「ヴィデオを待ちながら」 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館千代田区北の丸公園3-1
「ヴィデオを待ちながら - 映像、60年代から今日へ - 」
3/31-6/7



1960年代より70年にかけて制作された、いわゆる『ヴィデオ・アート』の源流をひも解きます。東京国立近代美術館で開催中の「ヴィデオを待ちながら - 映像、60年代から今日へ - 」へ行ってきました。



実のところ、前もって下調べもせず、漠然と映像メディアの展覧会という気持ちのみで会場へと足を運びましたが、そのイメージは非常に良い意味で裏切られました。秀逸な展覧会です。以下3点、展示で成功していると思われるポイントを抜き出してみました。

1.60年代から70年代という、映像メディア黎明期の作品のみに焦点を絞ったこと。→時代性がダイレクトに伝わってくる。
2.ベニヤ台の上のブラウン管モニターが点々と並ぶという『景色』そのものが、統一感にも長けたインスタレーションとして見るべきところがあったこと。→『古びている』はずの映像アートが、簡素な空間ながらも『今』の場に置き換えて体験しているような気分を味わえた。
3.「鏡と反映」や「フレームの拡張」と言った5つのテーマが、難解になり過ぎずに個々の作品の魅力を引き出していたこと。→去年の回文展(わたしいまめまいしたわ)の反省もあったのかもしれない。設定テーマに無理がなかった。



それではいくつか印象に残った作品を挙げます。

アンディ・ウォーホル「アウター・アンド・インナー・スペース」(1965年)
最初のヴィデオ・アートとも言われるスクリーン投影の記念碑的作品です。ウォーホルお気に入りの女優を左右のスクリーンに並べ、左に過去、右に現在と二つの位相でそのドラマを描きます。その手法はまさに彼の「分裂」の絵画と同じでした。(*)

ヴィト・アコンチ「センターズ」(1971)
20分間ひたすら画面の中心を指差し続けます。バカバカしさ全開ながらも、呪いでもかけられているような気分を楽しめました。

ヴァリー・エクスポート「家族に向き合う」(1971)
何やら談笑しながらこちらを見やる家族が映されています。実はTVドラマを見る彼らをこちらから見ているという仕掛けでした。見ると見られるの関係を古典に問いただします。

野村仁「毎日10分間、本屋のTVに写るN」(1971)
Nは野村、ようは本屋の監視カメラに映り続ける作家本人を捉えた映像です。発表当時、それをモニター室で観客が見ると言うパフォーマンスが行われました。かの時代的な空気を感じます。

ジョアン・ジョナス「ヴァーティカル・ロール」(1972)
カメラとモニターの信号周波数の差異を利用した作品です。映された本人の身体が、拍子木の音をリズムに、映像のブレの動きとともに上下していました。モニター自体が手段でなく、その素材となり得た作品と言えるのではないでしょうか。

ダン・グレアム「向き合った鏡と時差を持つヴィデオ・モニター」(1974)
映像と鏡を用いた大掛かりなインスタレーションです。左右の二面の鏡と二台のモニターが、映り込む観客自体を何層もの次元に分断して提示します。空間と時間の感覚を揺さぶられました。

ペーター・フィシュリ+ダヴィット・ヴァイス「事の次第」(1986-87)
ドミノ倒しの日用品バージョンです。タイヤやバケツなどのどこにでもある物品が、上から落ち、また水を流し、また転がり行くようにして次々と動き、展開します。一見、澱みなく時間が進んでいるようにも思えましたが、実は随所にカットが仕掛けられていました。映像の一種のフェイク的な要素が示されていた作品です。

なお泉太郎が会場の一部を用い、これらのかつての映像作品を遊ぶかのようにして自作のインスタレーションを手がけています。



繰り返しにもなりますが、何かと『退屈・難解・意味不明』と捉えがちのヴィデオ・アートを、分かりやすい構成と効果的な展示方法で紹介することに成功した展覧会と言えるのではないでしょうか。集客は始めから期待されていないのでしょうが、映像アートに苦手な方にも『体験』していただきたいと思いました。

ヴィデオを待ちながら/Waiting for Video: Works From the 1960s To Today


会期は迫っていますが、密かに強力にプッシュします。6月7日までの開催です。

*この作品だけは上映時間が限られています。10:30,12:00,13:30,15:00,16:25,17:45,19:00(17:45以降は金曜のみ。)

(追記:一度アップした本エントリに表示上の不具合がありました。再度訂正して掲載します。失礼しました。)
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