャンディに会う。ただし大人は願望を満たせない自分というものも知っているから(それを超自我という)、夢のなかでもその検閲をおこなって、そのかわりに願望の対象を別のものに代替させて調整をとっている。本当かどうかは知らないが、女性は性欲をネックレスの夢に、男性は果たせぬ性欲をネクタイにする(逆でもいいけれど)。
 平たくいえば、そういう解釈になっていった。これでは無意識を超自我がそうとう巧みにコントロールしないかぎり、いつもビョーキ寸前ということになる。
 しかし、ドゥルーズ=ガタリに言わせると、この超自我の設定がニセの主体性の設定なのである。すなわちこのように分析して病名を決めてしまうから、本来の欲望が歪んだままになる。つまりここにはフロイトに始まる心理機械とでもいうものがはたらきすぎて、いわば無意識をも心理分析機械と切り離せないものにしてしまったのだ。「無意識は機械である」にはこのような意味がひそんでいる。

 これで、二重標本箱に「資本主義と分裂症」という標題がついている理由の大枠は見えたろうとおもうのだが、では、それがさて『アンチ・オイディプス』として起爆していったのはどうしてかということだ。
 説明するまでもないだろうけれど、フロイトはエディプス・コンプレックスの研究をした。エディプスはソポクレスの悲劇王オイディプスのことである。その物語の梗概は第657夜に書いたので省略するが、フロイトはこの物語から、「幼い男児には父親を亡きものにして母親とつながりたいという願望がある」という心のメカニズムを引き出して、それをエディプス・コンプレックスと名付けた。コンプレックスというのは劣等感のことではない。観念がつながりあっていることをさす。
 オイディプスの物語から両親と子の相剋を抜き出し、それを意識の根底にかかるコンプレックスのモデルとしたことに、ドゥルーズ=ガタリは痛烈な異議を申し立てた。
 意識や情動ってそんなものなのか。一人の幼児の意識や情動はもっと世界を駆けめぐっていくはずだったのではないか。それをフロイトは早々に切り出してしまったのではないか。二人はそう言いだした。だから二人のメッセージはアンチ・オイディプスなのである。

 ドゥルーズ=ガタリにしてみれば、コンプレックス(観念のつながりぐあい)は、「器官なき身体」がもたらす情動の霰走りであるはずなのだ。
 それはアルトーの溢れるような発想になっていくはずのものであって、それをどこかで中断させたり、資本主義的な欲望にすり替えようとすれば(資本主義的な欲望なんてキリないものだから、そこにも必ず中断があるのだが)、病名としては分裂症というふうになってしまうだけなのである。
 すでにレヴィ=ストロースやミルチャ・エリアーデが解明していたように、神話時代にはそのような発想は分裂症とはならず、商品購買やその私有ともならず、次々にイコンや物語や図像世界に向かって広がっていった。『アンチ・オイディプス』にはドゴン族の話もとりいれられているのだが、そこでは「私は母の息子であり、兄弟であり、夫である」というような、それこそフロイト心理学からすれば必ずやビョーキと裁断される幻想が翼をのばしている。

 ドゥルーズ=ガタリは資本主義を否定したのだろうか。分裂症を肯定したのだろうか。そのどちらでもない。狭すぎる学問というものが作り出す意識や存在の規定が、ついに社会にこびりつくまでに至っていることを告発したのである。だから、これは標本箱なのだ。
 こうしてドゥルーズ=ガタリは次の『千のプラトー』では、資本主義的社会からは見えない紀元前1万年の、紀元前7000年の、紀元前587年と紀元70年の、そして1227年や1730年の情動のリゾームのネットワークを張りめぐらすのである。『千のプラトー』は『アンチ・オイディプス』の裏にある歴史篇なのだ。標本箱は二重だったのである。そこはn+1ではなく、n-1で描かれる。
 そこをドゥルーズはのちの『記号と事件』では、インタヴューに応えて「欠けたところのリングが集まったようなものだと考えていただければいい」と説明した。
 それで何を『千のプラトー』にしたかといえば、思索の極限で器官をつかいはたした状態の意識がプラトー状態なのである。そのプラトー状態で、なおどのようなリゾーム状の記述が可能かというのが『千のプラトー』という実験なのである。
 これは、元に戻っていえば、ドゥルーズが『差異と反復』で持ち出したドゥンス・スコトゥスとスピノザとニーチェを「生成の契機」としたことから始まっていた方法だった。とくにニーチェの永遠回帰の思想そのものを「生成の存在」と見たことが、新たにリゾームのなかのプラトー状態として発現してきたというふうに見てとれる。ドゥルーズ=ガタリはそれをさらにノマドロジーとして開放させるようにした。リゾームを開いていったのだ。
 まあ、リゾーム・マトリックスの玉手箱にいくつも煙が吹き出て、読む者の時空感覚を変えられるようにしたとでもいえばいいだろうか――。

 いささか焦って二重標本箱の蓋を開けたかもしれない。零れるものが多すぎた。でも、今夜はこれでいいだろう。こんなものじゃすまないというのなら、やはり、戸田ツトム君たちの装幀による2冊を読まれるのがいい。それも面倒というなら、これはぼくの是非とものお奨めだが、宇野邦一の『ドゥルーズ 流動の哲学』を読まれるといい。ドゥルーズの教え子で、アルトー研究者でもある精鋭碩学による心優しき案内だ。
 それから、むろんドゥルーズとガタリの単著がなんといっても豊饒に待っている。ぼくは宇野邦一が訳したドゥルーズの『襞』(ライプニッツ論である)や、ガタリが独得のダイヤグラムを駆使した『分裂分析的地図作成法』が好きだ。
 しかし、二人はもういない。ガタリは1992年8月に心臓発作で死んだ。ドゥルーズは1995年11月に自宅のアパルトマンから投身自殺した。われわれには「器官なき身体」と打ち続く「千のプラトー状態」だけが残響している。





附記¶ドゥルーズの主要著書は、『差異と反復』(河出書房新社)、『プルーストとシーニュ』(法政大学出版会)、『ニーチェと哲学』(国文社)、『襞』(河出書房新社)、『記号と事件』(河出書房新社)など。ガタリには『精神分析と横断性』『分子革命』『機械状無意識』(法政大学出版会)、『三つのエコロジー』(大村書店)、『闘走機械』(松籟社)、『カオスモーズ』(未訳)などが残された。二人の共著は『千のプラトー』『哲学とは何か』(河出書房新社)、『カフカ』『政治と精神分析』(法政大学出版会)がある。宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社選書メチエ)、篠原資明『ドゥルーズ』(講談社)などもお忘れなく。









 

人口 世界

2012-08-03 14:05:23 | 資料
順位 国 2011年推計人口
- 世界 (人口) 6,945,566,097

1 中華人民共和国 1,349,335,152
 香港 8,053,189
 マカオ 557,972
  合計 1,348,926,313
2 インド 1,224,514,327
3 アメリカ合衆国 310,383,948
 プエルトリコ 3,749,009
 グアム 179,896
 アメリカ領ヴァージン諸島 109,056
 アメリカ領サモア 68,420
 北マリアナ諸島 60,917
  合計 314,551,246
4 インドネシア 239,870,937
5 ブラジル 194,946,470
6 パキスタン 173,593,383
7 ナイジェリア 158,423,182
8 バングラデシュ 148,692,131
9 ロシア 142,958,164
10 日本 126,535,920
11 メキシコ 113,423,047