熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立劇場五月文楽・・・「寿式三番叟」「心中天網島」

2013年05月23日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の国立劇場の文楽は、大変な人気で、チケットも取得困難で、連日「満員御礼」の立て看板が立つほど、盛況だと言う。
   第二部は、先月の大阪の国立文楽劇場の近松門左衛門の「心中天網島」に加えて、冒頭に、住大夫たちが語る「寿式三番叟」が演じられ、4時間半の長丁場の舞台を観客を釘付けにする意欲的な舞台であるから、当然の人気であろう。
   もう一方の第一部は、千穐楽の観劇になってしまったのだが、久しぶりの「曽根崎心中」を楽しみにしている。
   歌舞伎座の柿葺落公演を意識したのであろうが、あちらの方は空席があり、やはり、実質的に価値ある公演を打てば、観客が認めると言う査証であろう。

   「寿式三番叟」であるが、これは、五穀豊穣、天下泰平を祈念する能の「翁」を脚色し義太夫節に取り入れたご祝儀曲の舞台で、能は、主役が翁であるのだが、文楽では、三番叟の部分に力を入れて派手な見せて聞かせる舞台になっているのが面白い。
   歌舞伎でも、御祝い事の舞台で演じられていて、今回の新歌舞伎座の開場式で、幸四郎、菊五郎、梅玉が披露していた。

   さて、能に原型を取った舞台なのだが、前述したように、荘重かつ幽玄な能と比べて、文楽では、翁(住大夫、和生)は、同じく荘厳な舞を舞うのだが舞い終わるとすぐに退場するし、千載(文字久大夫、勘彌)も、鈴を三番叟(相子大夫、芳穂大夫、文昇、幸助)に渡せば退場して行き、最後は、2人の三番叟が鈴を振って、種を蒔く仕草をするなど、三味線の音に乗って非常にダイナミックな舞を披露し、舞い納めるのだが、途中で、疲れておたおたする三番叟を、一方の三番叟が叱咤激励するなどコミカルなシーンもあって、面白い。

   この三番叟だが、能では、狂言方が演じており、二人ではなく一人で、最初の「揉ノ段」では直面で舞って、鈴を受け取ってからの「鈴ノ段」では、翁の白式尉の面に対比して、黒式尉の面を掛けて舞うのだが、ダイナミックでも、文楽人形のような派手さはなく、セレモニァルである。
   文楽では、白塗りの又平と褐色の検非違使の頭を使いわけて、色の黒い尉を演じている。
   三番叟の舞は、青々とした稲の成長期、そして、黄金になった稲穂の成熟期を舞って寿ぐのであるから、正に、日本古来の天下泰平国家安穏の象徴とも言うべき稲穂の実りを体現した猿楽の伝統であろうか。
   「翁」は、能であって能ではないと言われている。世阿弥などの能楽とは随分趣を異にした曲なのであろうが、三番叟を主役とした文楽や歌舞伎の「寿式三番叟」に展開されて、より、先祖返りしたのではないかと思っている。
   
   これらの能面は、冒頭、千載が、恭しく捧げ持ちながら登場するのだが、能では、独立した面箱持ちが登場する流派もあるのだが、シテが、舞台で面を掛けて外すのは、この「翁」だけの特異な所作事だと言う。
   能では、実に荘重な儀式のように行われるのだが、文楽では、人形の頭や面が小さい所為もあって、いとも簡単なシーンで、あまり、印象に残らない。
   住大夫の元気な浄瑠璃を聞けたことは、非常に嬉しかった。
   また、前回、簑助が遣った翁の舞台を、遅刻して、舞い終わって退場するシーンしか見られなかったのだが、和生の翁も、実に優雅で荘重であり、勘彌の千載も、文昇と幸助の三番叟も良かったので、楽しませて貰った。

   
   「心中天網島」は、先月、大阪の文楽劇場で鑑賞して、その印象記を書いたので、蛇足は避けたいと思う。
   人形遣いが代わったのは、最も重要なキャラクターの一人である「おさん」で、今回は、清十郎に代わって人間国宝の文雀が遣い、もう一人、粉屋孫右衛門が、和生から文司に代わっていた。
   先月は、文雀は、「伽羅先代萩」の栄御前に登場して、政岡の和生をバックアップしていたのである。

   先月、第一部の休憩の昼食の後、劇場へ帰る途中に、日本橋駅へ歩いて帰って行く文雀師匠に出会ったのだが、足が悪いとTVで言っておられたので、ゆっくりゆっくりと歩いておられた。
   もう、85歳のご高齢で、随分小柄な好々爺の文雀師を眼前にして、このこじんまりした老人のどこから、あのような匂い立つような優雅で上品な、振るい付きたいような女を、命の無い木偶の人形に乗り移らせるのか、暫く、じっと立ちすくんで、文雀師の後姿を見送っていた。
   私は、文雀師の遣うやや年増と言うと色気がないのだが、人生、酸いも辛いも潜り抜けて、垢抜けした感じの成熟した上品な女性の人形が好きで、何時も、楽しみに見ていた。

   今回は、近松門左衛門の戯曲でも、最も人間味豊かで、血の通った見上げた女性である紙治の女房おさんを遣うのであるから、最初から最後まで、文雀の遣うおさんを追っかけていた。
   幸いと言うか、チケットが取れなくて、最前列の端近の席だったので、おさん人形と文雀の動きが良く見えた。
   腑抜けたように不貞寝して泣いている紙屋治兵衛(玉女)にすり寄って引き起こして、健気でしっかり者で決して乱れたことのなかったおさんが、それほどまでに女房を蛇のように嫌って、諦めきれずに愛人にうつつを抜かすのかと思うと、居た堪れなくなって、身も世もなく、夫と愛人の小春を嫉妬して、苦しくて切ない心情を吐露して泣き崩れる姿の、何と言う可愛さ美しさ。
   田辺聖子さんの言によると、近松はおさんに、型通りの貞女ではなくて、熱い血と心を与えたのだと言うことだが、文雀の遣うおさんは、正に、生身の体をぎりぎりまで苛め抜いて慟哭しながら、じっと耐えて、その息遣いの激しさが胸に響く。

   この舞台の最後の死の間際で、小春が、「誰に何と言われようと良いけれど、治兵衛を死なせないでと言われて縁を切ります分かれますと約束した以上、死顔並べて一緒に死んだら、おさんに軽蔑されるのが恥ずかしい」と、約束を反故にして大切な夫を死にやる小春の唯一の断腸の悲痛を聞き入れて、治兵衛は、小春の胸を脇差で刺して、自分は、鳥居に小春の帯を掛けて首を吊る。

   小春を遣う勘十郎が、実に上手い。
   一時、立役が続いて居た時、折角師匠簑助に学んだ女形を遣いたいと言っていたが、最近の著しい進境には、その思いが通じているようである。
   おさんから受け取った手紙故に、心無くも治兵衛に愛想づかしをして踏んだり蹴ったりされて、苦痛に這いずり回って弓なりになって号泣し、いっその事、打ち明けようかとしたら、孫右衛門に、黄門の印籠のようにおさんの手紙を突きつけられてウップして忍び泣く。動かない筈の人形の面が、激しく表情を変えているのである。
   踏んでも蹴られても、去り行く治兵衛を思っての別れの悲しさ。
   死を覚悟して大長寺に向かう冥途への道行の神々しさ、最後のあさんへの思いの吐露、脇差を胸に受けての断末魔の悶え、・・・上手く言えないが、とにかく、生身の女優では演じ切れないような辛さ悲しさ愛おしさ健気さを、木偶に託して、私には、勘十郎は、万感の思いを込めて、女性賛歌を謡い続けていたように思えて感動して見ていた。

   玉女は、どうしようもない馬鹿でがしんたれの大坂男を、淡々と遣っていた。
   枯れた演技が、師匠の玉男の姿を彷彿とさせるのだが、他の近松門左衛門の心中ものの舞台を観たいと思っている。

   さて、この心中天網島を、感動的な舞台に仕上げている最大の功労者は、大夫と三味線であろう。
   特に、切場語りの、嶋大夫と富助、そして、天満紙屋内より大和屋の段の長丁場を語りぬいた咲大夫と燕三の名調子は、感動的である。
   私は、まだ、河庄の場しか、歌舞伎の舞台を観ていないので、何とも言えないが、歌舞伎と言えども、この文楽の「心中天網島」の域には、中々、程遠いのではないかと思っている。
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