【3日目】2/25(月)
宮城県
多賀城市
↓
仙台市 若林区(荒浜)
↓
名取市 閖上
↓
仙台市 ひさのとバイバイ、渡辺くんと再会
↓
荒浜
↓
仙台空港
↓
帰阪
最後の3日目です。
岩手県~宮城県沿岸にかけて、車で、しかもほとんど降りずに通り過ぎるだけで3日間かけてまわっても、ほんまにまわりきれん大きな範囲。
どこに行っても同じような景色・同じぐらいの大きな被害。
果てしないように感じた3日間でした。
初めて自分の目で実際に見て、空気に触れて、
あほみたいな話やけど確かに震災は現実世界であったことで、自分と何も変わらん環境で似たような日常生活を送ってた人達が経験したことなんやとじわじわ実感した。
これまでも当然頭ではそう思ってたけど、深く想像することで痛く実感してしまうのが、多分こわかったんやろうと思う。
ひとつひとつの場所や景色、出会った人との会話、全てが衝撃でショックなものやったけど、改めて思うのは、私が今回見たのは、震災から2年を経た姿であるということ。
1年前あるいは震災当初の姿は、もっともっと想像を絶する生々しさやったんやろうなと思う。
自分はそこにいて何も実際に経験してないから、自分の感覚と経験値から一生懸命想像して思いを馳せてみることしかどこまでもできんけど、
一つ一つの場所で、一体ここの人達は、あれほどの経験をどれほどの器で、どんな思いで一身に受け止めてるんやろう、って想像した。
きっと、きれい事やない、地縁とかしがらみとかもいっぱいある中で、人間としてどんな日々を過ごしてるんやろか、とずっと考えてた。
何についても、『現実』って善も悪もなく、何の色もない。ただその現実があるだけ。
実際神様なんておらんから(存在としては肯定するけど)、その「現実」が自分にとって「良い/悪い」とかの「意味づけ」をするんは、結局自分しかおらん。
ほんまにどうしょうもないただの現実が覆いかぶさってきた時って、一体全体それが何なのかも分からんくなって、立ち尽くして絶望してしまったりもすると思う。
月日とまわりの世界・世間だけが、自分たちを置いてどんどん進んでいく感覚もきっとあると思う。
勝手にそんな想像もしてしまうけど、ここの人達は、この場所で与えられた環境で、やっぱり非日常の日常を日々過ごしてるんやなぁと思った。
午前中は仙台市の荒浜沿い~名取市の閖上まで行きました荒浜周辺は、松が所々で並んでるのが目に付きました。
瓦礫の集積所はそこここで目にする。
閖上走ってたら、遠くに見えた大きな黄色い建物。行ってみることにした。
ガードレールの曲がり方で、水の流れ方や激しさを感じた。
遠ーくに中学校が見える。
何かなと思って行ったところは、なんと特別養護老人ホーム(特養)「うらやす」、デイサービス「ときわ」、事業所「ちとせ」って書いてあった。
元々ひさのと私は介護付き高齢者住宅の会社で働いてた同僚やから、こんな偶然ってあるんかと目を疑った。
施設ってもんが普段どんな様子か。ヘルパーさんや職員さんはどんな感じか。
入居者さんである要介護の高齢者…特に特養に入ってるぐらいの人というのはどんな状態で、この規模の施設ならどんなけ入居者数多かったか。
そして高齢者施設で災害が起こったときの、避難や判断の難しさ、どんなに大変でどんなにつらい現場やったやろうかってことがあまりに想像出来すぎて、胸がえぐられるみたいにつらかった。
写真撮るのにものすごく迷って、手が動かんって初めて体験したけど、2枚だけ撮った内部の写真。
普段の様子と避難の様子の想像図が、ものすごい速さで交互に目に浮かんできて、とにかく涙が溢れて止まらんかった。
この日は、前夜に雪が降ってまだ積もってたけど、敷地の入口から新しい足跡が残ってて、そこから続く自動ドアの向こうの玄関に、献花台が作られてました。
帰ってから調べたら、この特養は163人の入居者さんのうち、47人が犠牲になったとのこと。
この結果をどう捉えるか、ここに至るまでのプロセスや現場の方々の判断に、改めて頭が下がり、手を合わせずにはいられない気持ちになった。
施設を背に、後ろを向くとこんな景色。
ずっとずっと家の基礎が並ぶばかりで何もなくなってて、草が生えてる。きっと住宅街で、その中に施設があって、近くには学校があって、っていう地域やったんかなと思う。
残された民家のアプローチが、自分ちと何も変わらんくて、そこにあった生活が浮かんできた。
玄関やった場所に、お人形とお花が置いてある家もありました。
復興支援地図。これを使って、行き先を見つつ走りました。
地図上の水が来た範囲に色がついてたり、主要な建物が書いてある地図でした。
仙台駅近くに戻ってきて、お昼食べてるとこで、今回2つ目の目的やった渡辺くんとの再会
11年ぶりで、嬉しすぎてもしかしたら泣くかもなぁー…と結構本気で思ってたけど、登場時の姿にあまりにびっくりして、涙気分ひっこんだ。笑
なんでも、ボクシングやってたから、減量で13kgも痩せたらしい笑
男前なってた!!笑
ここでちょと喋って、3日間ずっと案内&運転してくれてひさのとはバイバイ。ひさのなしでは実現できなかった今回の旅。ほんまにありがとう。
絶対行きたくて、一番最初に連れてきてもらった国分寺薬師堂。
ここも地震の被害大きくて、瓦もほとんど落ちたらしいけど、きれいになってた。
波こそ来なかったものの、今までの地震とは比べ物にならんほどの揺れで、尋常じゃなかったらしい。
渡辺くんの自宅も、1階部分はめちゃくちゃで、半壊になったとのこと。
去年の東北行きは、直前に彼の事故があってドタキャンしてしまったんやけど、そんときに渡辺くんが、自分も大変やろうに、そっこーここのお守りを送ってきてくれた。
「被災から復興した神社のお守りを、震災でも死ななかった俺が送ってやるから絶対大丈夫だ!」ってゆう手紙付きで。
そんときはまだ彼の意識もなくて、正直目の前のこと以外何も頭にない状態やったけど、その言葉がほんまに心底嬉しくて、死ぬほど救われた。
そこからほどなくして彼の意識が戻って、奇跡みたいな回復につながってる。
やから、今回仙台に来たら絶対にこの神社にお礼参りするって決めてた。
今回唯一自分で決めてた行き先。笑
渡辺くんの車でもっかい荒浜周辺~空港のある岩沼までを案内してもらった。
高速道路が防波堤の役割になって、渡辺くんの家までは波が来んかったらしいけど、もし高速道路がなかったら家まで来てたって。やっぱりそのくらい渡辺くんちは海に近かった。
思えば2年前、この震災に関するニュースで一番最初に目にしたのが「仙台市若林区」。一瞬で渡辺くんの住所やって分かった。
ほんで耳に入ってきたのが「荒浜には200~300とみられる遺体が流れ着いているもよう。。。」というアナウンサーの声。
Googleマップで渡辺くんの住所調べたら近いなんてもんじゃないほど海の側やった。
そっからパニックになったらあかん、とパニック状態で自分に言い聞かせながら必死に連絡とって、何日かしてやっと繋がった。
当時人生でダントツ1番心配&安心して号泣した出来事やった。
まぁその順位はちょうど1年後に見事に塗り替えられたけども。
荒浜は、とにかく遠くの遠くまでずっと見渡せるほど広くて何もなくなってた。
堤防のすぐ側まで行ったけど、そっから海なんか見えんかった。
結構高い堤防らしい。それでも余裕で波が超えてくるって、そら毎日ここで生活してたら全然思わんやろ。
この近くは乗馬クラブがあってな~、馬も皆流されたんだよー。とか、
取引先の人も近所の人も結構亡くなっててな~、とか、
家建てて鍵の引渡しの翌日とか、車買って納車してすぐとかで津波が来た人もいてな~、とか、
仮説住宅も大変だけど、半壊の自宅で生活してる人もいっぱいいてな、そーゆう人は仕方なく住んでんだよ。他に行くとこがないから。とか、
色々話してくれた。
復興なんてまだまだで、見渡す限り、広大な原っぱに住宅の基礎部分がずらっと残っている状況。
残ってる瓦礫もまだたくさんあるけど、それでも瓦礫とか、建物に乗り上げた船・車はほぼ撤去されたので、かなりスッキリしたらしい。
最初は目も当てられなかったからな~。って言って、当初の写真をいくつか見せてくれた。
2階の屋上に乗り上げた船、家の窓から垂れ下がってる、流されてきた色んなもの。。。
その風景と、今自分が見てる風景は、確かに違うものやった。
カメラマンでもない自分が、個人的な観光で来ただけで写真を撮ることに、やっぱり少なからず疑問を持ってたけど、ひさのも渡辺くんも、写真は撮ったほうがいいって言ってくれた。
もちろん軽率なものは問題外やけど、撮って残していかないとどんどん形は変わっていって、それと共に記憶からは忘れられていく。
うちもそう思う。
実際、今回見たものだけでも、確かに頭の中に鮮明に残ってはいるけど、やっぱり写真を見返したら、更に鮮明に思い出す。
何もなくなってしまうと、何もない風景の向こうに、それまでの生活や、あの日何があったのかをただ想像するしかない。
百聞は一見に如かずという言葉どおり、視覚的に脳に入ってきた瞬間、やっぱりものすごい衝撃と実感がわく。
でも、形を残すか残さないかは、被災者心理的にも難しい問題であることは事実で、口出しは出来ないなぁとも思う。
2年経って何を思うか聞いてみたら、一番解決してほしいのは原発だな。っていう答えやった。
宮城はあまり直接的な影響はないけど、これだけ広範囲の被災で何から手をつけていいか分からない中、「原発を将来的にやめる」という決定くらいして、少しでも復興の進展を感じさせてほしい。とのこと。
帰りは仙台空港から帰阪。
渡辺くんのことは遠くからやけど2年間ずっと心配してたし、会ったらいっぱいいっぱい聞きたいことあった。
ほんで、できたら、ちょっとでも力になれたらいいなって思ってた。
のに、ずっと喋ってたけど8割方私の心配と彼の病状の心配やった。
いやいやご家族は元気なのか、困ってるなら何に困ってるのか、そもそも君は一体今どんな日々を過ごしてるねん。。。と思いながら、結局自分の相談ばっかしして、飛行機の時間になってしまった。
うちは果たして会いに来て、少しでも彼のプラスになれたんやろか…とかにわかに思いながら、名残惜しくバイバイして搭乗ゲート入った瞬間に、いきなりお守り渡してくれた。
何かと思えば、国分寺薬師堂のお守り。
私が行きたいって言い出すとは知らず、既に買ってくれてたらしい。
新たにうちの就職祝いと、彼の更なる回復祈願を兼ねて。
いや何でゲート通ってから渡すねん!笑
おかげで思いっきり泣きそうになったのに、後ろ並んでて行かなあかんし、変なプライドと恥ずかしさで泣かれへんかったやん!笑
でも機内で若干めそめそしたやん!笑
こっちが心配して、顔見たくて行ってるのに、逆に心配してくれて、頑張れよ~って言うてくれて、会ってる間も自分の話せんと昔話やらうちの話ばっか聞いてきて。
全てが何も飾らん言葉ばっかりやけど、ほんまにどこまでもあったかい人間やなぁちくしょー、と思った。
なんか渡辺くんの人間性を称えるブログみたいになってるけど、ちょと違う!笑
大層なもんではなく、ただ自分のためにも残そうと思いました。
知識のない状態で、特に目的もなく自分が見てきた事実と感じたことだけを長々と書きました。
長文・乱筆でまとまりのない文章にも関わらず読んでくれた方、ありがとうございます。
もし、読んであまり良い気分がしなかった方がいたらすみません。
この震災で感じること・考えることはほんとにたくさんある。
一方で、今回の旅行に行ったからといって自分の生活が特に大きく変化するわけでもない現実も、感じています。
これからも、友人を大切に思う気持ちをはじめ、自分のできることをしっかりやっていきたいと思います。
VANISHING / 清貴
宮城県
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仙台市 若林区(荒浜)
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仙台市 ひさのとバイバイ、渡辺くんと再会
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帰阪
最後の3日目です。
岩手県~宮城県沿岸にかけて、車で、しかもほとんど降りずに通り過ぎるだけで3日間かけてまわっても、ほんまにまわりきれん大きな範囲。
どこに行っても同じような景色・同じぐらいの大きな被害。
果てしないように感じた3日間でした。
初めて自分の目で実際に見て、空気に触れて、
あほみたいな話やけど確かに震災は現実世界であったことで、自分と何も変わらん環境で似たような日常生活を送ってた人達が経験したことなんやとじわじわ実感した。
これまでも当然頭ではそう思ってたけど、深く想像することで痛く実感してしまうのが、多分こわかったんやろうと思う。
ひとつひとつの場所や景色、出会った人との会話、全てが衝撃でショックなものやったけど、改めて思うのは、私が今回見たのは、震災から2年を経た姿であるということ。
1年前あるいは震災当初の姿は、もっともっと想像を絶する生々しさやったんやろうなと思う。
自分はそこにいて何も実際に経験してないから、自分の感覚と経験値から一生懸命想像して思いを馳せてみることしかどこまでもできんけど、
一つ一つの場所で、一体ここの人達は、あれほどの経験をどれほどの器で、どんな思いで一身に受け止めてるんやろう、って想像した。
きっと、きれい事やない、地縁とかしがらみとかもいっぱいある中で、人間としてどんな日々を過ごしてるんやろか、とずっと考えてた。
何についても、『現実』って善も悪もなく、何の色もない。ただその現実があるだけ。
実際神様なんておらんから(存在としては肯定するけど)、その「現実」が自分にとって「良い/悪い」とかの「意味づけ」をするんは、結局自分しかおらん。
ほんまにどうしょうもないただの現実が覆いかぶさってきた時って、一体全体それが何なのかも分からんくなって、立ち尽くして絶望してしまったりもすると思う。
月日とまわりの世界・世間だけが、自分たちを置いてどんどん進んでいく感覚もきっとあると思う。
勝手にそんな想像もしてしまうけど、ここの人達は、この場所で与えられた環境で、やっぱり非日常の日常を日々過ごしてるんやなぁと思った。
午前中は仙台市の荒浜沿い~名取市の閖上まで行きました荒浜周辺は、松が所々で並んでるのが目に付きました。
瓦礫の集積所はそこここで目にする。
閖上走ってたら、遠くに見えた大きな黄色い建物。行ってみることにした。
ガードレールの曲がり方で、水の流れ方や激しさを感じた。
遠ーくに中学校が見える。
何かなと思って行ったところは、なんと特別養護老人ホーム(特養)「うらやす」、デイサービス「ときわ」、事業所「ちとせ」って書いてあった。
元々ひさのと私は介護付き高齢者住宅の会社で働いてた同僚やから、こんな偶然ってあるんかと目を疑った。
施設ってもんが普段どんな様子か。ヘルパーさんや職員さんはどんな感じか。
入居者さんである要介護の高齢者…特に特養に入ってるぐらいの人というのはどんな状態で、この規模の施設ならどんなけ入居者数多かったか。
そして高齢者施設で災害が起こったときの、避難や判断の難しさ、どんなに大変でどんなにつらい現場やったやろうかってことがあまりに想像出来すぎて、胸がえぐられるみたいにつらかった。
写真撮るのにものすごく迷って、手が動かんって初めて体験したけど、2枚だけ撮った内部の写真。
普段の様子と避難の様子の想像図が、ものすごい速さで交互に目に浮かんできて、とにかく涙が溢れて止まらんかった。
この日は、前夜に雪が降ってまだ積もってたけど、敷地の入口から新しい足跡が残ってて、そこから続く自動ドアの向こうの玄関に、献花台が作られてました。
帰ってから調べたら、この特養は163人の入居者さんのうち、47人が犠牲になったとのこと。
この結果をどう捉えるか、ここに至るまでのプロセスや現場の方々の判断に、改めて頭が下がり、手を合わせずにはいられない気持ちになった。
施設を背に、後ろを向くとこんな景色。
ずっとずっと家の基礎が並ぶばかりで何もなくなってて、草が生えてる。きっと住宅街で、その中に施設があって、近くには学校があって、っていう地域やったんかなと思う。
残された民家のアプローチが、自分ちと何も変わらんくて、そこにあった生活が浮かんできた。
玄関やった場所に、お人形とお花が置いてある家もありました。
復興支援地図。これを使って、行き先を見つつ走りました。
地図上の水が来た範囲に色がついてたり、主要な建物が書いてある地図でした。
仙台駅近くに戻ってきて、お昼食べてるとこで、今回2つ目の目的やった渡辺くんとの再会
11年ぶりで、嬉しすぎてもしかしたら泣くかもなぁー…と結構本気で思ってたけど、登場時の姿にあまりにびっくりして、涙気分ひっこんだ。笑
なんでも、ボクシングやってたから、減量で13kgも痩せたらしい笑
男前なってた!!笑
ここでちょと喋って、3日間ずっと案内&運転してくれてひさのとはバイバイ。ひさのなしでは実現できなかった今回の旅。ほんまにありがとう。
絶対行きたくて、一番最初に連れてきてもらった国分寺薬師堂。
ここも地震の被害大きくて、瓦もほとんど落ちたらしいけど、きれいになってた。
波こそ来なかったものの、今までの地震とは比べ物にならんほどの揺れで、尋常じゃなかったらしい。
渡辺くんの自宅も、1階部分はめちゃくちゃで、半壊になったとのこと。
去年の東北行きは、直前に彼の事故があってドタキャンしてしまったんやけど、そんときに渡辺くんが、自分も大変やろうに、そっこーここのお守りを送ってきてくれた。
「被災から復興した神社のお守りを、震災でも死ななかった俺が送ってやるから絶対大丈夫だ!」ってゆう手紙付きで。
そんときはまだ彼の意識もなくて、正直目の前のこと以外何も頭にない状態やったけど、その言葉がほんまに心底嬉しくて、死ぬほど救われた。
そこからほどなくして彼の意識が戻って、奇跡みたいな回復につながってる。
やから、今回仙台に来たら絶対にこの神社にお礼参りするって決めてた。
今回唯一自分で決めてた行き先。笑
渡辺くんの車でもっかい荒浜周辺~空港のある岩沼までを案内してもらった。
高速道路が防波堤の役割になって、渡辺くんの家までは波が来んかったらしいけど、もし高速道路がなかったら家まで来てたって。やっぱりそのくらい渡辺くんちは海に近かった。
思えば2年前、この震災に関するニュースで一番最初に目にしたのが「仙台市若林区」。一瞬で渡辺くんの住所やって分かった。
ほんで耳に入ってきたのが「荒浜には200~300とみられる遺体が流れ着いているもよう。。。」というアナウンサーの声。
Googleマップで渡辺くんの住所調べたら近いなんてもんじゃないほど海の側やった。
そっからパニックになったらあかん、とパニック状態で自分に言い聞かせながら必死に連絡とって、何日かしてやっと繋がった。
当時人生でダントツ1番心配&安心して号泣した出来事やった。
まぁその順位はちょうど1年後に見事に塗り替えられたけども。
荒浜は、とにかく遠くの遠くまでずっと見渡せるほど広くて何もなくなってた。
堤防のすぐ側まで行ったけど、そっから海なんか見えんかった。
結構高い堤防らしい。それでも余裕で波が超えてくるって、そら毎日ここで生活してたら全然思わんやろ。
この近くは乗馬クラブがあってな~、馬も皆流されたんだよー。とか、
取引先の人も近所の人も結構亡くなっててな~、とか、
家建てて鍵の引渡しの翌日とか、車買って納車してすぐとかで津波が来た人もいてな~、とか、
仮説住宅も大変だけど、半壊の自宅で生活してる人もいっぱいいてな、そーゆう人は仕方なく住んでんだよ。他に行くとこがないから。とか、
色々話してくれた。
復興なんてまだまだで、見渡す限り、広大な原っぱに住宅の基礎部分がずらっと残っている状況。
残ってる瓦礫もまだたくさんあるけど、それでも瓦礫とか、建物に乗り上げた船・車はほぼ撤去されたので、かなりスッキリしたらしい。
最初は目も当てられなかったからな~。って言って、当初の写真をいくつか見せてくれた。
2階の屋上に乗り上げた船、家の窓から垂れ下がってる、流されてきた色んなもの。。。
その風景と、今自分が見てる風景は、確かに違うものやった。
カメラマンでもない自分が、個人的な観光で来ただけで写真を撮ることに、やっぱり少なからず疑問を持ってたけど、ひさのも渡辺くんも、写真は撮ったほうがいいって言ってくれた。
もちろん軽率なものは問題外やけど、撮って残していかないとどんどん形は変わっていって、それと共に記憶からは忘れられていく。
うちもそう思う。
実際、今回見たものだけでも、確かに頭の中に鮮明に残ってはいるけど、やっぱり写真を見返したら、更に鮮明に思い出す。
何もなくなってしまうと、何もない風景の向こうに、それまでの生活や、あの日何があったのかをただ想像するしかない。
百聞は一見に如かずという言葉どおり、視覚的に脳に入ってきた瞬間、やっぱりものすごい衝撃と実感がわく。
でも、形を残すか残さないかは、被災者心理的にも難しい問題であることは事実で、口出しは出来ないなぁとも思う。
2年経って何を思うか聞いてみたら、一番解決してほしいのは原発だな。っていう答えやった。
宮城はあまり直接的な影響はないけど、これだけ広範囲の被災で何から手をつけていいか分からない中、「原発を将来的にやめる」という決定くらいして、少しでも復興の進展を感じさせてほしい。とのこと。
帰りは仙台空港から帰阪。
渡辺くんのことは遠くからやけど2年間ずっと心配してたし、会ったらいっぱいいっぱい聞きたいことあった。
ほんで、できたら、ちょっとでも力になれたらいいなって思ってた。
のに、ずっと喋ってたけど8割方私の心配と彼の病状の心配やった。
いやいやご家族は元気なのか、困ってるなら何に困ってるのか、そもそも君は一体今どんな日々を過ごしてるねん。。。と思いながら、結局自分の相談ばっかしして、飛行機の時間になってしまった。
うちは果たして会いに来て、少しでも彼のプラスになれたんやろか…とかにわかに思いながら、名残惜しくバイバイして搭乗ゲート入った瞬間に、いきなりお守り渡してくれた。
何かと思えば、国分寺薬師堂のお守り。
私が行きたいって言い出すとは知らず、既に買ってくれてたらしい。
新たにうちの就職祝いと、彼の更なる回復祈願を兼ねて。
いや何でゲート通ってから渡すねん!笑
おかげで思いっきり泣きそうになったのに、後ろ並んでて行かなあかんし、変なプライドと恥ずかしさで泣かれへんかったやん!笑
でも機内で若干めそめそしたやん!笑
こっちが心配して、顔見たくて行ってるのに、逆に心配してくれて、頑張れよ~って言うてくれて、会ってる間も自分の話せんと昔話やらうちの話ばっか聞いてきて。
全てが何も飾らん言葉ばっかりやけど、ほんまにどこまでもあったかい人間やなぁちくしょー、と思った。
なんか渡辺くんの人間性を称えるブログみたいになってるけど、ちょと違う!笑
大層なもんではなく、ただ自分のためにも残そうと思いました。
知識のない状態で、特に目的もなく自分が見てきた事実と感じたことだけを長々と書きました。
長文・乱筆でまとまりのない文章にも関わらず読んでくれた方、ありがとうございます。
もし、読んであまり良い気分がしなかった方がいたらすみません。
この震災で感じること・考えることはほんとにたくさんある。
一方で、今回の旅行に行ったからといって自分の生活が特に大きく変化するわけでもない現実も、感じています。
これからも、友人を大切に思う気持ちをはじめ、自分のできることをしっかりやっていきたいと思います。
VANISHING / 清貴