Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

いじめなのか、拒絶なのか

2018-11-27 | 人間関係

翻訳シリーズを書いてから予想外の展開になってしまった。

私が翻訳者として適切か不適切かが問題に出され、

韓国人が日本語を訳すと名乗り出た自体、

言語能力に対し疑いのあるとのコメントが幾度なく寄せられた。

 

私の能力が問われることは当たり前に思っていたのもあり、

批判や裁きは然程のことではない。

疑いや不信はあることを起こした時、

それが結果に向いていく過程で必然的に起こる因果関係でもある。

 

シリーズを書く過程の中で、

私は南師の過去ブログ記事を全部読むことを目標に設定した。

毎日記事を読んでいくと、

内容によってはその記事が書いてある時代背景を確認する必要が出てきて、

ネット検索や他の諸情報確認と並行しないと全体像が掴めないのが多く現れた。

 

思ったよりブログ記事を読むのに時間がかかり、

始めに決めていたシリーズを完成させる期間がつられて延びてしまった。

だが、私は自分が決めたある段階を踏み終えないと次にいけないサガがある。

人に背中押されて期間を早めることがまるでできない問題点も併せ持つ。

人に何を言われようと自分が決めたことを基本から始める、それしかできない。

 

そうしていると決まって、

目の前に新たな問題が現れ、

その問題を解決しないと次の段階に行けなくなることが生じる。

その中で発生した問題点を解決するため、

ブログ主のコメント欄コメンテーター宛てに助けを求めることになった。

何故なら、そのブログのコメント欄では

仏教関連の知識豊かな多くのコメンテーターが、

素人に対し高いレベルの知識を提供していたからだ。

だが、私のコメント宛てに

名を指定していない人から以下のコメントがあった。

 

『桂蓮のコメントは不要。

否定ではなく不要。

語る益が見当たらず害にしかならない。

桂蓮のコメントは全て不要。

ブログ内容と関係がない点でも不要である。』

 

あれほど、強烈な拒絶は生まれて初めてだったので、

何回も読んでしまった。

そのコメントをした者の言い方は南師の簡潔な表現と酷似していたから、

南師が私宛に書いたのかとあれやこれ考えてしまった。


そうしている内に気持ちが落ち込んで、

不愉快も超える悲しみがこみあがった。

それが正に、他人がくれた苦痛なのであった。

ある他人が私宛に苦しめと言っているような強制である。

 

その人が南師本人か、

全く別の人かは確認できない以上、

私が解決できる問題でない。

だが、根本的な問題はある人がある人に対し、

不要と言っている事実なのである。

それが、仏教の教えを実践している人のブログ内で起こっていることだ。

 

学校でいじめにあった生徒が自殺して、

その学校の校長がインタビューされるニュースが結構報道されている。

その校長は決まってその事情を知らなかったという。

恐山ブログでは削除によって、

あってはならないコメントが整理される。

私の個人生活まで非難してきたコメンテーターに対し、

私の怒りのコメントは削除されたので、

ブログ管理者が私宛の他のコメントも読んでいることになる。

 

だが、残していいとされた上記のコメントや

他の私に宛てのコメントはまだあるから

もう知らないと言えない立場になっている。

このようなことがなぜ、起こっているのか?

この疑問は私が解決できるような事柄でないのは確かだ。

 

仏教の教えを教えている指導者のブログ内で、

ある人を指し不要だというコメントが存在している。

そのコメントを残した者が南師本人でなくても、

少なくても仏教知識を語ったはずである。

 

人に不要だと言える人が言うことを許されている、

これは明らかに問題がないと言えないだろう。

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40 Comments

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おはようございます (のしてんてん)
2018-11-28 09:11:37
私よく空を見ます。好きなのです。特に夜空は神秘的ですね。
満天の星に心が融けいりそうですが、その星は私が見ているこの瞬間にはすでに存在していないかも知れないと思うことがあります。
何万光年旅をして来た星の光がここに到着した今、その星自身はすでに消えているかも知れない。星空は過去の姿なのですね。

その時私は忽然とお思い至りました。人は決して他人の「今」を見ることは出来ないのだと。「今」とは自分自身のことであり、それ以外に「今」を見ることは出来ないのです^ね^

するとさらに面白い事実に思い至りました。

見ている星空は確かに「過去」の姿ですが、「今」は最初からそこにある。つまり夜空を見ているこの自分の中に「今」がある。

どういうことかと言えば、夜空の星は実は自分自身の「今」だったということなのですね。

そう気付いたとき、私は他人へのこだわりは、実は自分自身の「今」を見ているに過ぎないのだと思ったのですね。

外に向かって解決を探ろうとしても、その外にある「今」に達することは出来ず、ただ外に目を向けようとしている己の「今」があるだけだと思ったら、

自分が幻と取っ組み合いをしているように思えて、心が鎮まりました。

ただ己の中に坐ればいいのだと。

五次元が私の中ですこし実をつけ始めたそんな予感があります。

近況でし^た^
Unknown (通りすがりの者)
2018-11-28 17:20:28
穏やかならぬタイトルに驚きました。
数回読み、私見を寄せます。

前後は詳しくわかりませんが、すさまじい否定の言葉ですね。
驚き、悲しくなられたでしょう。

それが尊敬する方のブログのコメント欄で起こったとなると、何を信じていいのかとも思われることでしょう。
そんな目にあったことのない者としては想像するしかありませんが、心の深い部分が砕けたような辛さでしょう。

ただ、思います。

仏教にどれほど造詣が深くても、イコール人格が高潔で深いとも言えないのでは?と。
その精神をどれだけ体現しているのかも、個人差があるでしょうし。

また、南師がそのコメントを捨て置いているのにも、さほど深い意味合いはない、場合もあるのでは?と。

南師の言葉の中に真実を直感なさったのですよね?彼という媒介を通じて表現されたものが、あなたの心をとらえた、と。
大切なのはそこで、そこ以外は枝葉末節。

南師ご本人、つまり南師個人の全人格とも極端な話、関わりがないのでは?とも。

通りすがりの者にはそう見えます。

南師の言葉にあった真実が、輝いていた。
真実だ、輝いていたと直感した。
そこだけでいいのでは?と、私が言うまでもないでしょうが、そんな気がいたしました。

今回の出来事は、その輝きを英語に訳そうと頑張っていらっしゃる過程での出来事でしょう。
心が折れますね。


こちらをいじめたり拒絶したりしたい人とは、お互いに今生では相容れないのでしょう。
哀しいですが、相容れない人とは相容れないようです。それはもう、仕方がないでしょうね。
否定したい人は、何があろうと無かろうと否定するでしょうから。

だから、あなたの直感をあなたご自身が信じ、もうそれだけでいいのではと通りすがりの私は愚考いたします。

長々と失礼いたしました。
今後のより良いご活動をお祈りいたします。
Unknown (通りすがりの者さまへ)
2018-11-28 19:26:08
例のコメントは27日の日付に書かれていたので、
今日の28日まで、削除されることを期待してましたが、
私がこの記事を書いた時までは
残っていました。

もし、そのコメントが今になって削除されているのであれば、
そのブログ管理者は都合悪いコメントは削除する、ことになるでしょう。

そのような考えなどで苦痛な一日を過ごして
通りすがりの者さまのコメントを読んだら
昨日では感じないように抑圧していた感情が
一気に爆発されました。

昨日は他人がくれた苦痛を受けないように
感情をコントロールすることだけに
集中していたから
事実を認めることだけに意識を向けたのです。

それが、私の苦しみを汲んで下さった共感力で
自分の感情に今日になってやっと直面できました。

私は今まで運よく、いじめにあっても
それに向かえ、立ち向かうことができたから
いじめや拒絶が実際、どのくらい苦しいものかが
よく分かっていませんでした。
自分の手が届く範囲だったからでしょう。

ですが、今回は相手は自分を見えなくしていながら
(相手は私を知っていて)
自分の正体を隠し、
知られている私に指してのコメントだったので
私の手が届かない範囲でした。

その人には被害が届かないところにいるのです。

私がそのコメントを記事にした理由は
仏教の教えを説いている指導者のブログ内で
ある意味『可』として
そのコメントがあるとの不条理が
耐えられなくなったからです。

そこにコメントしている人々は
仏教の知識や他の宗教の教えを語り、
善と悪を比較しては
思想や哲学まで語っています。

書いていることがいくら正しくても
人を排除しようとしている人を黙認することに
何かの怒り、
あってはならない何かを感じざるを得ないような
言葉に言い表せない何かがあって
記事にしてみたのです。

書いてから、実際そのようなめに逢って無いと
いじめの苦しみを分からなかった私自身が
愚かだった実感もしました。

今まで信じていたことに裏切られた背信感
眼を背けることでは済まされない何か、

ですが、このような過程も
事実を知っていくために
避けてはとおらない橋なのかと
思ったりします。

私がブログを始めて以来、
今までなかった大きな襲撃に直面している時に
通りすがりの者さんから
その襲撃より大きな共感を頂いたことは
逆説みたいな感じになりますね。

読んで苦痛な後味悪い記事にしてしまって
お詫びもしながら、
そんな苦しむ私に手を差し伸べてくださった配慮に
深く感謝の念を表したいです。



Unknown (ZIP)
2018-11-28 22:34:57
メッセージとして意図的にそうしているのでしょう。
端的に言って「駄目出し」というわけです。
助言したいのはやまやまですが、今回ばかりは桂蓮さんご自身が自分で考えなければならない事です。
ただ院代はこのブログを読んでいる事だけは
確実です。
ちなみに、信頼とは他人や社会に対して根拠の無い期待を抱くことです。
信頼が無くては、朝寝床から起き上がることも出来ないわけです。
Unknown (横切る者)
2018-11-28 23:14:55
思い込みや決め付けの部分もあるのではないでしょうか。

誰しも、コメント不要と言われるのは、傷付く事ではあるでしょうが、その前に、自ら「コメントは最後にする」と御辞退されていた場所ですから、丁度よかった、という事にはなりませんかね。

また、内容としては、コメントという概念の批判であって、存在の全否定をされている訳ではないようですので、そこは読み違いなさらない方が宜しいかと。

それと院代は、名無しや別名でコメントするような事は、しないのではないでしょうか。仏弟子として考えてみても、そんな不利益となるような事を、わざわざするでしょうか。

今までのコメント欄を見る限り、誰かを庇ったり引き立てたり、排除するような事は見受けられませんが(排除と削除は違います)、根拠もなく記事にしてまで、妙な言い掛かりのようなものを付けるのは、如何なものでしょうね。

また、例えば今回、問題とされるコメントの宛名が、イ○スちゃんや高○さんへの批判だった場合でも、わざわざ記事にまでされたでしょうか。
Unknown (Unknown)
2018-11-28 23:31:57
削除されないのは単純に、逐一チェックができていないだけ、という事ではないでしょうか。

桂蓮さんに限らず、明らかに記事とは関係のないコメントが、残っているものもありますからね。

どうしても削除してもらいたいのなら、そのように依頼しないと、深刻な悩みなどの御相談をタダで受けたり、あちらこちらの移動で御忙しい中、行き届かない点もあるのではないでしょうか。
思うに (Unknown)
2018-11-29 00:09:15
それだけコメントに敏感であるなら、高○さんやイ○スちゃん等が非難されているコメントも御存知かと思いますが、その時は問題とされるどころか、スルーまたは、同調や煽り発言があったように見受けます。

「自分のこと」となると、かなり大袈裟にされている感じもしますが、その点は如何なのでしょうね。

また、イジメの問題点としては、被害者が加害者になり、加害者が被害者なる、という面があるようです。
Unknown (桂蓮)
2018-11-29 00:25:23
可能性として、
Unknown (横切る者)2018-11-28 23:14:55さんや
Unknown (Unknown)2018-11-28 23:31:57さんの見方はあり得ると思います。


私はことばの運用を仕事にしてきて
これからもことばの変換を仕事にしていくので
書かれたことばを真剣に受けています。

ことばを思考するよりは
ことばを発した人の言いたいことを
ことばを超えて捉えようとしてもいます。

そうしているから、ことばから受けるものが
人より敏感でもあります。

私がその発せられたことばで
血を流している時に
血の流し方が間違っているような意味で捉えかねないある種の判定は
時期が時期のため、
受けるに辛いものがあります。

確か、私以外の人が批判にあった時
私は素通りしました。
でも、今回は私宛なのです。
私が私指定のことに応じなかったら
誰が代わりにしてくれるでしょう?

他人の痛みを計量するような言い方は
他人である以上、
それしか私に言ってあげることはないと思いますが、
今はまだショックを受けている段階なので
傷口に塩塗りだけはやめてほしいです。

時間が経つとどう変わるか分かりませんが、
今は、恐山ブログ記事は読める状態ではないことは
確かです。

恐山ブログを通して
会って良かったと思われる人に出会えましたが、
知ることで苦痛になった人にも会っちゃいましたね。

Unknown (桂蓮)
2018-11-29 00:35:38
思うに (Unknown)
2018-11-29 00:09:15さんへ

私の自己はあなたの自己と根本的に変わりありません。
あなたの自己が私の自己に対し
>「自分のこと」となると、かなり大袈裟にされている感じもしますが、<
というのも人間である以上、超えられない問題でしょう。

要は、その賢いアドバイスを
私の自己に言ってあげるタイミングの問題です。

私がことばで血を流している時に
私の以前の過ちを持ってこられては
刺されているところを
確実に、深く刺し直すことになりかねません。

タイミングですよ、タイミング。
Unknown (のしてんてんさまへ)
2018-11-29 01:07:54
読んでから、私へのメッセージを考えるのに時間をかけました。

確かに、私は今、その『今』を捉えることができず、
自己と他己に捕らえてしまっています。

ただ単純に、
有ったことを無かったことにできないだけです。
今の苦痛を無くすのが目的でなく
自己と他己を理解することで
ことを済ませたくもないです。

言った人が誰か分かったとして
刺された心が元に戻らないし
刺されたところが勝手に治ることもないです。

他人の頭で私の体にある痛みを測れません。
到底無理ですが、
測り知れないことを分かってくれる、それだけで
痛みを一瞬、忘れるかもです。

痛い時は痛くなるしか、他に方法はないです。

追伸
のしてんてん様に個人的な依頼の件で
メール送る必要がありますが、
このシリーズ始めてから
毎日がかけっぷちにいる感じで
心理的に極限な瞬間に直面しています。
手紙は書いておきましたが、
状況が緊迫して
中々手がつかないです。
自分の心理的な極限状態が緩みましたら
遅れたお詫びのメール送ります。
まことに申し訳ございません。



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