古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

夜中に起きて『大兵庫村』の山下幸雄さんを思いました。

2019年04月03日 02時42分55秒 | 古希からの田舎暮らし
 きのうは東条図書館に本を〈返し/借り〉に行きました。
 帰りがけに「自由に持ち帰ってください」コーナーを見たら(『死なないで!』=1945年真岡郵便局「9人の乙女」= 川島康男 著 1995年 農文協刊)という本も置いてあります。
 題名を見ただけで、あの戦争に負けたとき「日本の兵士に見捨てられた最前線の人たち」とわかります。満蒙開拓青少年義勇軍/満蒙開拓団/の体験を〈聞き取り〉したことのあるぼくとしては、見すごせない本です。手にとって「あとで読もう」と持ち帰りました。
 夜中に起きて本を手にしましたが「読む気力が出ない」と思いました。
 そして「大兵庫村の山下幸雄さん」を思いました。
 日本の敗戦の8月、ぼくは小学校2年生でした。(当時は小学校と言わず『国民学校』と言いました)夏休みで、鳥取県の田舎で蝉取りをしていました。鳥取県の田舎には敵の飛行機も味方の飛行機も飛んできません。兵隊もいません。男はみんな出征し、女と子供だけが防空壕を掘りかけていました。
 うちの防空壕は、祖母と母が畑に50センチほど掘っただけでまだ屋根はなし。
 兵庫県の高橋村の人たちは、昭和19年に「満蒙開拓団」として旧満州に渡りました。そして翌昭和20年8月15日の敗戦とともに逃げまどい、8月17日に河に身を投げて集団自決しました。
 小学校5年生の山下幸雄さん一家も集団自決しました。幸雄さんは兄さんとゲートルでグルグル巻きにくくられて、ホラン河に突き落とされました。どうしたことかゲートルがほどけてしまい、幸雄さんは死ねず生き残ってしまいました。
 それからの長い「いきさつ」をとばします。現在84歳です。彼は「大兵庫村の集団自決の語り部」として辛い体験を語っておられました。おそらくいまも。
 もう10数年前になりますが、ぼくが精力的に「聞き取り」をいていた頃、山下さんに二度会いに行きました。一度は出石の喫茶店でお話を聞き、次はシルク温泉に泊まって、じっくり話を聞かせてもらいました。青少年義勇軍を多数輩出した長野県にも聞き取りに出掛けました。
 そして今、ぼくにはあの「悲惨な話」を聞く気力が無くなってしまいました。
 当時の高橋村(旧但東町)=今は豊岡市 の刊行した本 『国策に散った開拓団の夢』という本は処分できないまま残しています。付箋やマーカーはついていますが、差し上げます。アドレスをコメントにください。
 
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