私の父は現「朝鮮民主主義人民共和国」に生まれました/金信明

2006-01-31 20:21:25 | 社会
私の父は現「朝鮮民主主義人民共和国」の元山近郊の農村で1918年1月9日(戸籍謄本による)に生まれました。日本による植民地支配下の朝鮮で育ちました。父の父(祖父)「金國禎」は、元々農民でしたが、土地を奪われ、元山で行商をしていました。

そのため、私の父「金仁義」は少年時代、非常に貧しい生活を余儀なくされたと聞き及んでいます。ある時、腹が空いてたまらなくなり、日本人が経営する農地にあったトマトを盗み食い、それを見つかって、日本人の農民に半殺しの目にあうまで殴られたこと。その姿を(自分の子が殴られているのに)ただ、ただ、見ているしかなかった祖父のこと。その祖父から「日本人の子供とケンカをしても、絶対に勝ってはいけない」と教えられて育ったそうです。

父はロクに教育も受けられず、幼くして日本人が経営する蒲鉾屋に丁稚奉公し、口代を稼ぎました。勉強がしたくて、したくて、たまらなかったと言います。「日本に行ったら、中学校に行けるかもしれない。」そんなかすかな望みを抱いて、父が単身日本に渡ってきたのは18才の時です。蒲鉾製造の技術は身につけているから、蒲鉾屋にでも勤めながら、「中学校に行きたい」と思ったのです。父の言によれば、当時の朝鮮の中学校は「日本人を優遇するため、朝鮮人は3人しか入れなかった」そうです。父は遠路、元山から釜山を経て玄界灘を越えて日本に着き、頼るすべもなく東京に着き、張り紙の求人広告を見て、本郷の朝日新聞の配達所に住み込みで働くことが出来ました。まだ、「創氏改名」が行われていなかった時期でしたが、日本人になりすまさなくては雇ってもらえないと考え、父は自分で「日本名」を作り、雇ってもらったそうです。

元山で日本人が経営する蒲鉾屋に勤めていましたので、自分では「日本語がうまいからばれないだろう」と思っていたそうです。しかし、新聞配達所の同僚には「朝鮮なまり」ですぐに朝鮮人とばれました。しかしながら、同僚には「画学生」など当時の日本人としては風変わりな、そして自分でも苦労を重ねている人々が多く、彼らは父の言葉の「なまり」を直してくれたり、進学の応援をしてくれたりしたそうです。(本郷の朝日新聞配達所での親切は、父にとっては一生忘れがたい出来事であり、そのため戦後仙台で電気工事会社を経営しながら、商売上の必要から「葬儀」などの記事がでる地方紙「河北新報」を購読する一方で、何の役にも立たない、一日遅れの記事が載る「朝日新聞」を購読し続けていました。)

新聞配達をしながら、父は夜学の電気学校に通い、電気工事の資格を得て、日本の電気会社に入りました。日本の電気会社に勤めているとき、日本人の上司の紹介で、私の母である日本人「松澤ひで」と見合い結婚しました。「内鮮一体」が叫ばれ、朝鮮人と日本人との結婚が奨励されていた時期でもありました。すでに「創氏改名」が事実上強制され、本貫である「清風金氏」を残すために「清金仁義」と称して、1943年7月20日「婚姻届出」したと戸籍謄本にはあります。

父の会社生活も順調に行くかと思われていましたが、だんだんと15年戦争が逼迫していく中で、会社も国策により「統合」され、朝鮮人である父には勤めづらい、差別的な職場へと変質していきました。そのため、父は会社を辞め、地方回りをはじめました。電気の技術があるため、ラジオの修理など地方回りをしながらも、生活することが出来たそうです。しかし、朝鮮人で、ラジオ等の知識があり、住居を転々と変える父は「特高」に目を付けられ、「逮捕」され、「拷問」を受けたこともあったそうです。スパイと疑われたからです。

日本敗戦後、朝鮮人は解放されましたが、多くの朝鮮人が「在日朝鮮人」として日本に残ったことは周知の通りです。

父は仙台市に移り、「日電」という電気工事会社を興しました。しかし、仕事の関係、差別のせいからなのでしょうか、父は日本国籍を取得し、母方の姓である「松澤」を名乗るようになります。父の日本国籍の取得の方法については、母方の婿養子となったのか、「帰化」したのか、戸籍謄本を見ても分かりません。ただ、日本国籍取得後、父はその出自を隠して生活するようになったのは間違いない事実です。日本社会の差別がそのような選択を父にさせました。そのため、私は父が朝鮮人だということを20才になるまで知りませんでした。

しかし、父は、後になって、仕事から引退し、朝鮮にも2度帰国し、弟にも会い、両親の骨を一部持ち帰り、仙台の「松澤家」の墓に埋めました。そして、子供達が成長し、仕事からも引退した後に、朝鮮人としての正直な生き方を公然とはじめました。朝鮮帰国時に貰ったハングルの「書」や朝鮮関係の書物が父の机に置かれるようになりました。

私の手元には父の朝鮮帰国時の写真約百枚があります。また、父と弟(私にとっては叔父)との手紙の束があります。私が「金」を名乗るようになった時、心配しながらも一番喜んでくれたのは父でした。

父は、1996年11月4日、心の中で「朝鮮人」としての民族への回帰を果たし、その生涯を閉じました。私はそのような父の思いを精一杯背負いながら、現在、日本国籍ながら、「朝鮮人」として生きています。

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