29日 17時開演 中川晃教 ヴォルフカング 川綱治加来 アマデウス
クラビアを弾いて中川ヴォルフ登場するが、
ふと弾くのをやめ、やってきた治加来アマデに
白い羽ペンをにっこり渡す。君が担当だよ。といった感じで。
神童アマデという大きな存在でなく、作曲部分担当の分身がアマデ、
アマデもそこがわかっているから、
「ヴォルフ、そこ(作曲)は僕が座るんだよ。」といった雰囲気を感じる。
赤いコートでは、「大司教にこびへつらうんだ?」で、
アマデがヴォルフに対し
「僕の好きな作曲が出来なくなるのは、困るよ!」といった表情に見えてしまう。
その後、赤いコートのことで、市村レオポルトに叱られたヴォルフは、
父親に対し反発する。
「どうして着ては、いけないんだよ!」
「(賭け事だって)みんなやってるじゃないか!」と腹を立てる。
そこには父にとってよき息子であろうとする自分なんて前提にはない。
やりたいことをやっているヴォルフ。
セリフそのもの、「わかってる。あいつは、僕のオヤジ、でも頭に来るときもあるんだ。」とまさに言葉どおり。
そして「僕こそ音楽(ミュージック)」は、
天真爛漫な少年(青年?)が、生身の礼儀知らずで、遊ぶことが大好きそして音楽が好きな自分と、
分身である作曲大好きアマデと一緒といった感じで伸びやかにうたう。
その後、すごい!と見たのが、
山口コロレドと市村レオポルトと中川ヴォルフのぶつかりあい。
芝居がぶつかり合い、それが歌でまさに表現されていたように思う。
セレナードが出来てうれしくてしかたのないヴォフルだが、礼儀知らずそのもの。
父親はそれをかばい、何とかその出来た曲を聴いてほしいと
曲のすばらしさを認めてもらおうとするが、
すでに礼儀を重んじるコロレドは曲どころではなくヴォルフの態度に腹が立つ!
火花が、出ていたようにすら見えた。セリフを強調するための歌であったように。
その後、モーツァルト親子のアーケードのやり取りは、さらに印象的だった。
いやあ、今回は、レオパパの怒りは、息子を突き飛ばしていたほど。
しかしそこには「私ほど愛するものはいない」と。
・・・いい歌、いやセリフだと。
同様に迫力を舞台に感じたのは、ブルク劇場の舞台裏の親子だった。
父親は息子の成功を喜ぶ。
しかし、息子の前ではけして褒めることなく、忠告をする。
それがしっかり読み取れる市村レオポルトであり、
今度こそ父に喜んでもらえると思っていたのに・・・
褒められるどころか、父親の忠告でまた反発してしまう息子。
この関係がすごかった。
それゆえその後の、レオの歌、ヴォルフの歌は、気持ちがのって
いた。
「何故愛せないの」への客席の拍手は異常なほど長く、
次のシーへの音がなかなか出せなかったのではないだろうか?
(実は、ついにここで2人のやり取りに泣けちゃいました。たまりませんわぁ)
流れが、先に飛んでしまったが、ヴォルフは、ウィーンへ行ってみたいが、ウィーンへの旅立ちを、父親に認めてもらいたいどうしたらいいのだろう?と大聖堂前のシーン。父と息子の心理描写が、絶妙。けして認められないと。父親が子供の手を振り払う、パパなんか嫌いだ。といいそうなところそうは言わないヴォルフ。親の気持ちがわかっているように思う。この親子関係にやはり前回同様、「星から降る金」はBGMになっていた。
さてコロラドが、冷静さを失ったように感じたのは,官邸内にヴォルフが、やってきてからだ。むきになるヴォルフに対し、山口コロラドの演技も熱くなっていたようにみえた。
前回以上に中川ヴォルフは、巧みな演技力がわかるというのではないのだけれど、自然体でありつつも、気持ちを爆発させ、相手をも刺激しているように見えた。そのために芝居そのものがさらにドラマチックになり、そこに歌という大きな芝居効果をのせて仕上げていくのだからすごい。(などとまことに勝手な分析)
一方アマデとの関係は、あんなに仲良く共存していたのに、父親が亡くなり、家族を思う。しかしそこには、アマデ・・音楽部分が突出し、ヴォルフは、怒り「お前が、悪い!家族を引き裂いた。」というセリフと共に錯乱してゆく、わかりやすく見ている側にまで自然に入り込んでくるように思えた。いっぽうこの辺からアマデはとにかく作曲一筋。冷静なものだ。
遅くなったが、大塚コンスとの関係も、回数をましてバランスが、良くなってきたのでは。
コンスは、姉を好きになるヴォルフだったが、自分に向いてくれるのをまつ、でも最大の
敵は彼の音楽だった。ヴォルフ自身も、コンスと音楽秤にかけて?というわけでもないだろうけど音楽をとってしまう自分に腹を立てる。そしてここでもアマデは、冷静。というラインがしっかりしていたと思う。
博多じゃもっとしっかりしたラインになっていくのかな?この関係。
一路男爵夫人は・・・いるようでいない。ウイーンの社交場のところが一番かな?
存在感は大きいのだけど、いざ芝居の中には、影の部分になってしまっていた。
最後に吉野シカネーダ。シラネ~だ~!とは良くいったものだ。
自分の名前を名乗るときにさえ、「エマヌエル シラネーダー、
エマヌエル シカネーダ」と客席をわかし、劇場全体を巻き込んでいった。
そして、よっぱらって新居に訪れた面々。
お金を投げてヴォルフを困らせるところ、いつもと勝手が違って投げる人が違う!
中川ヴォルフ一瞬あわてていたようす。取れたときには、苦笑い。
一方、中川ヴォルフ歌の面では、ずいぶんシャウトした歌い方をする曲が、増えてきました。ロビーで、年配の方が、「声は、出るけど、張り上げ方が好きじゃないわ。」といっておりましたのを耳にしました。やはり、好き嫌いが、でそうですね。
中川晃教らしい・・・といえばそれまでだけど。私、嫌いじゃないですよ。もちろん。
好きなほうですから。
博多はどうするのだろう?このままシャウトしていくのかな?
さてヴォルフの最期は、精神的にキテル!もう駄目だ。どうでもいい・・・
衝撃的です。最期「僕こそ音楽」は、吐息のようです。
アマデはいやだ!といわんばかり・・・しかし。と倒れこむ二人。
井上さんのラストはプログラム写真にあるように、二人が椅子に腰掛けて
アマデが倒れこみましたが、中川さんんは、名古屋前回と同様、アマデは、
椅子にすわることなくヴォルフに倒れこみます。それがなんだかとてもリアルでした。
で今回も、その後セシリア登場目に入らずじまい。
影をのがれて、カーテンコールまで、じ~んときっぱなしでした。
しばし拍手どころじゃなくて・・。
中川楽のご挨拶でようやく落ち着いたかな?
市村さん「さて三幕のはじまりです」で客席を集中させ、
今日で息子が最後の二人を・・だったかなあ。
まずアマデを紹介しに白いバラを渡す市村さん。
マイクがないので、とアマデの代弁「名古屋はどえりゃうまい」
てなわけないのに。
そして次にヴォルフにも先ほどより大きなバラを。
そしてコメント。
聞いたような聞かなかったような。
客席の私かなりボルテージ上がっておりました。
新幹線でようやくクールダウン。
クラビアを弾いて中川ヴォルフ登場するが、
ふと弾くのをやめ、やってきた治加来アマデに
白い羽ペンをにっこり渡す。君が担当だよ。といった感じで。
神童アマデという大きな存在でなく、作曲部分担当の分身がアマデ、
アマデもそこがわかっているから、
「ヴォルフ、そこ(作曲)は僕が座るんだよ。」といった雰囲気を感じる。
赤いコートでは、「大司教にこびへつらうんだ?」で、
アマデがヴォルフに対し
「僕の好きな作曲が出来なくなるのは、困るよ!」といった表情に見えてしまう。
その後、赤いコートのことで、市村レオポルトに叱られたヴォルフは、
父親に対し反発する。
「どうして着ては、いけないんだよ!」
「(賭け事だって)みんなやってるじゃないか!」と腹を立てる。
そこには父にとってよき息子であろうとする自分なんて前提にはない。
やりたいことをやっているヴォルフ。
セリフそのもの、「わかってる。あいつは、僕のオヤジ、でも頭に来るときもあるんだ。」とまさに言葉どおり。
そして「僕こそ音楽(ミュージック)」は、
天真爛漫な少年(青年?)が、生身の礼儀知らずで、遊ぶことが大好きそして音楽が好きな自分と、
分身である作曲大好きアマデと一緒といった感じで伸びやかにうたう。
その後、すごい!と見たのが、
山口コロレドと市村レオポルトと中川ヴォルフのぶつかりあい。
芝居がぶつかり合い、それが歌でまさに表現されていたように思う。
セレナードが出来てうれしくてしかたのないヴォフルだが、礼儀知らずそのもの。
父親はそれをかばい、何とかその出来た曲を聴いてほしいと
曲のすばらしさを認めてもらおうとするが、
すでに礼儀を重んじるコロレドは曲どころではなくヴォルフの態度に腹が立つ!
火花が、出ていたようにすら見えた。セリフを強調するための歌であったように。
その後、モーツァルト親子のアーケードのやり取りは、さらに印象的だった。
いやあ、今回は、レオパパの怒りは、息子を突き飛ばしていたほど。
しかしそこには「私ほど愛するものはいない」と。
・・・いい歌、いやセリフだと。
同様に迫力を舞台に感じたのは、ブルク劇場の舞台裏の親子だった。
父親は息子の成功を喜ぶ。
しかし、息子の前ではけして褒めることなく、忠告をする。
それがしっかり読み取れる市村レオポルトであり、
今度こそ父に喜んでもらえると思っていたのに・・・
褒められるどころか、父親の忠告でまた反発してしまう息子。
この関係がすごかった。
それゆえその後の、レオの歌、ヴォルフの歌は、気持ちがのって
いた。
「何故愛せないの」への客席の拍手は異常なほど長く、
次のシーへの音がなかなか出せなかったのではないだろうか?
(実は、ついにここで2人のやり取りに泣けちゃいました。たまりませんわぁ)
流れが、先に飛んでしまったが、ヴォルフは、ウィーンへ行ってみたいが、ウィーンへの旅立ちを、父親に認めてもらいたいどうしたらいいのだろう?と大聖堂前のシーン。父と息子の心理描写が、絶妙。けして認められないと。父親が子供の手を振り払う、パパなんか嫌いだ。といいそうなところそうは言わないヴォルフ。親の気持ちがわかっているように思う。この親子関係にやはり前回同様、「星から降る金」はBGMになっていた。
さてコロラドが、冷静さを失ったように感じたのは,官邸内にヴォルフが、やってきてからだ。むきになるヴォルフに対し、山口コロラドの演技も熱くなっていたようにみえた。
前回以上に中川ヴォルフは、巧みな演技力がわかるというのではないのだけれど、自然体でありつつも、気持ちを爆発させ、相手をも刺激しているように見えた。そのために芝居そのものがさらにドラマチックになり、そこに歌という大きな芝居効果をのせて仕上げていくのだからすごい。(などとまことに勝手な分析)
一方アマデとの関係は、あんなに仲良く共存していたのに、父親が亡くなり、家族を思う。しかしそこには、アマデ・・音楽部分が突出し、ヴォルフは、怒り「お前が、悪い!家族を引き裂いた。」というセリフと共に錯乱してゆく、わかりやすく見ている側にまで自然に入り込んでくるように思えた。いっぽうこの辺からアマデはとにかく作曲一筋。冷静なものだ。
遅くなったが、大塚コンスとの関係も、回数をましてバランスが、良くなってきたのでは。
コンスは、姉を好きになるヴォルフだったが、自分に向いてくれるのをまつ、でも最大の
敵は彼の音楽だった。ヴォルフ自身も、コンスと音楽秤にかけて?というわけでもないだろうけど音楽をとってしまう自分に腹を立てる。そしてここでもアマデは、冷静。というラインがしっかりしていたと思う。
博多じゃもっとしっかりしたラインになっていくのかな?この関係。
一路男爵夫人は・・・いるようでいない。ウイーンの社交場のところが一番かな?
存在感は大きいのだけど、いざ芝居の中には、影の部分になってしまっていた。
最後に吉野シカネーダ。シラネ~だ~!とは良くいったものだ。
自分の名前を名乗るときにさえ、「エマヌエル シラネーダー、
エマヌエル シカネーダ」と客席をわかし、劇場全体を巻き込んでいった。
そして、よっぱらって新居に訪れた面々。
お金を投げてヴォルフを困らせるところ、いつもと勝手が違って投げる人が違う!
中川ヴォルフ一瞬あわてていたようす。取れたときには、苦笑い。
一方、中川ヴォルフ歌の面では、ずいぶんシャウトした歌い方をする曲が、増えてきました。ロビーで、年配の方が、「声は、出るけど、張り上げ方が好きじゃないわ。」といっておりましたのを耳にしました。やはり、好き嫌いが、でそうですね。
中川晃教らしい・・・といえばそれまでだけど。私、嫌いじゃないですよ。もちろん。
好きなほうですから。
博多はどうするのだろう?このままシャウトしていくのかな?
さてヴォルフの最期は、精神的にキテル!もう駄目だ。どうでもいい・・・
衝撃的です。最期「僕こそ音楽」は、吐息のようです。
アマデはいやだ!といわんばかり・・・しかし。と倒れこむ二人。
井上さんのラストはプログラム写真にあるように、二人が椅子に腰掛けて
アマデが倒れこみましたが、中川さんんは、名古屋前回と同様、アマデは、
椅子にすわることなくヴォルフに倒れこみます。それがなんだかとてもリアルでした。
で今回も、その後セシリア登場目に入らずじまい。
影をのがれて、カーテンコールまで、じ~んときっぱなしでした。
しばし拍手どころじゃなくて・・。
中川楽のご挨拶でようやく落ち着いたかな?
市村さん「さて三幕のはじまりです」で客席を集中させ、
今日で息子が最後の二人を・・だったかなあ。
まずアマデを紹介しに白いバラを渡す市村さん。
マイクがないので、とアマデの代弁「名古屋はどえりゃうまい」
てなわけないのに。
そして次にヴォルフにも先ほどより大きなバラを。
そしてコメント。
聞いたような聞かなかったような。
客席の私かなりボルテージ上がっておりました。
新幹線でようやくクールダウン。