異国の客 067 ケ・ブランリーとディズニーランド その1/池澤夏樹

2007-04-27 22:56:13 | 世界
前に、フランス語の muse´e(ミュゼ)という言葉は和訳に困ると書いたこと
があった。博物館か美術館か。
 明治時代の人が勝手に2つに分けてしまったために、どちらでもあるような
施設の場合、訳語を選びかねるのだ。
 今回はそれがいよいよ微妙なので、しかもその微妙な違いの意味をこそ論じ
たいので、そのままミュゼと呼ぶことにしよう。

 エッフェル塔からセーヌ河をちょっと上流に寄ったあたりがブランリー河岸
で、そこに新しいミュゼができたのが去年の6月。
 すぐに行くと混雑していると思って秋まで待って行ったのだが、やはり込ん
でいた。
 切符を買う人々が長蛇の列で、1時間待ちくらいでは入れそうにない。
 そこで一計を案じて、1年有効の会員証を買ってしまった。
 そちらの窓口は空いていたし、自分の場合ここには何度となく来るだろうと
わかっていたから、これは賢明な判断だった。
 それで行列なしにすぐに入れたのはよかったのだが、外の列が長いというこ
とは中も込んでいるということで、なかなか展示物が見えない。
 見たいものが多いのに1点ずつの前に立てない。
 だからその時はいさぎよく引き下がった。
 なんといっても会員証があるのだからまた来ればいい、と強気になる。
 もともとミュゼには目のない性格である。
 会員券を買ったケ・ブランリーに今年に入って既に2度行った。
 まだ何度も行きそうで、通うというのに近い。
 2月の時はぜんたいを見て配置と構成の感じをつかみ、先日は南北アメリカ
の部分だけ丹念に見た。残るはアジアとアフリカとオセアニア。

 ミュゼ・デュ・ケ・ブランリーは文化人類学的な工芸品を集めて公開展示す
る施設である……というのがぼくなりの要約だが、こう書いただけでもう博物
館と美術館の矛盾が現れている。
 文化人類学主体ならば大阪の国立民族学博物館(略して「民博」)のように
そのまま博物館と呼べばいい。
 しかし、工芸というと、つまり芸の字が入ると、これはぐっと美術の方に近
づく。
 人が手で作ったものはすべて工芸の要素を持つ。
 収蔵された品の種類が民博と大きく違うわけではない。
 違うのは展示の姿勢である。
 ここでは人の手で作られたものが丁寧に鑑賞できるように配置され、照明も
それを引き立てるように、暗い中に一つ一つが浮かび上がるように計算されて
いる。
 学術的に細部を精査するための明るい照明はない。
 見かたを指示されているようだし、もう少し明るくてもいいのにと思うこと
がある。
 それに展示品とその説明のプレートの位置が離れていて、ガラス窓の前を右
往左往しなければならない。
 これも勉強より鑑賞に向いた配慮だろう。
 並べかたも学問的な地域や時代で分けて多くの展示物の総体で何かを伝える
のではなく、そぞろ歩きの途中でいいものに遭遇するのを期待する風になって
いる。
 お気に入りの一点を見つけてくださいと言われているよう。

 以上を要約すれば、ここでは美への奉仕が学術に優先しているのだ。
 常設展示の点数は民博の半分以下。
 その代わり大きな派手なものが多く、よく選んだそれらをじっくり見せると
いう姿勢。
 繰り返しになるが、ある地域の物質文化の全容を伝える力において物足りな
いと思う。その意味では民博の方がずっとうまくできている。

 たしかにすごいものが多い。
 一点ずつの美的価値において見る者を圧倒する。
 意中の一品を選んで記述しはじめたら筆が止まらないかと思うほど。

 それは後回しにして、どうしてこういうことになったのか、このミュゼの成
り立ちを調べてみた。
 主体となるのは19世紀から20世紀の前半にかけてフランス人が世界各地
から集めた品である。
 それらはここからセーヌ河を隔てたトロカデロのミュゼ・ド・ロム(人類博物
館)と、ヴァンセンヌにあったアフリカ・オセアニアのミュゼに収められてい
たのだが、それに足りない部分を買い足して、より幅広いコレクションにした
上で、この新しいミュゼに収めた。
 陣頭指揮したのはまもなく任期の終わるシラク大統領である。
 ポンピドゥーがポンピドゥー・センターを作り、ミッテランが巨大な図書館を
作ったように、シラクも何か文化的な施設を作りたかった。
 退任の後、大きな建物に名を残したかった。
 そこで着任と同時に準備を始めた。
 まずはそういう政治的な意図がある。

 次に、ジャック・ケルシャシュという男が協力した。
 途中で亡くなったのだが、彼は美術商だった。
 現代文明の中心地とは別の地域ならびに別の文化の中で作られた品、そこの
人々が自分たちの生活と信仰のために作った品を、工芸品と見なして値を付け
て売ることをもっぱらとしていた人物。
 だからぜんたいに美の要素が強調され、鑑賞する者に訴える力が重視される。
 それが作られ使われた際の文化的な文脈は背景に下がることを求められる。

 一言でいえば、コレクターの視点なのだ。

 フランス人が異文化の価値に目覚めた契機の一つとして、アフリカ美術がピ
カソやヴラマンクやアンドレ・ブルトンに与えた影響がよく言われる。
 そのきっかけについては2つの説があって、一つはマティスが骨董屋で買っ
たアフリカ彫刻をピカソがガートルード・スタインの家で見たというもの。
 もう一つは、ピカソは初めトロカデロの民族誌のミュゼ(先に書いたミュゼ・
ド・ロムの前身)でアフリカ・コレクションに出会ってショックを受けたとい
うもの。
 このエピソードは象徴的だ。
 つまり当時すでにこの種のものの扱いにおいてミュゼと美術商は拮抗してい
た。
 パリにいた画家や詩人は非西欧との出会いに強いインスピレーションを受け
た。
 彼らは表現手段を持っていたからそこから作品を生んだが、同じようにアフ
リカのものに惹き付けられてしかし表現はしなかった人々は(買うだけのお金
があれば)それらの品のコレクターになった。

 この非西欧の文化と現代美術の出会いは日本においては岡本太郎においてそ
のまま再現された。
 彼はパリ時代に文化人類学に接している。
 履歴にはパリ大学民族学科卒とある。
 いわばピカソたちの体験を日本文化に当てはめたのがあの縄文好みや沖縄文
化への親近感だった。
 大阪郊外千里の万博会場に建てられた太陽の塔は、後にそのすぐ近くに造ら
れた民博と起源を共有していたと言ってもいい。
 ぼくは鑑賞者として彼の作品をいいと思ったことはないのだが、この歴史的
な経緯はおもしろい。

 ケ・ブランリーのミュゼでヨーロッパという領域が最初から排除されている
理由もこれで明らかになる。
 出発点が異国趣味だったからヨーロッパのものはないのだ。
 文化人類学は学問であるからすべての文化を同じように扱う。
 一個だけを特化することをしない。
 その意味でいえば、西欧を排除するのは、つまり排除によって特化すること
であって、学問の本旨に違うことになる。

 企画の最初の頃、シラクは、たぶんジャック・ケルシャシュに代表されるよ
うな美術業界の用語を借りて、ここを「初期美術(アール・プリメール)」の
ミュゼと呼ぶつもりでいた。
 これはかつて使われてやがて捨てられた「原始美術(アール・プリミティフ)
に代わる言葉だが、そこに時間概念が入っていることは否定できない。
 進歩して今に至った美術の初期の段階という単純な進歩史観そのまま。
 批判が強かったのかさすがにこの言葉は引っ込められた。
 ミュゼの名にケ・ブランリーという地名が冠されたのはそのためだ。
 地名は無色だから。
<つづく>

               (池澤夏樹 執筆:2007‐03‐25)

*「異国の客」は『すばる』(集英社)に隔月連載しています。
 http://subaru.shueisha.co.jp/


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