反原発運動で使われる「国民」は日本人を意味するのでしょうか?朴鐘碩さん/OCHLOSから(追記あり)

2013-05-25 16:28:35 | 社会
http://www.oklos-che.com/2013/05/blog-post_25.html
反原発運動で使われる「国民」は日本人を意味するのでしょうか?-朴鐘碩

以下のURLを読みました。

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http://www.dianuke.org/stop-india-japan-nuclear-agreement-an-international-appeal/
2013年5月23日
日本は原子力輸出政策を凍結せよ
日印間原子力民間交渉の即時停止を求める声明

私たちは国際社会の一員として、インドと日本の市民を支援するためにこの声明文を作成しました。

交渉が山場をむかえる日印原子力協定について、私たちは強く反対の意を表明します。両国政府は、自国民の健康と安全、そして環境をも損ねる原子力の商業化推進をやめるべきです。

日本における福島原子力発電所事故はインド政府にとって驚愕の惨事であり、原子力技術の協力や供与には、人間の力では克服できないリスクがともなうことに気づくべきです。原子力事故は人間と環境に、取り返しのつかない被害を与えます。福島事故から2年以上たった今でさえ、原発は制御と言うにはほど遠い状態にあります。膨大な量の放射性物質が土壌、大気、水を汚染し、今の世代への被害だけでなく、これから何世代にもわたってこの汚染に苦しむことになるのです。原子力産業と政界との癒着はすでに暴露され、批判の対象となっています。

インドは責任ある行動をとり、原子力エネルギーの利用を再考すべきです。原子力エネルギーは現在、全電力のわずか3%を供給しているにすぎません。それゆえ、原子力エネルギーから、再生可能で持続可能な代替エネルギーへシフトすることは難しいことではありません。

日本は、原子力技術を他国、特にNPT(国連核不拡散条約)及びCTBT(包括的核実験禁止条約)の署名国でない国へ供与することをやめるべきです。日本が福島事故により膨大な経済的損失を抱えるなか、多くの国民が核(原子力)のない世界を求めて大規模デモに参加しています。また、三重のメルトダウンによって避難をよぎなくされた被災者が補償を受けていないこの時点で、原子力エネルギーをインド、ベトナム、ヨルダンなどの国々へ輸出する政策は、到底容認できません。

インドと日本、そしてこの地球上のすべての子どもと女性、そして未来の世代のために、私たちは日本の原子力輸出政策の凍結及び、日印二国間の原子力民間交渉を即刻停止することを求めます。

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イラストに柔道着(?)を着て、国旗・日の丸を持つ人物が描かれています。

原発を世界に売り込む日本、国策で利益を計上した日立、東芝、三菱などの原発メ-カを批判しながら、国旗が描かれたイラストを見て「あれっ?」と思いました。

勿論、原発を世界に売り込む日本を批判していることは、理解します。

植民地主義である原発体制を批判し、国際連帯で原発を世界からなくそうとする平和人権運動体が、アジアへの侵略戦争で利用し国民国家を支える日本の国旗を登場させる必要があるのか、疑問に思います。

反原発集会でも、国民の権利を守る憲法、国民の命を守る、と「国民」が登場します。選挙で選ばれた議員さんたちは、「国益」「国民の権利」を主張します。

「国民」は、日本(籍)人を意味するのか、日本に居住する外国籍住民も「国民」に入るのでしょうか。

国旗・国歌を批判させない、できないように(教育・官公・企業)労働者を沈黙させる植民地主義を克服することは、当事者個人の家庭生活が脅かされ、生き方が問われます。日立、東芝、三菱など原発関連メ-カで生活し、あらゆるエンジニア、労働者は沈黙し、組織に従順になることで「長生き」できます。

これこそ自(分)民族が抑圧・差別されるということは、他(人)民族を抑圧・差別することではないでしょうか。ものが言えない日立製作所(企業社会)で(民族)差別を訴えると(日本人)労働者から冷たく反発を受けたことがあります。

反原発運動だけでなく、戦後あらゆる人権・反戦・平和運動に関わる当事者の生き方が問われ、今後も問われ続ける課題でしょう。

原発を世界に売り込む日本の植民地主義との闘いは、日立、東芝、三菱に原発事業から撤退させ、原発輸出を止めることです。戦後、戦争責任を問わなかった人権・平和運動を批判的に見て、止揚することも必要です。

人間らしく生きるためには、その反省を含めて地域住民一人ひとりの当事者主権を求め、国籍を超えて多くの人たちと連帯する以外に道はないでしょう。長い闘いになります。

これは自ら潜む植民地・排外主義を克服する近道のような気がします。

反原発運動に関わって「国民という言葉に疑問を感じる」人も出てきています。

具体的な実践・活動する中で真摯な対話を続け、国籍を超えて植民地主義、排外主義を克服し、課題を止揚しましょう。

「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議 」

朴鐘碩

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野間易通@kdxn による 批判のようなもの
http://twilog.org/kdxn/date-130525

野間易通@kdxn

@kdxn むしろここではっきりと「国民」を名指ししなければ、いつまでたっても日本人は原発政策の責任を自分のものとして捉えることはできないだろう。ここで安易に「国籍を超え」てはならない。

posted at 07:38:16

野間易通@kdxn

@kdxn 国民主権の民主主義国家が政策として行ったことに主権者の「国民」が責任を負うのは当たり前で、それを問うたからといって外国籍の住人を反原発運動から排除することを意味しないし、「国民」という言葉を使わなければ国籍を超えたことになるわけでもない。

posted at 07:35:43


野間易通@kdxn

反原発運動における「国民」への言及について批判や疑問は常に提起されているけど、まともな批判はついぞ見たことがない。ほとんどが「国民」という言葉へのアレルギーを表明したものにすぎない。

posted at 07:34:03


野間易通@kdxn

日本国家を批判するために描かれた日章旗にまで「疑問」を持つのは、日の丸というシンボルに対する逆方向からのフェティシズムにほかならないと思う。RT @che_kawasaki: http://www.oklos-che.com/2013/05/blog-pst_25.html… 

posted at 07:30:24


野間易通@kdxn

こういう論理も何もないいちゃもんはそろそろやめにしてほしい。RT @che_kawasaki: 反原発運動で使われる「国民」は日本人を意味するのでしょうか?-朴鐘碩 http://www.oklos-che.com/2013/05/blog-pst_25.html… 

posted at 07:28:08

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以下は 野間クンの「批判のようなもの」とは関係ありません
野間クンの素朴な思考回路では 想像もつかないことでしょうがね。

反原発運動で使われる「国民」は日本人を意味するのでしょうか?-朴鐘碩
http://www.oklos-che.com/2013/05/blog-post_25.html記事のコメントから

・・さん、この問題は在日の主体性とは何か、国家、民族という既成の概念と韓国人(朝鮮人)として日本で生まれ民族的な素養がまったくない自分自身はどう生ければいいのかという問いから40年間、模索してきた問題です。
   「捨てられた石」ー在日として生きて来て見い出したこと
   http://www.oklos-che.com/2012/07/blog-post_24.html

その過程で日立就職差別闘争を闘い抜き、地域活動をし、そして3・11以降は「原発体制」なるものと向き合う中で、わたしは「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」をつくることを提案し、現在にいたっています。

・・さんの問題提起について私なりの意見を記します。

1.国民について
私は住民投票、国民投票が盛んに議論されるようになって外国人はそこに含まれるのかということに対して(東京都は外国人を排除、川崎は含めるなど地方自治体によって異なっている)、「国民」とは、日本「国」に居住する「民」ということであり、国籍を問うべきではないという主張をしていきました。

これは憲法では「住民」をどのように捉えているのか、「市民」とは何かなど、また憲法における「国民」では外国人の基本的人権はどのように捉えられるようになってきたのか、議論をするのであれば、以上のことを学問的に検証する必要があると思います。日本では「市民権」というのは法的に確立された概念ではありません、念のために。

・・さんのおっしゃる、<「核(原子力)技術」「核(原子力)事故」「核(原子力)産業」とすべき
です>ではすこし煩わしいですね。

2.「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」について
①「原発体制」については、当初から概念を明確にしてきませんでした。それはある意味、今回の原発事故を生みだした社会というように漠然としたものでした。統一見解はありません。しかし私の中では、戦後原発をもつにいたった日本社会、その原発は植民地を持たない植民地主義という、西川長夫さんの定義を念頭においていました。
   2010年12月1日水曜日
   「植民地主義の再発見」(西川長夫著)を読んでー朴鐘碩
   http://www.oklos-che.com/2010/12/blog-post_01.html

②核兵器によるアメリカを中心にした戦後の植民地支配を問題にするのは(=「問う」)、他者や制度を指すだけでなく、それを支える自分自身のなかに巣食った価値観、国民国家を絶対視し、相対化しきれない自分の考え方、生き方を批判的に捉えることを意味します。自分自身を批判的に捉えないで、「原発体制」を批判するということは、誤りだと認識しています。

③<「国民」をふくめて,わたしたちは,あたりまえのように使ってきた(使わされてきた)用語体系を批判的に見直す>ということは、倫理的な問題にとどまらず、それは国民として教育され、また教会においても明治以降、キリスト教が宣教のために国民国家と「調和」を取ろうとしてきた信仰理解そのものをしっかりと捉え直すことを意味します。
   書評 鄭玹汀著 『天皇制国家と女性ー日本キリスト教史における木下尚江』 
   「福音と世界」7月号で発表

自分自身の個人的な「救い」と「教会勢力の拡大」(=宣教)を中心に捉え、社会の不義と正面から対決しない、イエスに従って生きることの意味を社会の弱者を生みだす実態の中で問わない信仰理解を批判的に乗り超え、今ある原発問題と正面から取り組むことが今私たちキリスト者に求められていると私は理解しています。福島原発事故を起こし世界に原発輸出を展開しようとする原発メーカーを相手にした裁判闘争はそのような信仰理解に基づいています。

また、そのことは教会の戦争責任の告白とは、教会が第二次世界大戦への協力に留まらず、明治以降、現在に至るも、国民国家の拡大のために植民市支配をしてきたこの世の勢力を黙認、ないしは支持してきたことをしっかりと批判的に受けとめることを意味します。従って、CNFEの第二回目の集まりは戦後生まれの若手の教職者二人から戦争責任とは何かという発題からはじめたのです。

・・さんの問題提起をきっかけにしてキリスト者の社会責任についての議論と実践が深まることを
歓迎します。

  7月28日 
  第二回定例会開催。
  主題:原発事故とキリスト者の「戦争責任」・「戦後責任」について 
  発題者:城倉啓(日本バプテスト連盟教師)
  滝澤貢(日本基督教団教師)
  コメンテータ:関田寛雄(日本基督教団教師)

  2011年7月30日土曜日
  反原発闘争に参加するキリスト者の動向
  http://www.oklos-che.com/2011/07/ochlos-httpwww.html

崔 勝久

追加参考資料:

「在日」の生き方と地域問題への関わり方ー病んでいるのは日本人社会
http://www.oklos-che.com/2012/04/blog-post_08.html

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 「国民運動としての反原発運動」に、”まともな批判”(野間易通)を試みる/Gさんの政経問答ブログ

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