橋下徹と小沢一郎の「民主主義」/21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ から ほか

2012-02-29 11:47:25 | 社会
「小沢一郎をもちあげたくなったら、これも読んでみてください」CMLでの紹介。同感。
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橋下徹と小沢一郎の「民主主義」/21世紀の日本と国際社会 浅井基文

*橋下徹・大阪市長が明らかにした「船中八策」(骨子。2月21日の産経新聞配信による。)と小沢一郎・民主党元代表が朝日新聞とのインタビュー(2月24日付同紙所掲)を読んで、彼らの民主主義に関する認識に怪しさと危うさを感じないではいられませんでした(2月26日記)。

橋下徹の「船中八策」(骨子)では、冒頭の「維新八策の目的」のその冒頭に「決定でき、責任を負う民主主義」という表現が踊っています。「決定でき、責任を負う」という言葉は、すぐその後に、「決定でき、責任を負う統治機構」として繰り返されています。ちなみに、骨子を読む限り、「民主主義」に関する言及は冒頭の一箇所だけです。これに対して、「統治機構」に関しては、「(1)統治機構の作り直し」でその内容が敷衍されています。私は、「決定でき、責任を負う民主主義」という私にはきわめて見慣れない言葉に違和感を覚えざるを得ませんでした。骨子が「民主主義」についてはそれ以上何も触れるところがないので、橋下の意味するところを理解できないもどかしさもありました。
小沢一郎はインタビューで、橋下の「船中八策」に関する感想を問われて、「『決定でき責任を負う民主主義・統治機構』…という主張は全く同感。我が意を得たりだ」と述べています。小沢の場合は他の箇所でも次のような「民主主義」に関する発言がありました。


○(「政権交代から2年半。政治が機能していないのはなぜか」との質問に答え)まだ日本では民主主義が定着してない、成熟していないということだ。国民以上の政治家は出ないというからね。2009年8月総選挙での政権交代は変化を嫌う日本国民にとっては大変な決断であり、夢をかけたんだと思う。でも民主党は期待に応えるだけの資質を身につけていなかった。『任重くして』ということかな。
○政権交代で議会制民主主義のレールは敷けたかと思っていたが、どうもうまくいかない。
○政権交代を前提とする議会制民主主義を定着させ、あとは次の世代にたいまつを引き渡す。

 私はかつて、拙著『新保守主義 -小沢新党は日本をどこへ導くのか-』(柏書房 1993年)において、小沢の考え方を分析したことがあります。彼が国内政治の改革論の旗手になったのは、若くして自民党幹事長になった彼が1990年の湾岸危機に直面し、「冷戦構造の中で存在を許されてきた与野党の図式-そのぬるま湯の構造」、つまり戦後政治を特徴づけてきた与野党対立型の政治(55年体制)を抜本的に改める必要を痛感してからのことでした。彼が「国内政治の改革」ということで意味したことは、「意思決定がすんなりと行えるような政治の枠組み」(p.157)を作ることであり、かつ、それに尽きていたのです。「つまり、彼の政治改革論の最大の眼目は、速やかに意思決定が行える政治制度を作り出すことにある。そのためには、主義主張が似通い、従って政権交代も行い易い二大政党制が適当だということ」(p.159)だったのです。
そして、それを実現するための選挙制度としては小選挙区制導入が是非とも必要でした。今回のインタビューで、「細川政権で小選挙区制を決めたのは政権交代可能な政治体制をつくることでした。それが失敗だったという指摘があります。」という問いかけに対して、小沢は、「それは全くの間違いだね。中選挙区制は日本人的なぬるま湯の仕組みだが、対照的に小選挙区制は一番政権交代のしやすいシステムだ。自分たちの代表を一人選んで自分の意思表示をきちんとするという意味で、その目標と意義は全然変わっていない。」と答えています。「中選挙区制=ぬるま湯」の発言は、1992年12月号の『文藝春秋』で彼がすでに口にしている言葉であり、今回もその言葉を繰り返しているということは、小沢の考え方が20年来一貫していることを示しています。
つまり、小沢にとって重要なことは迅速な意思決定メカニズムの構築であり、「民主主義はいかにあるべきか」ということではないのです。そのことを踏まえた上で、選挙制度のあり方に関する彼の上記発言を読み返してみると、彼がなぜ民主主義一般ではなく、「議会制民主主義」という言葉にこだわっているのかが分かります。つまり、彼にとっては議会制民主主義とは、「(国民が)自分たちの代表を一人選んで自分の意思表示をきちんとするという意味で、その目標と意義は全然変わっていない」ことにあるのであり、そのあとは「主義主張が似通い、従って政権交代も行い易い二大政党制」にすべてを白紙委任するということなのです。
このように見てくると、小沢が橋下の「『決定でき責任を負う民主主義・統治機構』…という主張は全く同感。我が意を得たりだ」と述べた意味が明らかになります。つまり、ポイントは「決定でき責任を負う」点にあるのであり、「民主主義」はお飾りにすぎないのです。橋下のこれまでの言動から判断すれば、橋下における認識も大同小異と見て大過ないでしょう。
橋下、小沢というような「政治家」が不透明性を極める日本政治を引っかき回そうとして、虎視眈々と機を窺っているのは、なんとも不幸なことと言わざるを得ません。
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2012/index.html
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2012/429.html

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BI論批判―立岩真也+齊藤拓『BI 分配する最小国家の可能性』/Gさんの政経問答ブログ から
ベーシック・インカム(以下、BIと略)を論ずる人々は多い。立岩真也+齊藤拓『BI分配する最小国家の可能性』(青土社)で齊藤が「日本のBIをめぐる言説」を紹介しているが、それだけで論者は50人にのぼる。これは基本的には、BIが社会政策=分配に属することで、所有関係に規定されるにもかかわらず、それを論じないのが暗黙の「約束事」になっているからだ。「原理」のない議論は、財源、妥当な給付額、それが与える社会的なインパクト(労働へのインセンティブ)などのバリエーション、その良いとこ取りのマトリクスへと果てしなく広がらざるをえない(注1)。

同書のなかで齊藤拓は「政治哲学的理念としてのベーシックインカム」を書いているが、それは「今のところ最も精緻な『理念としての』BI論であると評される、ベルギーの政治哲学者フィリップ・ヴァン・パリースによるBI正当化論」(P191)の紹介である。パリース(および齊藤)の理念は、「市場原理主義的かつ個人主義的でありながらも大きな再分配を厭わない」(P252)というものだ。「市場原理主義的」だからと言って、とりあえず忌避する理由はない。むしろ「理念」を明確にし、資本主義のロジックの上でBIを論じているから、それへの批判によりBIの運動の意義と限界を明確にすることができるだろう。
*以下
http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-625a.html
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