Zen禅‐in USA

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

いじめなのか、拒絶なのか

2018年11月27日 18時06分41秒 | いじめ

翻訳シリーズを書いてから予想外の展開になってしまった。

私が翻訳者として適切か不適切かが問題に出され、

韓国人が日本語を訳すと名乗り出た自体、

言語能力に対し疑いのあるとのコメントが幾度なく寄せられた。

 

私の能力が問われることは当たり前に思っていたのもあり、

批判や裁きは然程のことではない。

疑いや不信はあることを起こした時、

それが結果に向いていく過程で必然的に起こる因果関係でもある。

 

シリーズを書く過程の中で、

私は南師の過去ブログ記事を全部読むことを目標に設定した。

毎日記事を読んでいくと、

内容によってはその記事が書いてある時代背景を確認する必要が出てきて、

ネット検索や他の諸情報確認と並行しないと全体像が掴めないのが多く現れた。

 

思ったよりブログ記事を読むのに時間がかかり、

始めに決めていたシリーズを完成させる期間がつられて延びてしまった。

だが、私は自分が決めたある段階を踏み終えないと次にいけないサガがある。

人に背中押されて期間を早めることがまるでできない問題点も併せ持つ。

人に何を言われようと自分が決めたことを基本から始める、それしかできない。

 

そうしていると決まって、

目の前に新たな問題が現れ、

その問題を解決しないと次の段階に行けなくなることが生じる。

その中で発生した問題点を解決するため、

ブログ主のコメント欄コメンテーター宛てに助けを求めることになった。

何故なら、そのブログのコメント欄では

仏教関連の知識豊かな多くのコメンテーターが、

素人に対し高いレベルの知識を提供していたからだ。

だが、私のコメント宛てに

名を指定していない人から以下のコメントがあった。

 

『桂蓮のコメントは不要。

否定ではなく不要。

語る益が見当たらず害にしかならない。

桂蓮のコメントは全て不要。

ブログ内容と関係がない点でも不要である。』

 

あれほど、強烈な拒絶は生まれて初めてだったので、

何回も読んでしまった。

そのコメントをした者の言い方は南師の簡潔な表現と酷似していたから、

南師が私宛に書いたのかとあれやこれ考えてしまった。


そうしている内に気持ちが落ち込んで、

不愉快も超える悲しみがこみあがった。

それが正に、他人がくれた苦痛なのであった。

ある他人が私宛に苦しめと言っているような強制である。

 

その人が南師本人か、

全く別の人かは確認できない以上、

私が解決できる問題でない。

だが、根本的な問題はある人がある人に対し、

不要と言っている事実なのである。

それが、仏教の教えを実践している人のブログ内で起こっていることだ。

 

学校でいじめにあった生徒が自殺して、

その学校の校長がインタビューされるニュースが結構報道されている。

その校長は決まってその事情を知らなかったという。

恐山ブログでは削除によって、

あってはならないコメントが整理される。

私の個人生活まで非難してきたコメンテーターに対し、

私の怒りのコメントは削除されたので、

ブログ管理者が私宛の他のコメントも読んでいることになる。

 

だが、残していいとされた上記のコメントや

他の私に宛てのコメントはまだあるから

もう知らないと言えない立場になっている。

このようなことがなぜ、起こっているのか?

この疑問は私が解決できるような事柄でないのは確かだ。

 

仏教の教えを教えている指導者のブログ内で、

ある人を指し不要だというコメントが存在している。

そのコメントを残した者が南師本人でなくても、

少なくても仏教知識を語ったはずである。

 

人に不要だと言える人が言うことを許されている、

これは明らかに問題がないと言えないだろう。

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