熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

第6回文楽の夕べ~近松門左衛門の魅力

2009年11月28日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   大阪の厚生年金ホールで、日経主催の「文楽の夕べ」が開かれ、住大夫と山川静夫さんとの対談、近松の文楽作品・心中天網島のおさんの口説きなどの文楽ミニ公演などを楽しむために、久しぶりに関西に出かけた。
   東京は曇り空だったが、白雪を頂いた富士山が良く見え、真っ白なアルプスの山並みを遠望しながらの飛行機旅で、翌日、錦秋の宇治で秋の気配を楽しんだのだから、悪くはなかった。
   余談ながら、再建整理に入った感じのJALのラウンジでのサービスの低下ぶりは大変なもので、英字新聞や雑誌などがなくなり、飲み物は、ビール、ウイスキーとコーヒー等、ミルクとトマトジュースだけ、それに、おつまみは、あられだけで袋内の量は従来の3分の1程、飴。パソコン・ルームは健在。帰りの大阪発は6時半の便だったが、夕刊さえなく、使い古しの朝刊だけ。痛ましい限りで、ただただ、健闘を祈るのみである。

   さて、両巨頭の対談だが、演題は「近松門左衛門を中心に」と言うことだったが、物真似を得意とする山川さんが、学生時代に勘三郎の声音で優勝して脚光を浴びて放送局荒らしをして賞金を稼いでいたという話から、住大夫の語りの極意の開陳に進んで、語り方談義に話が弾んだ。
   本来大阪弁である筈の文楽の大夫に訛る傾向が出てきて困ると嘆く住大夫師匠。元々、上方が文化の中心で、大阪弁が標準語だっせと言う。
   しかし、文楽が、シェイクスピアのテンペストをやって、若者たちにアピールするなど新境地を拓こうとしている新時代になったのだから、今更、大阪弁で収まる筈がなかろう。
   
   近松については、住大夫の持論で、「近松は字余り字足らずで、私きらいでんねん。近松、おもろまっか。」とにべもない。
   この後で、桐竹勘十郎のおさん(初役)で演じられた「おさん二題」のおさんの口説きの核心部分である「あんまりじゃ治兵衛殿。それほど名残惜しくば誓紙書かぬがよいわいの。」と言うくだりを、指を折って指し示し、改作の「天網島時雨炬燵」で、七五調に変わって良くなったと説明する。
   近松嫌いは、この乱調にだけあるのではなく、普通は山あり谷ありの物語だが、近松は、谷谷谷ばっかりでっしゃろ、と言うから、陰気で難しいと言うことでもあるらしい。
   ところが、山川アナと話していて、近松の「心中宵庚申」の「上田村」の段、ふしなしで難しいけど、よろしおまんなあと言うことになったのだが、昨年5月に東京国立劇場で、住大夫が名調子で語っていたのである。

   ところで、文楽ミニ公演は、おさん二題で、心中天網島と天網島時雨炬燵の夫々同じ天満紙屋内の段を実演。治兵衛が炬燵に入って、遊女小春のことで涙ぐむのを見て、おさんが、女の幸せを踏みにじっている夫に酷いつれないとかき口説くところを、勘十郎のおさん、簔二郎の治兵衛で演じる。
   大夫は、文字久大夫と呂勢大夫、三味線は、清志郎と清二郎。
   その後、国姓爺合戦・楼門の段の「錦祥女」を勘十郎が遣った。
   実際の舞台とは違った核心部分を切り取ったミニ公演なので、三業の人たちも遣り難いであろうし、見る方も大変だが、おさんの振り付けなど微妙な変化が分かって面白かった。
   
   このミニ公演の後、文字久大夫、清二郎、勘十郎で、「楽しい文楽鑑賞法」と題する座談会が持たれた。
   文楽の小道具などを持ち出しての丁寧な説明で実に有意義だったが、中でも、修行の話が面白かった。
   先に住大夫が、今日もしんどいのに3時間厳しい稽古をして来て良い声が出まへんねんと言っていて、何ぼ言うても分からん時には、「何べん言うたら分かるねん。あほか。給料返せ。」と言うたりまんねんと言っていたのを、弟子である文字久大夫が受けて、声やない「音」や言うのを、肝と腰に力を入れて良い「息」を出すべく頑張っていますと言って笑わせていた。
   元新国劇の俳優をしていたとかで、辰巳柳太郎の面白い逸話も語っていた。
   
   清二郎は、師匠が見本を示して理論的に教授してくれる人らしいが、中には、撥が飛んでくる師匠も居るらしい。
   撥を持って三味線を弾いて練習すると喧しいと怒られるので、三味線の糸に手ぬぐいを巻いて音を消しながら撥を叩くのだと実演して見せた。
   3人の話では、他はどうにか誤魔化せるが、三味線が、実演途中で分からなくなって止まるとパニックになると言う話に興味を持ったが、三味線が楽譜を使わないのは、琵琶法師が盲目だったからだと言うことで、この暗譜が大変らしい。

   人形は、師匠と向かい合って稽古することはなく、簔助師匠の遣う人形の左や足を遣っている時の実演の舞台が、稽古であり修行の場だと勘十郎は言う。
   簔助師匠は、口で注意することは殆どないが、「うん」とか声を出して怒ることがあるので、そばの同僚たちに聞こえるので傷つき辛かったと言う。
   聞きに行けば、まだ早いと言われる。表面だけ取り繕っていただけでは、どこ見て勉強してるねんと言われるし、日々の修行の積み重ねだと言う。
   それに、簔助師匠の真似をするなど及びもつかないが、良く似ていると言われると師匠の方が嫌がるのだと笑っていた。
   出来が悪いと、何も言わずに、師匠の機嫌が悪くなるのだが、どこが悪いのか分からないので苦しむとも言う。

   最後にこれからの抱負をと聞かれて、最近立役の主役が多くなって、それはそれで嬉しいのだが、折角、簔助師匠について一生懸命女形の修行を積んで来たのであるから、女形を主体にやりたい、文楽協会の人来たはりますか、お願いしますと言っていた。
   しかし、玉男亡き後、女形を遣う簔助の相手の立役を遣うことが多くなって来ているので、一寸、無理なのではないであろうか。
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