古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

伝記『近衛文麿』から引用します。

2021年02月10日 20時30分25秒 | 古希からの田舎暮らし
図書館で『近衛文麿』(杉森久英 著)を借りて読みました。日中戦争(支那事変)はどのように拡大したか。近衛はどう働いたか。当時の様子を読んでみました。「なぜこんな始末になったか」を著者は書いています。引用します。


 日本と中国の不幸な戦争のことが問題になるごとに、その端緒となった盧溝橋の衝突を、どうしてうまく処理できなかったかと、近衛文麿の責任を問う論評が多い。近衛が軍の強硬方針に屈して、首相としての責任を行使せず、 …… 彼の弱腰を責めるのが普通のようである。
 ……  実を言えば、戦後、日中戦争について書かれた多くの論評は、一方的に日本の侵略と断罪するものが多いけれど、当時の日本人の心情では、決して一方的に侵略と片づけられるようなものではなかった。当時の新聞記事にいやというほど見られた「聖戦」「暴戻の支那」「膺懲」(注「中国はけしかららん。あの国をこらしめよ。」という意味)などの言葉は、それぞれに日本人の愛国心に訴える響きを持っていた。もちろん、それらの用語の多くは、そのころ軍が急に力を入れはじめた宣伝工作と、新聞のセンセーショナリズムから作られた流行語だったけれど、 …… 多少とも当時の日本人の正義感に訴える要素を含んでいたことも、否定できないだろう。 …… 日中戦争は、結局、泥沼に落ち込み、太平洋戦争に発展し、惨憺たる終末を迎えたが、その発端においては、それほどの大戦争になることを、誰も予期していなかった。 …… 近衛文麿は戦後の手記の中で、あのとき軍の強硬方針に反対することのできなかったことを悔やみ、一般に昭和史を論ずる人も、日本の侵略の意図とか、謀略とかいうことを言い立てて、はじめから途方もない野望のもとに行動したかのように言うけれど、実は、当事者にとっては、盧溝橋ははじめはちょっとした紛争に過ぎず、あの程度のことは、これまでにも何度もあったのである。だからこそ、近衛も石原莞爾も、それほどの大火事になるとも思わず、ちょっとした小火を消すための消防車を出すくらいの気持ちで、三個師団の派兵に踏み切ったものであろう。


 軍隊を持つ/国境を守る/相手の戦力はどうか/どれほどの戦力で守れるか/ …… という方向に走り出すと、歯止めが効かなくなる。
 力でなく、外交で、乗り切っていく。かつて多くの国民が燃えあがってしまい、大きな失敗をした国です。そこに思いをいたす。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 全豪オープン・テニスを応援... | トップ | 大坂なおみが2回戦を勝ちあ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

古希からの田舎暮らし」カテゴリの最新記事