うちとうちのまわりとうちのなかのことたち。

まぁ気がむいたときにのんびりかきますー。

岩手・宮城【3】

2013-03-15 04:37:36 | Weblog
【3日目】2/25(月)
宮城県
 多賀城市
 ↓
 仙台市 若林区(荒浜)
 ↓
 名取市 閖上
 ↓
 仙台市 ひさのとバイバイ、渡辺くんと再会
 ↓
 荒浜
 ↓
 仙台空港
 ↓
帰阪



最後の3日目です。

岩手県~宮城県沿岸にかけて、車で、しかもほとんど降りずに通り過ぎるだけで3日間かけてまわっても、ほんまにまわりきれん大きな範囲。
どこに行っても同じような景色・同じぐらいの大きな被害。
果てしないように感じた3日間でした。

初めて自分の目で実際に見て、空気に触れて、
あほみたいな話やけど確かに震災は現実世界であったことで、自分と何も変わらん環境で似たような日常生活を送ってた人達が経験したことなんやとじわじわ実感した。

これまでも当然頭ではそう思ってたけど、深く想像することで痛く実感してしまうのが、多分こわかったんやろうと思う。

ひとつひとつの場所や景色、出会った人との会話、全てが衝撃でショックなものやったけど、改めて思うのは、私が今回見たのは、震災から2年を経た姿であるということ。
1年前あるいは震災当初の姿は、もっともっと想像を絶する生々しさやったんやろうなと思う。


自分はそこにいて何も実際に経験してないから、自分の感覚と経験値から一生懸命想像して思いを馳せてみることしかどこまでもできんけど、
一つ一つの場所で、一体ここの人達は、あれほどの経験をどれほどの器で、どんな思いで一身に受け止めてるんやろう、って想像した。

きっと、きれい事やない、地縁とかしがらみとかもいっぱいある中で、人間としてどんな日々を過ごしてるんやろか、とずっと考えてた。


何についても、『現実』って善も悪もなく、何の色もない。ただその現実があるだけ。

実際神様なんておらんから(存在としては肯定するけど)、その「現実」が自分にとって「良い/悪い」とかの「意味づけ」をするんは、結局自分しかおらん。
ほんまにどうしょうもないただの現実が覆いかぶさってきた時って、一体全体それが何なのかも分からんくなって、立ち尽くして絶望してしまったりもすると思う。

月日とまわりの世界・世間だけが、自分たちを置いてどんどん進んでいく感覚もきっとあると思う。

勝手にそんな想像もしてしまうけど、ここの人達は、この場所で与えられた環境で、やっぱり非日常の日常を日々過ごしてるんやなぁと思った。







午前中は仙台市の荒浜沿い~名取市の閖上まで行きました荒浜周辺は、松が所々で並んでるのが目に付きました。




瓦礫の集積所はそこここで目にする。




閖上走ってたら、遠くに見えた大きな黄色い建物。行ってみることにした。




ガードレールの曲がり方で、水の流れ方や激しさを感じた。




遠ーくに中学校が見える。




何かなと思って行ったところは、なんと特別養護老人ホーム(特養)「うらやす」、デイサービス「ときわ」、事業所「ちとせ」って書いてあった。
元々ひさのと私は介護付き高齢者住宅の会社で働いてた同僚やから、こんな偶然ってあるんかと目を疑った。

施設ってもんが普段どんな様子か。ヘルパーさんや職員さんはどんな感じか。
入居者さんである要介護の高齢者…特に特養に入ってるぐらいの人というのはどんな状態で、この規模の施設ならどんなけ入居者数多かったか。

そして高齢者施設で災害が起こったときの、避難や判断の難しさ、どんなに大変でどんなにつらい現場やったやろうかってことがあまりに想像出来すぎて、胸がえぐられるみたいにつらかった。








写真撮るのにものすごく迷って、手が動かんって初めて体験したけど、2枚だけ撮った内部の写真。
普段の様子と避難の様子の想像図が、ものすごい速さで交互に目に浮かんできて、とにかく涙が溢れて止まらんかった。

この日は、前夜に雪が降ってまだ積もってたけど、敷地の入口から新しい足跡が残ってて、そこから続く自動ドアの向こうの玄関に、献花台が作られてました。

帰ってから調べたら、この特養は163人の入居者さんのうち、47人が犠牲になったとのこと。
この結果をどう捉えるか、ここに至るまでのプロセスや現場の方々の判断に、改めて頭が下がり、手を合わせずにはいられない気持ちになった。






施設を背に、後ろを向くとこんな景色。
ずっとずっと家の基礎が並ぶばかりで何もなくなってて、草が生えてる。きっと住宅街で、その中に施設があって、近くには学校があって、っていう地域やったんかなと思う。
残された民家のアプローチが、自分ちと何も変わらんくて、そこにあった生活が浮かんできた。
玄関やった場所に、お人形とお花が置いてある家もありました。




復興支援地図。これを使って、行き先を見つつ走りました。
地図上の水が来た範囲に色がついてたり、主要な建物が書いてある地図でした。



仙台駅近くに戻ってきて、お昼食べてるとこで、今回2つ目の目的やった渡辺くんとの再会
11年ぶりで、嬉しすぎてもしかしたら泣くかもなぁー…と結構本気で思ってたけど、登場時の姿にあまりにびっくりして、涙気分ひっこんだ。笑
なんでも、ボクシングやってたから、減量で13kgも痩せたらしい
男前なってた!!笑

ここでちょと喋って、3日間ずっと案内&運転してくれてひさのとはバイバイ。ひさのなしでは実現できなかった今回の旅。ほんまにありがとう。




絶対行きたくて、一番最初に連れてきてもらった国分寺薬師堂。
ここも地震の被害大きくて、瓦もほとんど落ちたらしいけど、きれいになってた。
波こそ来なかったものの、今までの地震とは比べ物にならんほどの揺れで、尋常じゃなかったらしい。
渡辺くんの自宅も、1階部分はめちゃくちゃで、半壊になったとのこと。

去年の東北行きは、直前に彼の事故があってドタキャンしてしまったんやけど、そんときに渡辺くんが、自分も大変やろうに、そっこーここのお守りを送ってきてくれた。
「被災から復興した神社のお守りを、震災でも死ななかった俺が送ってやるから絶対大丈夫だ!」ってゆう手紙付きで。

そんときはまだ彼の意識もなくて、正直目の前のこと以外何も頭にない状態やったけど、その言葉がほんまに心底嬉しくて、死ぬほど救われた。

そこからほどなくして彼の意識が戻って、奇跡みたいな回復につながってる。
やから、今回仙台に来たら絶対にこの神社にお礼参りするって決めてた。
今回唯一自分で決めてた行き先。笑














渡辺くんの車でもっかい荒浜周辺~空港のある岩沼までを案内してもらった。
高速道路が防波堤の役割になって、渡辺くんの家までは波が来んかったらしいけど、もし高速道路がなかったら家まで来てたって。やっぱりそのくらい渡辺くんちは海に近かった。

思えば2年前、この震災に関するニュースで一番最初に目にしたのが「仙台市若林区」。一瞬で渡辺くんの住所やって分かった。
ほんで耳に入ってきたのが「荒浜には200~300とみられる遺体が流れ着いているもよう。。。」というアナウンサーの声。

Googleマップで渡辺くんの住所調べたら近いなんてもんじゃないほど海の側やった。
そっからパニックになったらあかん、とパニック状態で自分に言い聞かせながら必死に連絡とって、何日かしてやっと繋がった。
当時人生でダントツ1番心配&安心して号泣した出来事やった。

まぁその順位はちょうど1年後に見事に塗り替えられたけども。


荒浜は、とにかく遠くの遠くまでずっと見渡せるほど広くて何もなくなってた。
堤防のすぐ側まで行ったけど、そっから海なんか見えんかった。
結構高い堤防らしい。それでも余裕で波が超えてくるって、そら毎日ここで生活してたら全然思わんやろ。

この近くは乗馬クラブがあってな~、馬も皆流されたんだよー。とか、
取引先の人も近所の人も結構亡くなっててな~、とか、
家建てて鍵の引渡しの翌日とか、車買って納車してすぐとかで津波が来た人もいてな~、とか、
仮説住宅も大変だけど、半壊の自宅で生活してる人もいっぱいいてな、そーゆう人は仕方なく住んでんだよ。他に行くとこがないから。とか、

色々話してくれた。

復興なんてまだまだで、見渡す限り、広大な原っぱに住宅の基礎部分がずらっと残っている状況。
残ってる瓦礫もまだたくさんあるけど、それでも瓦礫とか、建物に乗り上げた船・車はほぼ撤去されたので、かなりスッキリしたらしい。
最初は目も当てられなかったからな~。って言って、当初の写真をいくつか見せてくれた。

2階の屋上に乗り上げた船、家の窓から垂れ下がってる、流されてきた色んなもの。。。
その風景と、今自分が見てる風景は、確かに違うものやった。

カメラマンでもない自分が、個人的な観光で来ただけで写真を撮ることに、やっぱり少なからず疑問を持ってたけど、ひさのも渡辺くんも、写真は撮ったほうがいいって言ってくれた。

もちろん軽率なものは問題外やけど、撮って残していかないとどんどん形は変わっていって、それと共に記憶からは忘れられていく。
うちもそう思う。
実際、今回見たものだけでも、確かに頭の中に鮮明に残ってはいるけど、やっぱり写真を見返したら、更に鮮明に思い出す。

何もなくなってしまうと、何もない風景の向こうに、それまでの生活や、あの日何があったのかをただ想像するしかない。
百聞は一見に如かずという言葉どおり、視覚的に脳に入ってきた瞬間、やっぱりものすごい衝撃と実感がわく。

でも、形を残すか残さないかは、被災者心理的にも難しい問題であることは事実で、口出しは出来ないなぁとも思う。


2年経って何を思うか聞いてみたら、一番解決してほしいのは原発だな。っていう答えやった。
宮城はあまり直接的な影響はないけど、これだけ広範囲の被災で何から手をつけていいか分からない中、「原発を将来的にやめる」という決定くらいして、少しでも復興の進展を感じさせてほしい。とのこと。




帰りは仙台空港から帰阪。
渡辺くんのことは遠くからやけど2年間ずっと心配してたし、会ったらいっぱいいっぱい聞きたいことあった。
ほんで、できたら、ちょっとでも力になれたらいいなって思ってた。
のに、ずっと喋ってたけど8割方私の心配と彼の病状の心配やった。
いやいやご家族は元気なのか、困ってるなら何に困ってるのか、そもそも君は一体今どんな日々を過ごしてるねん。。。と思いながら、結局自分の相談ばっかしして、飛行機の時間になってしまった。

うちは果たして会いに来て、少しでも彼のプラスになれたんやろか…とかにわかに思いながら、名残惜しくバイバイして搭乗ゲート入った瞬間に、いきなりお守り渡してくれた。
何かと思えば、国分寺薬師堂のお守り。
私が行きたいって言い出すとは知らず、既に買ってくれてたらしい。
新たにうちの就職祝いと、彼の更なる回復祈願を兼ねて。

いや何でゲート通ってから渡すねん!笑
おかげで思いっきり泣きそうになったのに、後ろ並んでて行かなあかんし、変なプライドと恥ずかしさで泣かれへんかったやん!笑
でも機内で若干めそめそしたやん!笑

こっちが心配して、顔見たくて行ってるのに、逆に心配してくれて、頑張れよ~って言うてくれて、会ってる間も自分の話せんと昔話やらうちの話ばっか聞いてきて。
全てが何も飾らん言葉ばっかりやけど、ほんまにどこまでもあったかい人間やなぁちくしょー、と思った。


なんか渡辺くんの人間性を称えるブログみたいになってるけど、ちょと違う!笑


大層なもんではなく、ただ自分のためにも残そうと思いました。

知識のない状態で、特に目的もなく自分が見てきた事実と感じたことだけを長々と書きました。
長文・乱筆でまとまりのない文章にも関わらず読んでくれた方、ありがとうございます。
もし、読んであまり良い気分がしなかった方がいたらすみません。

この震災で感じること・考えることはほんとにたくさんある。
一方で、今回の旅行に行ったからといって自分の生活が特に大きく変化するわけでもない現実も、感じています。
これからも、友人を大切に思う気持ちをはじめ、自分のできることをしっかりやっていきたいと思います。


VANISHING / 清貴


岩手・宮城【2】

2013-03-04 02:22:48 | Weblog
【2日目】2/24(日)
宮城県
 気仙沼
 ↓
 本吉
 ↓
 南三陸町
 ↓
 石巻
 ↓
 東松島
 ↓
 仙台市
 ドリカムライブ(セキスイハイムスーパーアリーナ)
 ↓
 多賀城


2日目です。
この日はライブが3時半からと早めやったことと、途中で自分も運転したことで、写真は少なめやけど、川沿い走ってると、この川を逆流して水が来たんかって想像したりしてぞっとした。
地形的にくびれになってるようなところは、左右両方から水が来て、どこにも逃げ場なく孤立してしまったっていうところもあった。

そこから海なんか全然見えへんのに、確実に津波の爪痕が残っていて、そらここの人達はまさかあれほどの津波がここまで来るなんて思わんかったやろなぁと思った。

大きな工場とかは再建して稼動してるとこもあった。
民間企業の力って、やっぱり早いし大きい。

ちょっと高台の、ぱっと見にはあんまり被害の見えない住宅街を抜けていくと、普通に皆生活してはるし、ほんまに近所の道走ってる感覚になる。
けど、そっから少し下に向かって走っただけで、いきなりあの何もない風景がばぁっと目の前に現れたりして、余計にインパクト強かった。

震災当時、TVで何度も繰り返し中継のアナウンサーが叫んでた「壊滅」という言葉からは映画とか戦争とか、人間の世界を破壊しに来た敵に立ち向かってくような近未来アニメ?とかしか思い描かれへんかった。

そしたら目の当たりにする現実は、そのイメージ通りで、それどころか想像の域をはるかに超えてしまってた。




ホテルの窓からすぐ下に見えた気仙沼駅。屋根に絵が描いてある~




瓦礫は、種類ごとに集められて細かくされてるようでした。






真ん中だけがなくなったり、橋桁しか残ってなかったりする高速道路。




南三陸町役場。最後まで避難を呼びかけるアナウンスをして、犠牲になってしまった職員さんがいたところ。
どんな思いで最期まで伝え続けたんやろ。
彼女も含め、17,300人の住民のうち1万人が犠牲・安否不明になった南三陸町。
ここも、いくつかの建物がぽつぽつ残ってるだけで、ずぅっと見晴らしのよい原っぱになってました。




「なつかしい未来へ」。
なつかしい景色が見られる未来がほんまに訪れますように、と思った。




瓦礫の山。ほんまにおっきい。






全児童の7割が犠牲になった、石巻市の大川小学校。
小学校の周りはほんとに何もなかった。だだっ広い工事現場のような場所の中に、小学校だけがそのままあるってゆう感じやった。

すぐそこの北上川を津波が昇ってきたとのこと。

学校のほんとすぐ後ろに裏山があった。すぐに山へ避難していれば、って後から散々議論されてたけど、後から何を言っても結果論でしかない。

先に全員点呼を、という判断をした教員の方々を誰が責められるやろう。
子ども達を犠牲にしようと思ってた先生なんているわけない。絶対全員守らなあかんっていう思いだけやったやろうに。
地形やこれまでの経験からくる危機感の薄さ、その他あらゆる条件が全て悪いほうに向いてしまって、結果、最悪の結果になってしまったんやろうと思う。

今もまだ見つからないままの子も何人かいて、そのお母さんの中には、震災後に重機の免許を取って、捜索を続けている方もいると聞いた。



大川小学校の慰霊碑。






東松島市の航空自衛隊基地近く。ここも見渡す限り原っぱの中、何軒かぽつぽつ残ってた。




玄関側の壁全体に、花のペイントがされた家。
おそらくもう住めないであろうこの家に、どんな気持ちで描いたんやろ。






この日の昼食!イカやら貝、牡蠣の網焼きをタレで。ワカメ汁は御自由にどうぞやった。めっちゃ美味しかった




夕方はセキスイハイムスーパーアリーナってとこでドリカムのライブに行ってきました。
ここは震災直後は遺体安置所になってたところとのこと。

360度のステージやったから自分でもお客さんを見渡せた。
ここにいてるお客さんのほとんどが、きっとそれぞれの被災体験を持ってる人達なんやろうけど、ライブ中はほんとに皆楽しそうで嬉しそうで、泣いてる人もいっぱいいてて、美和ちゃんも泣いてた。

演奏や歌が圧巻なのは当然ながら、美和ちゃんはとにかく愛が溢れすぎてて、それをどう放出したらいいのかも分からんくらい愛が溢れてた。

雪降りまくりで、ライブ終わったら駐車場の車は雪だるまになって、フロントガラス凍って視界ゼロやった
駐車場から出るのも1時間くらいかかったけど、あらためて音楽ってすごいなって思った。


この日は雪道を走って多賀城市のホテルへ
夜ごはんは利久って牛タンやさんに行きました。
ちっこいTVでお店のひともWBCの壮行試合のTV中継見つつ、お酒?飲みつつ(笑)
気さくで人懐こい感じのおっちゃんとお兄ちゃん達でした。

2/23(土)~25(月) 岩手・宮城【1】

2013-03-03 03:55:15 | Weblog
2/23(土)~25(月)に、岩手・宮城へ行ってきました。
ほんまやったらちょうど1年前の同じ時期に行く予定やったけど急遽無理になって、ちょうど1年後。
1年前に行ってたら何がどんな風に見えたかは分からんけど、この1年間、私自身もほんとに命について色んなことをいっぱいいっぱい考えた。
そんな経験や変化を経たうえで、この時期に行けたことは自分にとっても良かったと思える旅行でした。

ボランティアや何か支援をしに行くわけでもない、ただ被災地の案内と、仙台に住む友人に会いに行くだけの個人的な旅行としてでしたが、本当に強烈な3日間になりました。

帰ってきてからも、何かにつけてふとした瞬間に、脳裏に焼きついた色んなシーンが常に浮かぶ感じ。

行く前から、一体ボランティアでも支援でもなくただ行って何の意味があるんかなとか、どーゆう姿勢でおればいいんかなとか。。。
でも、なんか一生懸命そうやって「目的」と「理由」を探してることに、何の意味もないわと思ってからは、ただ起こった現実を自分で見ることと、懐かしい友達に会いに行くことだけを考えよって思いました。

なので、こんなブログ書くのにも、一瞬無駄な「意味づけ」をせなあかんような気にもなったけど、変な色つけんとそのまま見てきたこと・思ったことを書くことにします。


【1日目】2/23(土)
岩手県
 山田町
 ↓
 大槌町
 ↓
 釜石
 ↓
 陸前高田
 ↓
宮城県
 気仙沼


最初の会社の後輩であり、いまや私の人生になくてはならない友人となったひさのから、新花巻駅で電車内合流とゆう難ミッションを課され、緊張の中いざ伊丹空港へ。。。

初めて1人で飛行機(◎ω◎;)!!

伊丹空港でひとしきり迷ってから、ゲート?通るときにトレイに何を出していいかも分からず、ガラガラを持ち込んでいいのかも分からず、ピー!!て鳴りませんように…とそわそわオドオドしながら何とか乗って、何食わぬ顔で大事にカバン抱えてたらCAのおねいさんに「荷物は座席の下にお入れ下さい(にっこり)」と言われ、花巻空港でまたひとしきり迷ってからやっとこさバスに乗り、電車に乗り、合流駅でひさのが見えた瞬間一気に安心して眠くなった

ひさのは去年1年間岩手でNPO法人KnK(国境なき子どもたち)の職員として被災地支援に入ってて、その頃から色々と話を聞いたりしてた。
けど、実際その地を自分の足で踏んで、自分の目で見ると、今更ながらほんまに同じ日本の、自分ちと同じよな場所で起こったことやねんなぁ…と実感した。

だって一緒やもん。
ちょっと寒いけど、駅にしても、町並みにしても、お店にしても、周りの人達にしても、普段自分が生活してる大阪となんら変わりない。




最初につれてってくれたのは、ひさのの活動先でもあった釜石市の青葉ビル。
障害者、高齢者のセンターや子ども支援センターが入ってるビルで、犠牲になった方もおられたとのこと。
KnKの活動の一環として、ロクシタンの支援で新しくなってます。



壁時計のところから色が少し変わってるのは、そこまで水がきたから壁紙を変えたとの事。






北上して、山田町から沿岸沿いを南下
一見、田舎に旅行行ったらこーゆう風景よくあるなー、という印象やけど、よく見たら家の基礎部分がずらっと続いてる。
野原じゃなくて、住宅街やったんや…と思った瞬間ショックやった。





そして、たまにぽつん、と流されなかった建物がそのまま残ってる。
家の形をしてるのに、中身は全てなくなってまったくのがらんどうで、真っ黒に口をあけてる感じが怖かった。




ひとつひとつに深く思いを入れてたら、大きすぎて広すぎて、到底もたないと分かっていたので、事実をただ見ることに集中してたつもりやったけど、もうただただ勝手に涙が止まらんかったのが、ここ。
町全体を一望できる高台にある、大槌町の城山公園。ほんとにひとつの町全部がなんにもなくなってた。
大槌町は町長さんが犠牲になったこともあって役場が機能せず、復興も遅れてしまったとのこと。今は小学校の跡地が役場になってた。
守れなかった子どもがいる小学校の先生達は一体どんな気持ちやったんやろうとか、そゆことを思うと、すべてがつらかった。

写真は枠で区切られるけど、この右も左もずっと向こうのほうも、ずぅっと同じ光景が広がってる。
この光景になってからこの桜が咲くのも、この春で3回目になるんやな。





町を見下ろす場所にあった希望の灯りは、阪神大震災の慰霊碑の火が分灯されたもの。




普通の家にも、ビルにも、至る所の建物にあった赤丸に×のマーク。
自衛隊の救助活動時、生存者最優先で捜索してたから、遺体があった所にとにかく印だけして進んでいったものらしい。
普通に自分らが住んでるようなところに付けられた、たくさんの印を見た。




そのままになってる車もたくさん見た。






壊れた橋?のそのまた向こう側の景色も重機がいっぱい。




ずぅっとここで暮らしてきて、暮らしていく人がいるんやな。








夜は、ホテルから少し歩いた復興商店街にて。
被災してお店がなくなってしまった人達とかが集まって、プレハブ長屋みたいな飲食店通りでお店を再開してる。
色んなところに、こんな復興商店街を見かけました。

東北の人は、お店でもホテルでも、どんなところでも柔らかくてあったかい印象の人が多かった。

初日は気仙沼駅前のホテルで宿泊