「士 サムライ―天下太平を支えた人びと―」 江戸東京博物館

江戸東京博物館
「士 サムライ―天下太平を支えた人びと―」
2019/9/14~11/4



江戸東京博物館で開催中の「士 サムライ―天下太平を支えた人びと―」のプレス内覧会に参加してきました。

昨今、日本の1つの象徴的な存在として扱われることも少なくないサムライ。しかし武士や浪人、そして文字通り侍には、漠然としたイメージこそ思い浮かびながらも、どのように暮らし、また仕事をしていたのかなどは、必ずしも良く知られているとは言えません。

そうした主に江戸時代のサムライに関する絵画、資料、古写真、道具類が、約200点(展示替えあり)もまとめて江戸東京博物館へとやって来ました。


「関ヶ原合戦図屏風」 嘉永7(1854)年 関ヶ原町歴史民俗資料館

はじまりは江戸前史、歴史を決定付ける天下分け目の戦いを舞台とした「関ヶ原合戦図屏風」でした。六曲一双の大画面には両軍入り乱れて戦うサムライの姿が描かれていて、旗や馬印などによって、それぞれの部隊の動きなども細かに表されていました。まさに関ヶ原による武功こそが江戸時代の大名の起点でもあったため、それを記録するためか、数多くの屏風や絵巻が制作されました。


「陣備図 大御先鋒日之丸御備」 江戸時代中期 徳川林政史研究所

江戸時代の軍団を伝える驚くべき巨大な資料に目を奪われました。それが「陣備図 大御先鋒日之丸御備」で、全18種にも及ぶ軍団の陣容を10帖もの折本にて俯瞰的に表した作品でした。あまりにも大きいために一目で全体を捉えることは叶いませんが、おそらくは寛政時代の尾張徳川家の軍制改革の際に成立したと伝えられています。


右:「薩摩藩の役人」 フェリーチェ・ベアト撮影 1863~1870年頃 個人蔵

江戸の街並みや人々の姿をリアルに伝える古写真も見どころかもしれません。文久3年に来日した写真家のフェリーチェ・ベアトは、日本各地の風景を撮影していて、中には薩摩藩の役人や江戸の夜警など、当時の武士の姿を克明に捉えていました。何気ない表情など、人々の息遣いを肌で感じられる作品と言えそうです。

さて江戸時代に入って戦乱が終わり、いわゆる太平の世が訪れると、サムライたちは城下町に定住し、いわゆる行政官僚、つまり役人としての仕事を果たすことになりました。


右下:「大熊善太郎所用軍扇」 幕末 江戸東京博物館

うち旗本御家人とは、将軍に仕える家臣のうち禄高1万石未満の者のことで、そうした御家人らが実際に所用した陣羽織や扇、儀礼服なども出展されていました。


左:「朱房付十手」 江戸時代後期 江戸東京博物館

時代劇でお馴染みの十手も目を引きました。町奉行の与力は、長さ30センチほどの真鍮製と、それより長い鉄製の十手を持っていて、捕物の現場では後者を用いつつ、前者は身分を示すためのものとして使っていました。


左:「紺絲威胴丸」 遠山景元所用 江戸時代中期 靖國神社遊就館

今も有名な個々のサムライに関した資料展示も見過ごせません。このうち江戸の町奉行の大岡忠相は、菩提寺に伝わる煙草盆や自筆の家訓、そして同じく町奉行で遠山の金さんこと遠山景元では、子孫に残された具足などが展示されていました。


下:「火事図巻」 長谷川雪堤模 文政9(1826)年 江戸東京博物館

火災や洪水が発生した江戸において、災害時に出動し、被害拡大に尽力したのがサムライたちでした。火災では幕府の定火消や大名火消、そして水災では町奉行所の与力や同心がともに出動し、町火消しや船運業者と協力して災害に対処しました。いわば現代における災害レスキュー隊の役割を果たしていたのかもしれません。


「白羅紗地桐紋入火事装束」 幕末〜明治時代初期 江戸東京博物館

火事場を指揮するために着用した火事装束が思いの外にゴージャスでした。羽織、胸当、兜頭巾などからなる一式で、 生地には熱に強い毛織りなども用いられていました。戦のない時代においてサムライは、甲冑に代わる存在として、こうした火事装束を尊んでいた面もあったそうです。自らの威容を高める意味もあったのかもしれません。


「江戸幕府所持船図巻」 江戸時代後期 江戸東京博物館

「江戸幕府所持船図巻」は、御座船や天地丸など、幕府が所持する船を描いた絵巻で、水害時には被災者の渡川を援助したり、流出物の撤去作業にあたりました。火事が頻繁に起こったこと知られる江戸は、実は水害にも多く見舞われていて、暴風雨の後は地盤の低い地域を中心に浸水の被害を受けました。約250年の間に、100回以上も洪水が発生した記録も残されています。


「川崎平右衛門 肖像画」(複製) 府中市郷土の森博物館

身分が固定化していた時代ではありましたが、サムライと町人、そして百姓の間は、何も全て断絶していたわけではありませんでした。中でも興味深いのは、武蔵国の多摩の名主出身の川崎平右衛門なる人物で、幕府に才覚を見出されては新田の経営などにあたり、後には代官として美濃や石見の幕領支配にも携わるなどサムライとしても活動しました。もちろん苗字の使用と帯刀も許されました。


左:「萌葱羅紗地 レクション羽織」 幕末 江戸東京博物館

江戸時代のサムライの様相を変化させた切っ掛けの1つが、ペリー来航より開国、開港へと至った、幕末にかけての対外政策でした。幕府は西洋式の軍制を目指し、洋装を影響を受けた羽織や、西洋風の隊列行進に使われた太鼓などを導入し、サムライの戦いのあり方を変えました。


「午砲」 幕末 江戸東京たてもの園 

幕末の江戸湾を警護するための火砲も目立っていたかもしれません。なおこの火砲は維新後の明治4年、皇居の本丸跡に移され、正午を知らせる時報として用いられました。以来、東京の人々は「午砲」として親しんでいたそうです。

この他、幕末の外交使節団が、サンクトペテルブルクで撮影した肖像写真も見どころではないでしょうか。いずれもプラチナ・プリントに焼き付けられたためか、驚くほどに保存状態が良好で、単に歴史資料というよりも、個々の写真作品として魅力的でした。サムライの人となりが臨場感をもって伝わってきました。


「松平忠礼を囲む写場」 慶応年間(1865〜1868) 東京都写真美術館

勇壮な甲冑や美しい刀がたくさん並んでいるわけではありませんが、サムライたちの日常生活を見据え、資料などで丹念に浮き彫りにした展示と言えるかもしれません。実際のところ文献資料が想像以上に多く、かなり読ませる展覧会でした。


「山岡鉄舟佩刀 銘家吉」 金沢市立玉川図書館近世資料館

最後に展示替えの情報です。10月7日を挟んで一部の作品が入れ替わりました。10月8日からは後期展示に入り、会期末までの入れ替えはありません。(本記事は前期展示の内容に沿っています。)


徳川黎明会の「鷹狩図巻」と徳川美術館の「鷹狩図屏風」の2点の鷹狩を描いた作品にも目を見張りました。とりわけ後者では大名一行と思しき鷹狩りの光景を実に生き生きと描いていて、画面を覗き込むと、犬の鳴き声や人々の掛け声などが聞こえるかのようでした。



11月4日まで開催されています。

「士 サムライ―天下太平を支えた人びと―」 江戸東京博物館@edohakugibochan
会期:2019年9月14日(土)~11月4日(月)
時間:9:30~17:30
 *毎週土曜は19:30まで開館。
 *入館は閉館の30分前まで。
休館:月曜日。但し9月16日、23日、10月14日、11月4日は開館。9月24日(火)、10月15日(火)は休館。
料金:一般1100(880)円、大学・専門学生880(700)円、小学・中学・高校生・65歳以上550(440)円。
 *( )は20名以上の団体料金。
 *常設展との共通券あり
 *毎月第3水曜日(シルバーデー)は65歳以上が無料。
住所:墨田区横網1-4-1
交通:JR総武線両国駅西口徒歩3分、都営地下鉄大江戸線両国駅A4出口徒歩1分。

注)写真は報道内覧会の際に主催者の許可を得て撮影したものです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 「黄瀬戸・瀬... 「没後90年記... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。