川越遺跡全景(の一部)
江戸時代「越すに越されぬ」とまで言われた大井川。
これは、当時の政府の政略でした。
幕府の敵が容易に江戸へ攻めてこられないよう、様々な政策をしました。
でも、よくよく見ると「敵」は、大阪か京都を設定していたようです。
新居や箱根などに設けられた「関所」は、人々の通行を監視し、
川は人々の通行を妨害しました。
江戸時代、特別許可によって、橋を架けた川もありましたが、
川に橋をかけることが禁じられていました。
大きな川の多くは船により渡しが行われていましたが、
船の使用が禁じられている川もありました。
その中に大井川が含まれています。
また、冬場になると多くの川に仮橋が架けられました。
しかし、大井川では仮橋を架けることも禁じられていました。
大井川を渡るときは、川越人足たちに頼みます。
まず、川会所に行って、渡しを頼み、代金を払います。
代金は川会所の役人が、川の深さを測って決めました。
代金に換わって木札が渡され、それを番宿で待機する人足に渡し、川を渡してもらいます。
番宿(六番宿)
番宿の人足レプリカ。
人足はその川札を札場でお金に替えました。
川を渡るのには蓮台や肩車などの方法がありました。
島田宿側の川越場の様子。
島田市博物館
島田市博物館別館
せき跡
あさがおの松公園(浄瑠璃『朝顔日記』に由来する伝説にちなんでいます)
川越茶屋
大井川を渡った金谷側にはあまり遺跡が残っていませんでした。
※私は未確認の情報ですが
川越茶屋では、木曜日に半額になるようです。