はりせんぼん

今は調査員のお仕事をしている、もと看護師。最近、お勉強不足、渇を入れてやってください。

チョコレート工場

2009-02-13 12:10:07 | 日記
 明日はバレンタインディで、昨日の我が家はチョコレート工場でした。チョコレートを作っているのは娘で、誰にあげるのかと聞けば、「友チョコ」とのこと。幾枚もの板チョコが鍋に掛けられ、大量の生チョコが作られていきました。
 「明日学校で渡すの」。だったら、建国記念日に作成すればよいものを、学校から帰宅して、夕食を済ませてから取りかかるのんびりものの娘です。そのくせ、きちんとしなくては気が済まず、目標数のチョコレートができたのは午前2時。娘は瞬く間に寝入ってしまいましたが、わたしはそれから入浴、あれやこれやの片付けをして床についたのは3時。さすがに眠い……。
 それなのに、娘は朝シャッキリ起きあがります。手提げいっぱいの「友チョコ」を意気揚々と下げ登校。ああ、こういうのを若さというのでしょう。

 さて、このブログ。丸4年が経過しました。書いて書いて書きまくったと言えばそのような、そのくせ稚拙で言いっ放しの悪癖も(トゲトゲ……)。とはいえ、たくさんの人に出会い刺激を受け、時節の流れに影響されながらここまでこれたのは、ひとえに皆様のご支援あってのことと感謝いたしております。

 一方で、ここらで潮を見る時間を得たい気持ちがあります。いずれの潮流に乗るか、抗うか。ちょっと時間をおいて漕ぎ出す向きを探したいと思います。しばらく休憩と言えばそのような、長らくお休みと言えばそのような。この先のことは決めずに、チョコレート工場を駆動させるつもりです。娘のように意気揚々と手提げいっぱいのチョコができたとき、また再開したいと思います。

 どうぞ、皆様におきましてはお元気であられますように。そして、ますますご活躍くださいますように、文中ながらお祈り申し上げます。
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ちぐはぐな身体(鷲田清一、2005年、筑摩書房より)

2009-02-10 14:18:02 | 自分の感受性くらい
 ……ロナルド・D・レインという精神医学者は、人は「自分の行動が〈意味〉するところを他者に知られることによって、つまり彼のそうした行動が他者に及ぼす〈効果〉によって、自分が何者であるかを教えられる」と言っている。つまり、ぼくがぼくでありうるためには、ぼくは他の〈わたし〉の世界のなかにある一つの場所を盛っていなければならないということだ。それが他者の他者としてのじぶんの存在ということである。
 (中略)
 ……そういう他者としてのじぶんの存在が欠損しているとき、僕らは、他者にとって意味あるものとしてじぶんを経験できない。
 (中略)
 ……このことは、自他の相互的な関係だけでなく、教える/教えられるという関係、看護する/看護されるという関係のように、一見一方通行的な関係についてもいえる。教師も看護師も、教育や看護の現場でまさに他者へと関わっていくのであり、そのかぎりで他者からの逆規定を受け、さらにそのかぎりでそれぞれの〈わたし〉の自己同一性を補強してもらっているはずなのだ。ところがここで、「教えてあげる」「世話してあげる」という意識がこっそり忍び込んできて、自分は生徒や患者という他者たちの関係をもたなくても〈わたし〉でありうるいう錯覚にとらわれてしまう。そしてその時、〈わたし〉の経験から他者が遠のいていく。
が、たとえ一方通行な関係であっても、自他はどこまでも相互補完的なものだ。生徒を規定しない教師はいないし、教師を規定しない生徒もいない。とすれば、「先生はぼくらがいるところでもいないところでもいつも同じ態度だ」と感じさせる立派な先生よりも、点数のつけまちがえをしたり、遅刻をして生徒をいらいらさせる欠点だらけの先生に習うほうがあるいは幸福なのかもしれない。すべてをそつなく正確にこなす看護師さんよりも、注射の針をなかなかうまく刺し込めない看護師さん、食事や検温の時間を忘れたり食器を落としたりしたりと、どじばかりしている看護師さんのほうが、患者にとってはありがたいかもしれない。なぜなら、そのような先生や看護師さんは、生徒や患者をたえず心配にさせたり、怒らせたり、疑心暗鬼にしたりすることによって、自分を他者にとって意味のあるものとして経験させてくれるから。(p132-134)

 完璧な介護看護を提供しようと職員側は躍起になるものですが、そればかりがケアではないかもしれませんね。お互いにお互いが生きている、そうした喜びの「感覚」がどこで惹起されるのか。ちょっと振り返ってみると、別の地平線が見えるかもしれないと感じました。
 ちなみに、ちぐはぐな身体の後、刊行された「聞くことの力」ではこうした考えがさらに強化され、複雑化された襞(ひだ)をもって、ある固まりとして魂に語りかけてきます。誰の目でケアを見るかという問題に絡み合って、そもそもケアとは誰のものかという根源的な……けれども答えのない……問題へと思考を誘い、そのくせ柔らかな読後感を与えてくれる本でした。
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一回忌

2009-02-09 19:37:16 | 生きることと死ぬこと
 叔母が身罷ってからやがて一年が経ちます。土曜日はその一回忌に出向きました。白いビルが浮き上がって見えるような好天で、どうしてこんなに空は青かったのだろうと、駅に着くなり涙していました。
 読経が行われ、それぞれに焼香し、会食をしました。長い法要と長い会食でした。法要は叔母の遺言で寺に寄付をしたことの御礼、といった感じでした。会食はひどく間隔を置いて品が出てくるので、長かったというのが正解なのですが、もう今生の別れになるやもしれぬとの遠い縁に集った人も多々。その長さがどれほど貴重なものだったことでしょう。
 90歳を超えたご婦人はこの日のために、匂い袋に、ネックウォーマー、巾着などをつくってこられていました。それぞれ、精を出しても丸3日はかかる作業だったとか。どんな思いでここに来られたのかと思いました。
 それぞれに病気にさいなまされていたり、この不景気で悩みを抱えながら、故人を偲び、今生きていることを尊んでいる感じでした。時々涙ぐんでいたのは私だけで、「あんたさんは奥さまやのう」などとからかわれました。もうたくさんの人をみな送ってきて、それが故に今生きていることや生かされていることに感謝しているようだったのです。
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学び(その2/2)

2009-02-06 08:26:50 | 不自由な言葉
 先の暗黙知の話に通ずるものもあります。臨床とは、教科書に書いてあったことが通用しない場所でもあります。たとえば、80%の人には通用します。でも、残り20%の人にはそうならない。そのあたりの認識を持って、残り20%の人へのアプローチを考えられるのが臨床家の醍醐味、暗黙知でもあると思うのです。そこに、こういう工夫をしたらうまくいった/だめだった。こういう理屈で新認識を持てる/持てない。……等という発想が加味されて、暗黙知が臨床の知恵として定着するのではないでしょうか。

 だからこそ、知らない風を入れる機会を持たなければ、暗黙知は暗黙知のまま、何ら検証を受けず、時に偏った理解に発展する可能性すらあります。そうした自覚を持てるかどうかは、専門職にとっての重要課題だと考えます。
 あるいは、学びを組織としても、個々人としても保証していくためには、自覚を促すシステムも必要かもしれません。たとえば、糖尿病療養指導士のように更新制にしたり、保険点数への反映を考慮したり、医師以外の分野でも活躍する人を支持できるシステム作りは必須と思います。よりよい未来へ、何ができるのか頭をひねる分岐点にきていると思うのは、私だけでしょうか。
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 えらそうなことを書きました。本当はこうしてベラベラと某氏に話したのです。某氏は「おお、あなたのご専門は看護でしたね。道理で注射が痛い」と述べていました。「あら、上手なナースが刺せばあまり痛まないものですのに」とすぐさま口答え。この性格だけはいつまで経っても学びが足りないようです。ええ、もう40年間は修行していますけれど。それが何か??
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学び(その1/2)

2009-02-05 22:02:19 | 不自由な言葉
 臨床の知恵は暗黙知にあふれていると友人が言いました。こういう場合はたいがいこうなるのだという感覚的了解、それが、臨床科としてのセンスだとも。別の友人はそれを経験と言います。どちらも正解なのだろうと思います。
 一方で、暗黙知は言葉にしにくい分、同僚や第三者への伝達が難しく、同じようなミスが重なる事態を生み続けてきました。そこで、言葉にする努力が生まれてくるのですが、ひとつ一つに専門的ネーミングをすると、知識の排他性が高くなってしまいます。もとよりケアを受ける対象は市井の人なのですから、知識伝達の支障は患者や利用者の疎外感を生んできたように感じます。

 そうした現場の苦しみをできるだけ解消するために研究職の活躍が期待できます。それは、全国的な学会でのコメントや、地域的な研修会での対話による交流により、相互発展的な展開が得られるべく努力されてきたと思います。実際、看護を専攻する人の卒後教育熱は高いらしく、地元の本屋も舌を巻くほどです。

 ところが、その他の業種では研修のドーナツ化現象が起きているとか。熱心に講習等に参加するのは中高年と卒後3から5年未満の若者。その間の、一番臨床知を身につけられる世代が研修を受けない傾向が近年高まっているとか。卒後すぐには自分のスタンスを決めるための参加なのでしょう。そして、その後の参加が不況なのは、講習会の参加費(病院等による研修助成金のカットも含む)、休みの取りづらさ、ワークライフバランス思考による家庭生活への軸足の移動、といろいろなことが考えられそうです。

 でも、総じて言えば、「もったいないなあ」と思います。たとえば、大学でケアを学ぶこと4年。その先、就業してケアを提供すること40年です。40年間の学びは大きな資産です。どんなことでもよいので、こつこつと学ぶ努力が専門性に磨きをかけると思うのです。
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ネットワーク

2009-02-04 11:19:36 | 患者として
 未だに足の病院に通っています。症状が出て、やがて1年になりますので、こういうときに増悪するとか、こういうときによくなるとか、思うようになりました。でも、そんなことが書いてある文献にはであいません。一人で悩んでいても仕方がないと、主治医に確認すると、「ああ、そういうことを言う同僚がいますね」とか。文献は?と聞くと、「そういうことを言う患者さんがいる、という医者がいるという話です」との回答(早口言葉にしたら躓きそう……)。

 もったいないなあと思いました。私は自分の症状を勝手に関連づけているだけかもしれません。それでも、患者からの情報が関連づけられていかないネットワークあり方は残念です。「へ~、君のところにもそんなこと言う患者さんいたの?」と宴会か何かでさえ語り合われない。じゃあ、患者が提供する情報って何だろうなと思うのです。情報提供は患者ができる医療貢献のひとつと思うのですから。

 開業医レベルでは類似の事例に遭遇する可能性は少ないかもしれません。また、一人一人の訴えは千差万別であって、類似の情報を得ることに意義を感じない。そういう方もいらっしゃるかもしれません。でも、類似の情報を収集することは治療体系を作る上で欠かすことのできない条件でもあります。一人の医師にしろとはいいません。途方もない予算も時間も必要ですから。でも、何らかのネットワークがあれば、救済できる人が増える可能性を感じます。良い知恵はないでしょうか。
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 こんなに春の陽気……3月中旬のような……なのに、未だ葦は角ぐまず。川面のなんと寒いことでしょう。
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スノードロップ

2009-02-03 13:53:29 | 雑記
 高校生の時、「球根植物」なる本を買いました。世界中にはこんな栽培球根植物があるのですよ。開花するとこんな具合で、球根の形状はこうなっています。そんな内容だったのですが、画像はみな白黒でした。
 したがって、花弁の質感はこんなんで、花の色のバリエーションは何色あって、品種改良の中心になっているのはどこの国で、どのような形態に向かおうとしているのか、そんなことまで文章で記載されていました。

 その本の中で特に目を引いたのが、スノードロップでした。まだ日本で栽培数が少なく高嶺の花とのこと。欲しくてたまらないのに、手が出ない。そのことが残念でなりませんでした。

 ところが、その1年後、園芸店で目玉商品としてスノードロップが売り出されたのです。少ないお小遣いをはたいて買いました。真新しい陶製の鉢に入れ大切に育てました。立春を過ぎた頃、小さな芽が出てきました。日を置かずして白いつぼみが出て、花が咲きました。家族全員でそれを愛でました。
 それから、もうウン十年も経っているのですが、未だにスノードロップを育てています。

 そうそう、近くの病院にもスノードロップの生け垣がありました。タクシーの運転手が、「咲いているよ」と教えてくれたのです。「これが咲くと春が来るんだ」と言いました。去年は2月中旬、一昨年は3月中旬に開花したその花は、今年は1月下旬に咲いていました。早く来すぎた春に、どこか落ち着きなさを感じながら、沸き出でる感慨を押さえきれない、そんな一花なのです。
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勉強

2009-02-02 11:54:37 | 日記
 この正月、「お姉さんの知識は古い」と弟妹に馬鹿にされました。お題は産婦人科学。「プレマリンを知らないなんて潜りよ」とか何とか。「それってエストロゲン? それともプロゲストロン? あるいはその上位のホルモンに作用するの?」と質問すると、「煙に巻かないでよ」とか……。後に結合型のエストロゲンとわかったのですが、薬の名前を知らないというのもまた不自由な話です。

 その後CO2ナルコーシスについて調べていて、あらまあ、ということがありました。あれこれと教科書も見てみたのですが、臨床理解への応用となると全くなっていませんでした。ショック……。

 糖尿病についての文献を読めば、知らない遺伝子の名前とか作用物質の名前が満載されていて、ギャフンとなります。今は分子生物学的分析がいっぱいなのですね。「わからない……」。と、例の愚息君が突っ込みを入れるのです、「わかろうとしていないのか、わからないのか、はっきりしろよ」

 学びたいと思うことができたら、学ぶ心を持たねばなりませんね。記憶力の減退した頭でも、やっぱり勉強しないと取り残されちゃうような、そんな気分になりました。ああ……。
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