熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

吉例顔見世大歌舞伎・・・團十郎の「河内山」

2006年11月25日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座での一つの話題は、團十郎が完全に復活した舞台を鑑賞出来たと言うことであろうか。「伽羅先代萩」での仁木弾正と「河内山」での河内山宗俊で登場しており、何れも強烈な個性を持った悪人で、実に爽快な舞台で夫々に面白かったが、私にとって興味深かったのは、河内山の方であった。
   
   「河内山」は、河竹黙阿弥作「天衣紛上野初花」の「上州屋見世先の場」から「松江邸玄関先の場」までを合わせて、即ち、片岡直次郎の部分を抜いた設定の舞台なのだが、昨年末に、国立劇場で観た通し狂言との対比で面白く鑑賞出来たので、そのためもあった。

   河内山宗俊は、江戸城城中において将軍の側近くで茶道を以って仕えるお数寄屋坊主なのだが、悪知恵の働く男で江戸名物のアウトロー。
   今回は、松江出雲守が腰元を妾にしようとしているのをネタに、上野寛永寺の御使僧に変装して屋敷に乗り込み、強請って金を巻き上げる話。
   兎に角、値打ちのない質草を持って上州屋に来て金を貸せと言うタカリ同然のけちな野郎、大名と堂々とわたりあう威厳と品格を備え持った僧、正体を見破られて凄む旗本ヤクザ、と悪の本性を糊塗しながら鮮やかにどんでん返しして、地団太踏む出雲守を前に勝ち誇ったように「馬鹿め!」と捨て台詞を残して去って行く鮮やかさ、正に團十郎の世界である。

   前回にも書いたが、これを観て思い出すのは、一頃まで盛んだった会社と総会屋の関係で、不祥事を起こしたり、脛に傷を持つ会社が、証拠を握っている総会屋に強請られる構図で、この臭いものに蓋をしようとする風潮が日本のコーポレート・ガバナンスの欠如を助長して来た。
   企業倫理を実践できなかったトップの経営不在、それをもみ消して会社を守ろうとした役員達、これを、出雲守と家老高木小左衛門が象徴している。
   雲の上の人・大名を脅し上げて強請る庶民のヒーロー宗俊を、庶民はやんやの喝采で観ていたのだろうが、総会屋が言いたい放題のことを大声で喚き散らして社長などを吊るし上げていた構図は、この歌舞伎と同じだったかも知れない。
   しかし、この話は、名うてのアウトロー宗俊は別にして、不祥事の発覚が露見するのを金と賂で収めた家老が忠臣として描かれている古い価値観なのだが、今日では、殿を諌めた近習頭や宗俊の正体を暴いた大膳が良しとされて、家老が罪に問われて糾弾させる。

   さて、面白かったのは、昨年の国立劇場の舞台と、今回の歌舞伎座の舞台を比較して、役者が代わるとこれほどまでに舞台の印象が違うのかと言う新鮮な驚きであった。
   まず、宗俊だが、前回は松本幸四郎で、今回は市川團十郎であった。
   幸四郎の宗俊も実に上手いと思うが、どちらかと言えば、現代的なインテリヤクザの雰囲気で、その場その場で状況を判断し悪知恵を生み出しながら悪事を進めて行く、そんなタイプの宗俊であった。
   ところが、團十郎の場合は、天性生まれながらのアウトローで、とにかく、悪が着物を着たような悪人と言う感じで、兎に角、悪人を演じるのにまったく淀みがなく爽快、豪快でさえある。

   一方、松江出雲守は、前回が坂東彦三郎で、今回は坂東三津五郎。
   彦三郎の出雲守は、正に殿はこんな人物であっただろうと思わせて全く異質感がないので、腰元に手をつけそこねたり、強請られて腹が立つが仕方なく泣き寝入りするあたりも納得、芸らしくない芸が自然で上手いと思った。
   三津五郎の出雲守は、本人も「筋書」で述べているように、「忘れてならないのは18万石の大名だということ」に拘ったのか、威厳と風格があり過ぎて、その上に、老練な彦三郎と比べて若くて凛としている分、一寸ぎらぎらした感じがして、色好みと殿の悪行の数々の裏側まで連想させて面白かった。

   家老高木小左衛門は、両方とも、市川段四郎で、これははまり役で、良いのか悪いのか分からないような雰囲気が気に入った。
   宗俊の正体を見破る重役北村大膳は、前回がベテランの幸右衛門で、今回は弥十郎だが大仰な個性的な演技が雰囲気を出していて中々良かった。
   
   
コメント
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