熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

木村泰司著「巨匠たちの迷宮 (名画の言い分) 」

2019年09月12日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   再び、木村泰司の本、
   この本は、盛期ルネサンス以降のバロック絵画の巨匠たち8人の絵画論である。
   この中で、オランダに3年間住んで居た所為もあって、一番親しみを持って鑑賞してきた画家は、レンブラントとフェルメールであり、実際に、レンブラントの故地ライデンやアムステルダム、フェルメールのデルフトなども歩いてきており、また、意識して、二人の作品を鑑賞するために、世界の美術館を巡ってきたので、このれらの項は、楽しく読んだ。

   レンブラントが、あれだけの画業を輝かせ業績を残せたのは、彼の才能や努力もあろうが、当時のアムステルダムが、世界で最も栄えた文化文明の絶頂期にあって、いわば、質の違いは多少あったとしても、ルネサンス時のようなメディチ効果が現出されていたためだと思えて興味深かった。
   当時、アムステルダムには、世界中のものが何でも集まって来ていて、収集癖のあったレンブラントは、日本の兜を持っていたと言うのである。

   アムステルダム国立美術館に行って、最初に驚くのは、レンブラントの巨大な「夜警」の絵だが、レンブラントが一躍名声を博しスーパースターとなったのが、同様の集団肖像画であるマウリッツハイス美術館にある「トゥルプ博士の解剖学講義」だったと言う。
   集団肖像画と言っても、記念写真のような整列して全員正面を向いた肖像画ではなくて、芝居の舞台の一瞬を切り取ったようなドラマチックな絵画なので、「夜警」など、余計な人物が幅を利かせたり、描かれた人物に差があり過ぎて、同じ100ギルダーを出した依頼人から苦情が出たと言うのは当然であろうが、レンブラントの創作魂が、傑作を生んだのであるから貴重な絵画の記念碑であろう。

   当時、オランダ絵画の黄金期で、絵画ブームに沸いていたが、絵画は、チューリップのように投機商品でもあり、画家は市場が好むような絵を描いて画商に託すと言うプレタポルテのような美術市場が確立されていた。
   オランダは、プロテスタンの国で、教会からの大きな宗教画の注文もなく、絶対王政を敷く専制君主も君臨せず、従来需要が高かった巨大な歴史画や宗教画に変わって、顧客は富裕な一般市民であったので、絵画の需要は、風景画や静物画、風俗画、人物画などの小品に移っていた。
   ところが、レンブラントは、様々なジャンルの絵を描いていて、旧約聖書の世界のみならず新約聖書のキリストの受難も描いており、ギリシャ神話も主題にしており、私が、最近、やっと巡り合えたエルミタージュ美術館の「ダナエ」など、途轍もなく感動的で美しい。

   晩年のレンブラントの凋落は、私生活の乱れもあったようだが、大衆の恐ろしさとしての急激な好みの変化で、オランダ人の嗜好が、レンブラントの個性的で重厚な画風から離れて行ったのだと言う。
   人は財を成して社会的な地位を築くと、お金で買えない者、例えば、「優雅さ」を求め、フランドル人画家ヴァン・ダイクの影響を受けた宮廷風な様式やフランス絵画的な優雅な画風に移って行ったと言うのである。
   現在も、巨万の富を築いても、あるいは、功成り名を遂げても、知識や教養、美意識の涵養などは、付け刃が利かないので、似非環境で飾り立てようとするようなものであろうか。

   さて、私が、フェルメールに感激したのは、1973年、留学先のフィラデルフィアから、フランスからの留学生のクリスマス休暇帰国のエールフランスのチャーター便に便乗して、アムステルダム国立美術館で、「牛乳を注ぐ女」を見た時。特に、主婦の腕にまくり上げたシャツの辛子色からくすんだ黄色に変わって行くグラディユエーションとその微妙な美しさが強烈に印象に残っている。
   1980年に入って何度か出張し、1985年以降住んで居たので、何度、この絵を見に訪れたか分からないが、ハーグのマウリッツハイス美術館で、「真珠の耳飾りの少女」「デルフト風景」などを見て、一気にフェルメールに傾倒し、デルフトを訪れては、フェルメールの雰囲気を探索して味わい、幸い、欧米に住んだり歩く機会が多かったので、35前後しか残っていないフェルメールの作品を30以上は、実際に見る機会を得て感動し続けている。
   フェルメールの絵の大半は、左側に窓があって、その傍に佇んで、淡い光を帯びて何かをしている女性、時には、男性の人物像なのだが、気付かなかったのは、初期の「取り持ち女」の、娼家の絵で、男性客が、女性の胸を鷲掴みにしている絵で、こんな絵を描いたのかと言う驚き。ドレスデン国立絵画館に展示されているので、記憶にはないが、見ている筈である。

   レンブラントの時代は、バブル景気に沸く黄金時代であったが、フェルメールの時代には、英蘭戦争が勃発し、フランスの侵入を受けて、経済的にも文化的にも厳しい状況に追い込まれて、大変であったと言う。
   父の居酒屋・宿屋「メーヘンレン」や美術商の継承や、財産のあった富裕な妻方のサポートなどで、画業には支障がなかったと言う。
   贔屓筋の援助もあったのだが、「真珠の耳飾りの少女」のように、純金と同じくらいに高かったラピスラズリを使った顔料ウルトラマリンの青を使って、ターバンを描けたのである。

   フェルメールは、レンブラントのように工房経営者でもなく弟子もいなかったので、美術商をしたり、美術教師をするなど、何足かの草鞋を履いた生活をしていた。
   初期には、歴史画や風景画を描いていたようだが、その後、風俗画および風俗画的性格を持つ「真珠の耳飾りの女」のような、トロニーと呼ばれる頭部肖像画に専念するようになったと言う。
 
   とにかく、小品で寡作なので、人気が出たのは、ずっと後、「19世紀に脚光を浴びた慎ましやかな巨匠」と言う訳である。
   フェルメールの描いた世界は、市民階級を描いた作品なのに、その卓越した技法によって風俗画の域を超え、品格を感じさせる温かみのある筆触は独特の味があって人気が高い。
   1970年から90年にかけて、フェルメールの作品4点が、5回にわたって盗難に遭い、「合奏」は、いまだに行くへ不明だと言う。
   
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