はりせんぼん

今は調査員のお仕事をしている、もと看護師。最近、お勉強不足、渇を入れてやってください。

してあげたいことと、して欲しいこと(その余録・長い?)

2008-07-31 00:04:02 | 不自由な言葉
 介護がどう語られるかは、今日的問題と感じています。介護現場から遠くなった私にとって、多分、「こういうことができます」と語ってくれることが、一番安定した印象を、与えると思われるのです。

 ところが、それが難しい現実があると思います。一つは、3K、介護保険料高騰などのネガティブなイメージです。これらの強力なイメージを打破し、その本質を伝えるのは並大抵ではないでしょう。もう一つは、認知症利用者の増大です。この問題は難しいですね。一言で言えば、本来ならば、できると表現したい技能レベルを、そう表現できかねる現実が覆っている、となりましょうか。
 認知症利用者は、予測不可能な反応が多く、ケアは試行錯誤しつつ環境を整えることが中心的課題の一つと言えます。環境を整えても、想像を超えた反応や無反応に、しばしば翻弄されます。
 加えて、そこでの実践は、上手くいっても、失敗しても、他の利用者への応用が難しく、均質性を持つ、あるいは、再現可能な臨床知とはなりがたいと思うのです。
ですから、判で押したようなケアはあり得ないし、試行錯誤がものを言う側面があると感じます。その側面に対して、祈り、願う心情がケアをたしかに支えているとしても、誤解(聖職者集団のつぶやき?)させやすい言葉だとは先に記した通りです。かといって、あまりにドラマチックな語も誤解を呼びそうです。

となると、認知症当事者の声を集めることで、実践を開示する方法はよい方法となり得ましょう。当事者運動ともリンクしますし、ケアの主体が実は介護者ではなく、意思を持った利用者となり、して欲しいが前面に出たウェーブとなります。これも魅力です。

 それでもなお、意思疎通の難しい人との対峙が残ります。アクティブな期間が過ぎれば、本当はどうして欲しいのか、何が安楽なのかも見えにくくなります。仕方がないので、元気だったことの本人を思い浮かべたり、自分の気持ちを参照してケアをします。
 けれども、そうした実践を良しと認めてくれる人がなかなかいません。社会に承認を求めても漠とした答えが返ってくるだけ。無反応の時もあります。
 認知症の死に関する問題も、家族を含め百人百様の対応が必要です。ですから、臨床知の共有は多岐にわたり、難しいことでしょう。加えて、延命に対する世論の攻勢に変化が出始めています。認知症のある人の死とは何か。そんなことも問われるでしょうし、ある種の攻撃を受ける可能性があります。
 ということは、それらのケアを人々に伝えること、よい意味で了解して頂くためのハードルが高いと思われるのです。

 そうであるからこそ、そうした現状を飾らずに語るだけでも職能的価値を伝えることにはなると感じています。知ってもらうために語る。人々が、そこに価値を認めるまで語り続けてくれればよいと思います。どんな専門職でも、そうしてきたように。
 もっとも、言葉を選んだり、ある程度のかたまり(mass)として、現場をとらえた表現、論理的な、統計学的な研究も、有用だと思うのです。社会学や経済学、看護学、公衆衛生学や倫理学の研究者とのタイアップも悪くないと思います。それが、現場に多元的な語り、言葉、思考を与えてくれることを、私は望んでいます。知りたい人にとって理解できる、職能領域の涵養のためにも、きっと役立つと思っています。。

 拙稿は反応の乏しい利用者、重い認知症者をほとんど想定してきませんでした。言葉のない世界で何が起こっているのか、そこを十分考察したものではありませんでした。介護が意思による相互行為であることを書くことに焦点がありました。相互行為という意味では、してあげたいとか、して欲しいという言葉は象徴的だと思い、このタイトルで書き進めてみました。
 ところが、意思疎通の乏しいものに対する配慮が足らず、その意味で現実離れした内容を伴いました。ご指摘があるまで、そこに気がつきませんでした。したがって、本余録はその補足を書きました。ご指摘は、思考を深めるよいきっかけになりました。ありがたいことだと感じています。
 またまた長く、恐縮。ご精読、ありがとうございました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

してあげたいことと、して欲しいこと(その14・終章2/2・未来へ開く)

2008-07-30 00:19:00 | 不自由な言葉
 介護職の実績を作る。そのためには、何ができるのか。その部分をもっとふくらませる。実績を表現する。それに協力してくれる誰と連携すれば、立場をよりよく人々に認知させるのに役立つ。そんなことを、より追い求める時期に来ていると思う。

 先の彼女はまだ話している。祈りとか願いとか、そういう次元が究極の姿勢だと言っていた。まるで、身を削って働いていると言わんばかりであった。

 身を削る思いで働いた。それが過去形であるならば、事実として容認できる。だが、いつも身を削ることが予定されていては、すでに、未来への余剰はない職種と証明しているようだ。
 あるいは、ケアの中で祈りや願いが重要な位置を占めていることは事実なのだろう。だが、それがなぜ重要かを十分説明せずに語れば、祈ることなんて誰にだってできると反感を呼んでしまう。ならば、伝わる言葉として表現するのがよいのだろう、と思う。

 ……確かに、してあげたいは、人受け(職員・利用者・家族受け)のよい言葉ではない。だが、この時期の介護にとって、重要な意味があると私は思う。それは、専門職として、できることに裏打ちされた自負の言葉であり、価値を表す言葉であろうと思うから。
 世論が3Kを声高に主唱すればするほど、介護の実践内容が見えににくくなってしまう。ならば、今必要なのは、何よりも、未来を取り結ぶ表現ではないだろうか。

 彼女は去っていった。よい聞き手を選べなかったといった表情であった。そうじゃないだろう。私は思う。

 未来へ。介護はどのような足跡を残せるのだろう。足跡は後付け評価には違いない。けれども、介護保険施行から、やがて10年が経つ。様々な、調査データも出始める頃だ。その先の10年に向け、どんな一歩を踏み出せるか。どんな表現ができるのか。試練の時であろう。彼女の背中に、そっと声をかけてみた。
----------
 長々書いたので(蛇足を含めると1万字超)、煙に巻かれた、論点が不明確などの誹りはあることでしょう。事実、相互行為が困難な事例に対する視点の欠損のご指摘に、後半部分にブレが生じました。そんな程度の机上の思考だから、試案ぐらいに思ってくだされば幸いです(そんなことは冒頭に書くべきですね、ごめんなさい)。
 けれども、介護職の未来を祈っていることに事実なのです。その部分の一縷でもくみ取ってもらえれば、幸甚と言って過言ではありません。長らく、ありがとうございました。
----------
 「長らく、ありがとうございました」と書きながら、明日は余録、明後日は蛇足を記します。しつこいですね。……。しかも、余録で完成かと思っていたり……。でもね、この年になると、性格は変わらないのだと、開き直っています? もっと端的に、もっと短く書くノウハウ、お勉強したいです。真剣に。ごめんなさい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

してあげたいことと、して欲しいこと(その13・終章1/2・危機感)

2008-07-29 00:08:29 | 不自由な言葉
 昨今の厳しい介護保険の状況の中で、介護職の労働問題が提起された。この問題は一時期メディアを賑わした。
 ……こんなにひどい労働環境で、ここまで献身的に頑張っているのです。だから、せめて、お給料を上げて下さい……。
 けれども、介護職はなにをできる人なのか。その部分は、3Kなどという言葉にすり替わり、献身が謳われた構図と感じた。私は、そこに危機感を持った。
 結果的に、そういう図式をメディアが演出することで、献身が介護の有償労働Paid-work のうちとの印象を持ったのは私だけだろうか。これを、無償労働Unpaid-work あるいは、感情労働と言い換えたところで、献身を強調される職業に、就業希望者がいようかと案じたのである。

 そんな時、してあげたいなんて言葉はよくないと、一生懸命に語る介護職に出会った。 ……してあげたいはいけません。上から下に見下ろしてはいけません。利用者様はお客様です。させてもらいたいも、いけません。だって、ただの下請け業ですもの。寄り添うとか、対等な、そういうものだと思うんです……。
 彼女には何の落ち度もない。けれども、どこかしら違和感を感じた。よいといわれる言葉をアピールしようとしているのだけれども、その何かが伝わってこなかったからかもしれない。

 1980年代、私は同じような議論を、看護の職場で聞いていた。看護の世界は、折からのCNS(clinical nurse specialist)ブームで専門職としての実績を作る方向に転換していった。看護は専門性に裏打ちされたケアを提供する。そういう意気込みがあった。
 今、在院期間が短くなり、より高度な医療補助業務をこなす専門的知識集団と考える人も増えた印象を持つ。

 介護も同じような実績が作れないか。まだ懸命に話す彼女の話半分に、そんな気持ちがわいてきた。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

してあげたいことと、して欲しいこと(その12・交換)

2008-07-28 01:16:13 | 不自由な言葉
 ケアには交換がある。してあげたいが余剰ならば、して欲しいは消費とも言える。その間には何かが流通され、交換されている。

 して欲しい。してもらう。してください。いずれも、相手の提供を求める言葉である。ならば、その対語は、「あげる」になる。
 さらに、してあげたいことと、して欲しいことを過去形にすると、「してあげたこと」、「してくれたこと」になる。「あげた」。「もらった」≒「提供」と「消費」の関係が表れる。これは、結果に相当する。

 けれども、ケアは双方向的といわれる。一方的に、ケアワーカーが提供をし、利用者が消費するわけではない。利用者の消費者意識が、今後高まったとしても、単なる消費とは言えそうにない。利用者から何かを頂いている。そうした思いは絶えない。
 ならば、利用者は何を提供するのか。感謝や満足感の表明もあろう。何かができるようになったという、ワーカー側の目標の達成感かもしれない。けれども、それ以上に、何かが流通している。

 ケアが上手くいかなかった時を想像するとわかりやすい。その場での目標は達成できなかった。残ったものは、二つある。一つは、その時、その場での事実関係。もう一つは、そこから始まる未来である。
 次はこうしたい。今度はこうしよう。こうなったらよいのにと、思い描く。そして、そのための一歩を歩み出す。交換されたものは、未来の扉を開けること。未来への展望である。もちろん、上手くいった時にも未来への展望は開かれる。
 それは、今ここにいる、私とその人がお互いの未来を承認する作業ともいえる。
 あるいは、さっきまで向き合っていたものが、立ち位置を近くして、同じ方向を向く瞬間でもある。同じ世界をのぞく。そこに喜びがあることは、その2で書いた。

 ……たしかに、思うようにいかない世界がここにある。人の為す事である、同じ方向を見ているつもりでも、僅かずつは立ち位置が違っている。思惑が絡み合い、相手も、自分も見えなくなりそうになる。
 そんな時に、未来の扉を開ける鍵をもらう。そこに、自分自身で切り開ける可能性を相互に発見し、やがてそれを手にする。それは、相手が相手の生を、私が私の生を、生きる証。ひいては、私たちが生きる証となるのではなかろうか。とすれば、あまりに大きなプレゼントである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

してあげたいことと、して欲しいこと(その11・出会う)

2008-07-25 08:38:38 | 不自由な言葉
 してあげたいことと、して欲しいことは、出会わねば、伝わらない。未だ胸の内にあることを、人は知る術を持たない。だから、感じたこと、思ったことを表すし、聞き取ろうとする。
 して欲しいことをあまり表現しない人に出会ったならば、表現したくなるような環境を作ってみたり、その一言、その小さな反応を待ってみたりする。それは、その閉ざされた言葉の向こうに、何かがあるとの確信、その人への関心に他ならない。

 ところが、一歩引き下がって考えると、表現を待つ私は、往々にして表現をさせてあげたいと願っていると気づく。何かを語ってくれれば、少しはあなたのお役に立てるかもしれない。あなたもきっと生きやすくなるだろう。そんな希望を持っている。

 となると、表現をして欲しいと願うことは、表現をさせてあげたくて、私が行動することとなる。何のために? して欲しいということを引き出すために。それが、大切な問題だと、信じるがゆえに、である。

 こうして、して欲しいことと、してあげたい気持ちが出会うと、必然的にできることとも出会う。ある意味で、してあげたいことは、してあげられること(実践可能)と対句である。実践できる。思い描ける。だから、してあげたいという言葉が出る。実践可能な何かを持っている。だから、その一言のための環境も作るし、待つこともできる。そして、何かを満たすことに至る。ここに専門性があるのは間違いないであろう。

 して欲しいことを探すあいだ、して欲しいことを待つあいだ、して欲しいことを満たすあいだ、私はその時、その場所で、その人に確かに出会っている。どうしようもなく表現できないその人に。未だ伝わる表現を持たぬその人に。表現されたその人に。交わし合う行為の間合いに変化を見せる、その人に。そういう存在に出会っている。
 できることとは、その人の存在に出会うことである。そして、この出会いは、私を問いかけることに他ならない。その人にとって、今この時、この場で必要とされる私を生きることでもある。

----------
 写真は街灯。電球型の蛍光灯である。なにやら、スペシャルの「S」の文字が見えるのは、気のせい? 昨日の分、今日の分と、立て続けに投稿してしまって、これでよいのかなぁと、奇妙に焦っている、はりせんぼんです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

してあげたいことと、して欲しいこと(その10・その時、その場での関係)

2008-07-25 08:14:16 | 不自由な言葉
 せっかく、して欲しいと意思表明したのだから、やっぱり満たされたいのが人情である。
 喉が渇いているときは、早く満たされたい。それでは、サクサクッと、満たされればよいか。
 ……でも、誰かが蛇口をひねる。十分に冷えた水が出るのを待つ。一度、コップに入れた水をこぼし、軽く洗浄するのを見る。結露したコップを軽く布巾で拭うのを見る。コップの底に手を添えてこちらに向くのを待つ。こぼさぬように慎重でありながら、淡い笑みが浮かんでいる。……なんていう時間も捨てがたい。
 「間」も、して欲しいことに付随する重要な要素である。

 忙しかったのだろう。汗を二の腕で拭いながら、息を弾ませて飲ませてくれる水もおいしい。気配を消し、無造作におかれたコップの水も、考え事の最中にはおいしい。行為をする者の心遣いも要素である。
 要素はたくさんある。……どこで、満たされたいか。場も要素である。誰に満たされたいかも、重要である。その誰かと、どのような時間が交わされたかも重要である。考え出すと、あれもこれもと浮かぶ。

 いずれの、して欲しいことの向こうにも、してくれる誰かとの、その時、その場での関係が横たわっている。誰かがいなければ、どうやって満たされるのか。その誰かを捜して、さすらう者もある。
 だから、即時的な結果だけが、事の善し悪しを支配しない。その時、その場での関係を満たそうとすること、少なくとも、自分自身の価値に相手が向き合おうとしていることに、引きずられる。

 して欲しいことは、単に物質的な欠乏ではない。人との関係が必然として含まれている。どうしようもなく切迫した要請をするときですら、人は他者との関係を問う生き物である。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

血迷っています

2008-07-24 08:41:31 | 日記
 どうしようもなく、血迷っていました。同じ記事を二回もアップしていて、気がつかないなど、どうなっているのでしょうか。だから、昨日、ここに書いてきた記事は、削除してしまいました。
 暑さのため?
 いえ、いえ、不自由な脳みそを持っているためでしょう。
 それにしても、わざわざ、ここを訪れて下さった方には、申し訳ありませんでした。お手間を取らせたことと思います。
   。
   。
   。
 ガックリ……。 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

してあげたいことと、して欲しいこと(その9・他力本願)

2008-07-23 09:03:08 | 不自由な言葉
 して欲しいことを振り分ける相手は、たいがい他者である。(自分を褒めてあげたい!場合は例外?)。その誰かは、特定の誰かの場合も、不特定の場合もある。
 して欲しいことは、全面的に任せる場合も、部分的に任せる場合もある。その割合は、頼むもの、頼まれるものの出方にによって、毎回微調整される。

 要請の内容が明らかにされると、実現可能性が考慮される。実現させる能力と余剰を持たぬものが相手ならば、要請レベルを落とすし、その逆では引き上げもあろう。

 要請は、環境の影響も受ける。夕日がまぶしければ、食事介助の途中でカーテンを引くこともあろう。環境側の影響が大きく、要請内容が知らぬ間にすり替わってしまうこともある。家族が面会に来た。だから、さっきの要請は全面撤回ということもある。

 しかるに、して欲しいとイメージしたことが、そっくりそのまま実現されるわけではない。イメージした結果に近くとも、どこか違っている。時には、まったく違う。棚からぼた餅。泣き面に蜂もある。

 で、どこまで任せるかという問題に対し、「結局、患者というのは他力本願を生きているのですよ」とのご意見には首をかしげる。自立思想を強要するつもりはない。だが、してもらうばかりではないはずだ。何かに依存しつつも、あくまでも私を生きている。そう考えればいいのに、と。

 あるいは、別の言い方を試みる。他力本願には、環境に作用されつつ、私は私として生きているの意がある。だからこそ、「○○して欲しい」と願い出る/出られる。して欲しいことの表明は、私という存在表明である。それによって、誰かが、何かが影響を受ける。
 ほかでもない誰かの環境として、私もある。依頼する側も、される側も、同じ他力本願の世界を生きている。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

してあげたいことと、して欲しいこと(その8・祈りと願い)

2008-07-22 09:24:06 | 不自由な言葉
 して欲しいことには、祈り、願い、切迫した要請などのレベルがある。
 ガソリンの値上げをやめて欲しい。戦争をやめて欲しい。無事大学に合格して欲しいの類は、祈り、願いが、少なからず込められている。
 一杯の水を飲ませて欲しいときも、特別な願いを込める場合がある。ほかでもない、あなたの、特別な方法でのご希望もあろう。その一方で、生き死にに関わる、切迫した要請もある。

 したがって、ケアするものは、相手が発する、して欲しいことの表明をよく聞き分け、見分ける必要がある。自分が、その人のために振り分けられる量(あるいは資源;時間、内容など)には限りがある。そこで、手をさしのべる必要性の高いものから充足しようとの考え方が、発達した(と、私は思っている)。

 それでは、祈りや願いのレベルはどうすればよいか。
 絶対に戦争をやめさせることも、絶対に大学に合格させることも難しすぎる課題だ。だから、一緒に、祈り、願う。
 ……少なくとも、一緒に祈り、願うとは、相手と同じ方向を向いて、ものを見、感じることである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

してあげたいことと、して欲しいこと(その7・二つの異相)

2008-07-18 11:07:33 | 不自由な言葉
 ようやく、して欲しいことの話になる。して欲しいこととには、二つの異相がある。
一つは、私に対する何らかの提供を願うものである。もう一つは、私と同じ方向(指向)を向くことを求めるものである。今、そこにあるコップの水を飲ませて欲しいは前者の相になる。花火を一緒に見ようとは、後者の相になる。

ただし、後者は難しい。極端な例に、「指導」という言葉がある。指導は上から下への論法があるといわれ、しばしば嫌われ者になる。
 私には私の信条がある。指導される覚えはない。指導と聞けば、そのような反応をするものもいよう。

 ところが、指し導くと訳すと、同じ方向を向いて欲しいという、祈りや願いがこもっていることがわかる。指し導くは強要ではない。違う世界、違う角度でものを見つめる協同作業が意図されている。平たく言えば、私と一緒の方向を向いて、同じような考え方をしてみて(試して)欲しいとの意思表明である。

 もう少し考えると、指し導くとは、私とその誰かが、違う存在であることを前提とわかる。私とあなたとは違っている。そこから始まるのが、指し導く(指導)なのである。

 ところが、指し導く先に、同一化の意図が強すぎると、激しい拒絶にあう。相手を違う人間と認めた途端、一体化しよう、と強要されるのだ。駆け落ち、心中の境地に陥る人もいよう。
 だから指導は、相手の選択肢が広がる程度に止める必要がある。ここから見ると、こんな景色が見えるのですよ。こんな出会いも想定されます、と。

 まして、相手の世界観を知らずに、自分の見知った世界ばかりを語るならば、ただの言いっぱなしと変わらない。相手を知らずして、指し導くことはできない。相手を知り、相手の欲するところを知る。その違いを認め、そこに価値を認める。その過程なくして、私の指す方向を相手が向いてくれようか。
 お互いに違っている。それを交換的に共有することによって、何らかの方向が見えてくる。その価値を、協働の意思と置き換えれば、価値の共有化(選択の結果としての)とも考えられる。

 話が蛇行してしまったが、いずれの、して欲しいにも、明確に他者が存在している。その誰かがいなければ、欲望することは難しいと考えられる(詳細は、その9へ)。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加