
シアターコクーンで、ジャン・アヌイ作「ひばり」を蜷川幸雄の演出で観た。
英仏の百年戦争で突如としてフランスの救世主として現われたオルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクをモデルにした裁判戯曲で、イギリス軍に捕虜となったジャンヌ・ダルクのルーアンでの異端審問裁判の場が舞台となり、その中で劇中劇の形で彼女の半生が演じられる。
正に、主役を演じるジャンヌ・ダルクの松たか子あっての劇で、彼女の魅力がジャンヌの姿を通して全開している素晴らしい舞台である。
私の印象に残っているジャンヌ・ダルクは、映画で、古い1948年のアメリカ映画のイングリッド・バーグマンと、最近のリュック・ベッソン監督の映画のミラ・ジョヴォヴィッチのジャンヌ・ダルクである。
映画の場合は比較的史実に近いが、アヌイの舞台で面白いのは、処刑台で火炙り途中のジャンヌ・ダルクが助けられて、その後シャルル7世の戴冠式が行われて、その側でジャンヌが王家の旗を持って立っている、そんなハッピーエンドで幕が下りる。
舞台は、正面の壁面に大きな十字が切られていて、ドミニク・アングルの作品であろうか、その左に旗を持ったジャンヌ・ダルクの絵、反対の右側に馬に乗ったシャルル7世の大きな絵が描かれている。
舞台の中央に高さ1メートル程の大きな正方形の舞台が設えられていて、回りが、裁判官や司教達、それに、傍聴人の席となっていて、芝居は中央の舞台上で演じられている。
照明を工夫することによって多少の舞台展開はあるが、真ん中の舞台にベンチやテーブルなどを使って簡易セットが設営されるが、最初から最後までこのシンプルな舞台のままで劇が進行する。
舞台背景そのものが、しっくりした暗いトーンで統一されていて、役者たちの衣装が当時のと思われる姿を忠実に再現しており、最初から最後まで殆ど全員が舞台に出ずっぱりで、演技者だけにスポットライトが当たっているので、背景と溶け込んでいて素晴らしいムードを醸し出している。
RSCのシェイクスピア劇を見ているような感じになる。
それに、何時も、蜷川の舞台に流れる音楽は効果的で美しい。
私は、松たか子の舞台は、父親幸四郎との「ラマンチャの男」と蜷川の「ハムレット」しか知らないし、映画やTVドラマでもそれ程多くはない。
しかし、染五郎や紀保の妹であり幸四郎の次女であるから、そのDNAは抜群で、あのくせのない美貌と天性の役者気質が花開くと大女優間違いなしと思って注目していた。
今度のジャンヌ・ダルクの衣装は、グレーのトレパン様スタイルのボーイッシュな姿で押し通していたが、ある意味では、等身大の役作りで伸び伸びとジャンヌを演じていた。
もっとも、ここまでに至るには、蜷川と大変なバトルがあって、蜷川の厳しいジャンヌ像と松たか子の必死なジャンヌ像造りとの葛藤を経た結果生み出されたものであろう。全く奇跡としか思えない歴史の偶然を、若くて強烈なエネルギーを秘めた松たか子の演技を通して、舞台に敲き付けた、そんな印象を受けた。
私は、ジャンヌが囚われていたルーアンのブーヴルイユの「ジャンヌ・ダルク塔」へは行っていないが、ルーアンの大聖堂やジャンヌ・ダルクの活躍していたロワールの辺りを歩いたことがある。今も、謂わば、中世の雰囲気を残した田舎である。
15世紀中葉のフランスは国家の体をなしていなかったし、それに、イギリス自身フランスの血を引いた王家に支配されていて、今の英仏の戦争をイメージすると全く間違ってしまうが、あの頃のフランスの田舎も都会(?)もそれ程違いはなかった。
私の言いたいのは、ジャンヌ像で、その地方の有力者の娘であったようだし、極めて敬虔なキリスト教徒で、可なりの知性と教養があったと思われ、所謂単なる田舎娘だと言うイメージとは違う筈だったと言うことである。
しかし、非常に無垢で純真で、字は殆ど書けなかったが極めて聡明で、聖ミカエル、聖女カトリーヌと聖女マルグリットの天の声を何年も聞き続けて、使命感と激しい若さのエネルギーに突き動かされて走り始めたと言うことではないであろうか。
そうでないと、あれだけ、王家を筆頭にフランス中を巻き込んで、イギリス軍を撃破しシャルル7世に戴冠式を挙げさせると言った芸当が出来る訳がない。
昔、小澤征爾が、モーツアルトの音楽を評して、神がモーツアルトの手を取って書かせたとしか思えないと言っていたことがあるが、正に、神がジャンヌ・ダルクに乗り移ってフランスに奇蹟を起こさせたのである。
そのような目で見ると、松たか子のジャンヌが如何に適役で素晴らしいジャンヌ像を造り出しているかが良く分かるし、蜷川がまず松たか子ありきで演目を選択し「ひばり」に焦点を当てて、松たか子の役者としての資質、そして、パワーと魅力全開の舞台を生み出そうとしたことも良く理解できる。
冒頭の陳述で、松たか子が、ジャンヌと聖ミカエルとを交互に演じるが、その声音と台詞回しの上手さに舌を巻く。
それに、純真無垢な表情で畳みかけるような語り口で説得する機転と聡明さ、一途に打ち込む健気さ、そんな斬新で強烈な若い松たか子のイメージを、本人を自由奔放に泳がせながら引き出した蜷川の匠の技が冴えている。
脇を固める役者も上手い。
シャルル7世の山崎一、司教の益岡徹、ウォーリック公の橋本さとし、それに、ボードリクールを演じた役者、コケティッシュで魅力的な小島聖、兎に角、端役まで共演した役者たちの素晴らしい演技が松たか子のジャンヌを支えている。
日本人には縁遠い話で、宗教裁判や当時の中世の時代背景を多少でも理解していないと、少し煩わしくなるが、久ぶりに蜷川幸雄の面白い舞台を楽しませて貰った。
立見席も若い観客で一杯、小劇場の雰囲気の良さが劇を盛り上げている。TVカメラが放列をしいていたが何時放映するのであろうか。
英仏の百年戦争で突如としてフランスの救世主として現われたオルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクをモデルにした裁判戯曲で、イギリス軍に捕虜となったジャンヌ・ダルクのルーアンでの異端審問裁判の場が舞台となり、その中で劇中劇の形で彼女の半生が演じられる。
正に、主役を演じるジャンヌ・ダルクの松たか子あっての劇で、彼女の魅力がジャンヌの姿を通して全開している素晴らしい舞台である。
私の印象に残っているジャンヌ・ダルクは、映画で、古い1948年のアメリカ映画のイングリッド・バーグマンと、最近のリュック・ベッソン監督の映画のミラ・ジョヴォヴィッチのジャンヌ・ダルクである。
映画の場合は比較的史実に近いが、アヌイの舞台で面白いのは、処刑台で火炙り途中のジャンヌ・ダルクが助けられて、その後シャルル7世の戴冠式が行われて、その側でジャンヌが王家の旗を持って立っている、そんなハッピーエンドで幕が下りる。
舞台は、正面の壁面に大きな十字が切られていて、ドミニク・アングルの作品であろうか、その左に旗を持ったジャンヌ・ダルクの絵、反対の右側に馬に乗ったシャルル7世の大きな絵が描かれている。
舞台の中央に高さ1メートル程の大きな正方形の舞台が設えられていて、回りが、裁判官や司教達、それに、傍聴人の席となっていて、芝居は中央の舞台上で演じられている。
照明を工夫することによって多少の舞台展開はあるが、真ん中の舞台にベンチやテーブルなどを使って簡易セットが設営されるが、最初から最後までこのシンプルな舞台のままで劇が進行する。
舞台背景そのものが、しっくりした暗いトーンで統一されていて、役者たちの衣装が当時のと思われる姿を忠実に再現しており、最初から最後まで殆ど全員が舞台に出ずっぱりで、演技者だけにスポットライトが当たっているので、背景と溶け込んでいて素晴らしいムードを醸し出している。
RSCのシェイクスピア劇を見ているような感じになる。
それに、何時も、蜷川の舞台に流れる音楽は効果的で美しい。
私は、松たか子の舞台は、父親幸四郎との「ラマンチャの男」と蜷川の「ハムレット」しか知らないし、映画やTVドラマでもそれ程多くはない。
しかし、染五郎や紀保の妹であり幸四郎の次女であるから、そのDNAは抜群で、あのくせのない美貌と天性の役者気質が花開くと大女優間違いなしと思って注目していた。
今度のジャンヌ・ダルクの衣装は、グレーのトレパン様スタイルのボーイッシュな姿で押し通していたが、ある意味では、等身大の役作りで伸び伸びとジャンヌを演じていた。
もっとも、ここまでに至るには、蜷川と大変なバトルがあって、蜷川の厳しいジャンヌ像と松たか子の必死なジャンヌ像造りとの葛藤を経た結果生み出されたものであろう。全く奇跡としか思えない歴史の偶然を、若くて強烈なエネルギーを秘めた松たか子の演技を通して、舞台に敲き付けた、そんな印象を受けた。
私は、ジャンヌが囚われていたルーアンのブーヴルイユの「ジャンヌ・ダルク塔」へは行っていないが、ルーアンの大聖堂やジャンヌ・ダルクの活躍していたロワールの辺りを歩いたことがある。今も、謂わば、中世の雰囲気を残した田舎である。
15世紀中葉のフランスは国家の体をなしていなかったし、それに、イギリス自身フランスの血を引いた王家に支配されていて、今の英仏の戦争をイメージすると全く間違ってしまうが、あの頃のフランスの田舎も都会(?)もそれ程違いはなかった。
私の言いたいのは、ジャンヌ像で、その地方の有力者の娘であったようだし、極めて敬虔なキリスト教徒で、可なりの知性と教養があったと思われ、所謂単なる田舎娘だと言うイメージとは違う筈だったと言うことである。
しかし、非常に無垢で純真で、字は殆ど書けなかったが極めて聡明で、聖ミカエル、聖女カトリーヌと聖女マルグリットの天の声を何年も聞き続けて、使命感と激しい若さのエネルギーに突き動かされて走り始めたと言うことではないであろうか。
そうでないと、あれだけ、王家を筆頭にフランス中を巻き込んで、イギリス軍を撃破しシャルル7世に戴冠式を挙げさせると言った芸当が出来る訳がない。
昔、小澤征爾が、モーツアルトの音楽を評して、神がモーツアルトの手を取って書かせたとしか思えないと言っていたことがあるが、正に、神がジャンヌ・ダルクに乗り移ってフランスに奇蹟を起こさせたのである。
そのような目で見ると、松たか子のジャンヌが如何に適役で素晴らしいジャンヌ像を造り出しているかが良く分かるし、蜷川がまず松たか子ありきで演目を選択し「ひばり」に焦点を当てて、松たか子の役者としての資質、そして、パワーと魅力全開の舞台を生み出そうとしたことも良く理解できる。
冒頭の陳述で、松たか子が、ジャンヌと聖ミカエルとを交互に演じるが、その声音と台詞回しの上手さに舌を巻く。
それに、純真無垢な表情で畳みかけるような語り口で説得する機転と聡明さ、一途に打ち込む健気さ、そんな斬新で強烈な若い松たか子のイメージを、本人を自由奔放に泳がせながら引き出した蜷川の匠の技が冴えている。
脇を固める役者も上手い。
シャルル7世の山崎一、司教の益岡徹、ウォーリック公の橋本さとし、それに、ボードリクールを演じた役者、コケティッシュで魅力的な小島聖、兎に角、端役まで共演した役者たちの素晴らしい演技が松たか子のジャンヌを支えている。
日本人には縁遠い話で、宗教裁判や当時の中世の時代背景を多少でも理解していないと、少し煩わしくなるが、久ぶりに蜷川幸雄の面白い舞台を楽しませて貰った。
立見席も若い観客で一杯、小劇場の雰囲気の良さが劇を盛り上げている。TVカメラが放列をしいていたが何時放映するのであろうか。






