はりせんぼん

今は調査員のお仕事をしている、もと看護師。最近、お勉強不足、渇を入れてやってください。

頼まれてする、自らする

2008-04-30 20:18:19 | 日記
 頼まれてする、自らする。そんな違いが芸術家にはあるかもしれないと、今日のメールにありました。親戚が新築をしたお祝いに作品を依頼した芸術家からの返答です。
 自ら成した物に値段をつけて買ってくださいという仕事は、誰かに阿(おもね)る仕事ではない。自分がよいと思ったものを創って、それがお客様の喜びになる。そういう仕事だというのです。
 ところが、お客様の意向に沿って作品を作る仕事もあって、それを彼は「デザイン」と呼びました。芸術作品はそれを飾るスペースや用いられ方があるわけです。その頃合いを見計らって、お客様の意向の中に自分を表す必要があります。その表し方が「デザイン」なのだそうです。
 それを聞いて、ケアにも似た側面があると思いました。
 もうずっと前になりましたが、ケアはデザインするものだと私は言ってきましたし、信じていました。お客様(ここでは対象)の意向に沿って、その中に自分の知識なり技量を生かす。そういう仕事だと思ってきたのです。
 ケアは私だけではダメです。アート(芸術)にはなり得ません。誰かと一緒でなければ形になりません。一緒に何かをして初めてアートにもなるし、相互に考え合うことによってデザインすることが可能になります。
 もちろん、日々の研鑽であるとか、誰の目にもとまらない下仕事などは自らする作業になるかもしれません。これは、内省、内観による作業だと思います。その先にあるデザインの瞬間を信じているからこそ、やる作業だと思います。
 何かを創造する仕事は,やはり何かが共通しているのかもしれませんね。そんなことを思いついたら、ワクワクしました。
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受診

2008-04-28 20:59:41 | 日記
 いろいろご心配いただきましたが、おおかたOKというのか、今日からはもう日常、そんな具合になりました。ありがとうございます。
 赤むけになった指も、創傷保護剤の進歩で、感染することもなく、ウエットな環境下できれいに治りました。ワンダフル! 何せ、受傷後2日目の指を見た娘が、「死人のようだ……。ホラーに出てくる手みたい……」と身震いしていましたので、たった一週間での生還は感嘆に値します。

 ですが、これで万々歳かといえば、そうは問屋が卸さなかったのですね。義母の具合が今ひとつすぐれないとの報を受けました。「ウ~ン、ここは専門医を受診してもらいたいなぁ」。私たち夫婦はそう願いました。
 ところが、義母は「受診自体があまりに負担なので、専門医には掛かりたくない」と言います。何だかんだの話の末、結局、受診に私たち夫婦のいずれかが付き添うことで了解を得ました。500㎞は離れて住んでいますので、「そこまで言うならば」と受けながらも、「でも、苦痛なの」。義母は電話の向こうで寂しそうに言いました。
 その後、義父が電話を掛けてきて曰く、「あんたのために生きとるのに、あんたがなかなか死なんから、子どもに迷惑をかけるのですと、やり込められてしまった……」。悲愴な声でした。義父の言葉に返す言葉が見つかりませんでした。夜更けて、ふと下手を承知の2作が思うかんできました。

 誰がためと 思う命 燃え尽きね 逼塞(ひっそく)の夜の 長き吐息に

 何のために 長生きすると 責める君 涙し答う わからないけど

 ダイレクトに言えないから、歌で送る心もあるとは聞くものの、これはあくまで自らの鎮魂歌。高ぶる気持ちは、会えないからこそ加速するのです。どこまで何をできるやら,大きな不安が心を揺らします。
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しばらくお休みします

2008-04-23 12:48:01 | 日記
 月曜日の転倒の影響なのでしょう。内出血などはありませんが、日頃意識したことのない筋肉がパキパキ痛みます。痛いので、よく眠れません。そこに、痛み止めなどを飲むと、急に痛みが和らいでおねむになります。多分、今日が痛みのピークなのでしょう。少し楽になるまで、こちらはお休みです。
(以下独語)
ああ、根性なし! 
ああ、なんたる体たらく! 
ああ、バキバキのからだ……

グッスン……
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転ぶ

2008-04-21 17:37:46 | 日記
 2月に放送大学の試験があって、事もあろうかその日に大雪が降りました。せっせと除雪をしてから試験に向かう途中、私はスッテンコロリン、見事に転びました。その時、ちょっと膝を痛めたようでしたが、あまり気にしませんでした。その1ヶ月後、街角でまた転倒。靴底がすり減ったのが原因と考えて、新しい靴を買いました。
 そして、今日、散りしきる櫻を眺めていた知らないオバサンが転ぶのを目撃しました。ああはなりたくはないと思った瞬間、私も転びました。手にカメラとカバンを持っていましたので、それらを守ろうとして、右手の指3本が赤むけ状態になりました。因幡の白ウサギか、かちかち山の狸か。赤むけほど痛いものはありませんでした。降り積もった桜の花は案外滑りやすいものだったのです。
 ああ、どうしてこんなに転ぶのかしら。ため息が出ました。去年、一昨年と転んだ記憶がないのですから、ちょっとしたショックでした。そして、あの雪道での転倒後、適切な処置をしなかったことが、未だに尾を引いているように感じられたのです。
 若い、若いと気持ちは歳をとりませんが、体の方は相応に歳をとっているのでしょう。それを鑑みずに、若いときのままの振る舞いをしてしまいます。これは、何かの戒めかも知れません。
 そうそう、具合が悪いと言ってきた友人は治療が上手くいったようで、朝の5時45分に、「良くなってきた」とメールを呉れました。早すぎだというのです。でも、どんなに嬉しかったかわかりません。また会えるなぁー、それが現実になってくる。そんな予感が胸を熱くします。転んだぐらいでメソメソはしていられません。転ばないように気をつけながら、転んだら適切なケアをしてやりながら、明日がまた来て、誰かに会えることを楽しみに暮らしたいと、今日ほど切に思った日はありません。
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一つずつ

2008-04-18 17:36:08 | 生きることと死ぬこと
 一つずつ、身罷った叔母の家の片付けが進んでいます。法定相続人がいませんので、遺言執行者となった金融機関に歩調を合わせて、一つずつ、また一つずつと、ゆっくり片付けが終わっていきます。その大半の仕事は法律に基づいた諸手続で、父母が何度も足を運んでは片付けています。
 昨日も諸手続のために、父母が叔母宅を訪れました。私もそれに同行したのですが、私に期待されているのはもっぱら捜し物です。金融機関が指定した書類を探し出すのは、やっかいな仕事です。とりわけ契約書のたぐいには苦労しました。死期を悟っていたと思われる叔母は、きれいに書類をそろえてくれていました。ですが、3枚足りない書類は昭和40年代のものです。あちらの引き出し、こちらの棚と探して、ようやく2枚を得ましたが、どうしても残りの1枚が出てきませんでした。
 探し疲れて、両親も「ちょっと休憩しないか」と言うので、私は叔母の着物ダンスなどをのぞき込んで休憩しました。きれいな着物が入っていました。そして、まだしつけの取れていない着物が2枚ありました。その1枚には、「はりせんぼんちゃんへ」と書かれていました。私の知らないところで、叔母が私を思っていたこと。そのことに、改めて感謝しました。
 あと2ヶ月で金融機関による管理が完了し、叔母の遺言は滞りなく執行される予定です。その間に叔母のお百日があります。一つずつ終わってゆくという弔いがあるのかもしれません。「供養ができている」と、両親はそれを喜んでいます。どんなときにでも前向きであれと、叔母がめざした生き方を、両親もまた歩んでいるようにも見えます。一つずつ、一つずつ、なんて小さくも大きな歩みなのでしょう。
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聞くことの力?

2008-04-17 22:43:35 | 日記
 狭庭の端に梨の木が自生している。自生と書くのは、腐った梨を捨てた場所に芽を出したからである。これで5年目ぐらいだろうか。樹高3メートルを超えて、今春花芽をつけた。
 「そんなぁ……」。家族みんなで樹梢に咲こうとしている花芽を眺める。あんまり大きくなってしまったし、隣の家にも枝が進出していて、これぞ迷惑の典型と、切るつもりでいたからだ。昨秋、樹を見上げて……、
 「それでも、花が咲いて梨の実でもなったら、惜しいと思うわよね」
 「どうせ、この春花が咲くわけもなし、暖かくなったら切るか」
 それが、打ち合わせの内容であった。
 さては、その話を梨の木は聞いたのだろう。このままでは絶体絶命と、花を咲かす。花が咲けば実をならすに違いない。実がならなければ、ばっさり切り倒されるからである。
 「あれも、生きるのに一生懸命というところだろう」
 「いやいや、一所懸命なんだろうねぇ。動くことができないから、攻めてもの(!)抵抗……」
 「あぁ……」
当分の間は、お隣さんへの心証を気遣い、花の行く末を見守ることとなりそうだ。
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「歳をとって、集中力が散漫になるのは、体力衰弱のせい」という仮説

2008-04-16 10:02:36 | 共生ということ
  VISAカードの最新号に、「歳をとって、集中力が散漫になるのは、体力衰弱のせいという仮説」と題した、池谷裕二のエッセイが載っていた。池谷は、「脳は何かと言い訳する」などの著書のある東京大学の准教授である。
 曰く、「まだ科学的には証明されていないが、私は「歳をとって集中力が散漫になるのは、体力衰弱のせいである」という仮説を持っている。たとえば、歳をとると長時間の読書ができなくなる人がいる。多くの人はこれを脳の老化と考えているようだ。しかし、日頃から脳機能を専門に観察している私には、脳自体はそれほど老化しないように見受けられる。衰えるのは、むしろ体ではないだろうか。読書を長時間するためには、同じ姿勢を長く維持しなければならない。これがどれほど体力を浪費する行動かを考えてみればよい。体力がなければ読書は難しいだろう。体力衰弱-これこそが「脳が衰え」を錯覚する隠れた理由ではないだろうか」。
 この仮説の前には、60歳から85歳までの有酸素運動のエクササイズを受けた人の、視聴覚認知テストの成績向上というデータが添えられている。これは集中力が向上したことと解釈できるとのこと。
 月曜日に記した和田秀樹の「困った老人と……」での、前頭葉衰退説とは正反対の仮説である。
 まだまだ老化と脳、身体能力と知能の関わりには研究の余地が残されているということだろう。これからの研究成果が楽しみである。
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ペンギンの憂鬱

2008-04-15 11:41:55 | 共生ということ
 久しぶりに海外小説を読んだ。アンドレイ・クルコフ 、「ペンギンの憂鬱」、新潮社、2004年である。舞台はウクライナ。主人公は憂鬱症のペンギンと暮らす、売れない作家である。彼の仕事は死亡記事を書くことだ。死亡記事といっても、その人が生きている間から書く。書かれた人々はやがて死んでいく。ミステリアスな世界が展開される。最後に追い詰められていく主人公とペンギンの話も驚嘆に値した。
 それがウクライナの現実なのか、仮想なのか区別ができないが、平温に人生を送ることが困難な国なのだろうとは思った。

 さて、昨夜、なにげなくテレビをつけたら、チェチェン共和国の武装勢力による学校奇襲の記録が流されていた。死者の総計が330人ともいわれる惨事である。日本では想像のつかないテロとの戦いや、日常生活の不安、ウクライナの暮らしと重なった。平穏であることはどういうことか。次に読み始めたアランの「幸福論」の、あまりに個人的な心の持ちようを説く様に、ため息が出る。

 それで思い出したのが、あるケアワーカーが施設の経費削減に不満を抱いた話である。ケアワーカーが言うに、「ケチケチするよりも利用者の利便をもっと考えるべきじゃないの」。聞けば、ケアワーカーは半公立の施設に勤めている。町は人口1万人。高齢化率が40%。年々生活保護の受給率が上がっている。40%以上の人が国民健康保険に加入していて、不払い率も高い。町の財政状況を考えれば、ケチケチしていると言われても経済的配慮は欠かせないだろう。だから、ケチケチしつつも利用者の利便が最大化する方策を選ぶことが、与えられたミッションだと思う。全体で見たらこんなことが言えそうだと、私はケアワーカーに返したのだけれども、ケアワーカーの心が充足されようはずもない。個人的な充足感、幸福感こそが、ケアワーカーのケアを支えているのだろうから。

 詰まるところ、憂鬱症のペンギンを人は誰でも内包しているかもしれない。思うようにいかない感覚、感情、個人的な体験、乾ききった充足感、全体と個は容易に結合できない現実を……。それらとどう向き合ってゆくのか、と。
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「困った老人と上手につきあう方法」

2008-04-14 00:14:05 | 共生ということ
 和田秀樹の「困った老人と上手につきあう方法」、宝島新書、2008年4月を読んだ。「暴走老人」などという本がベストセラーになった後の出版である。何が書いてあるかと言えば、老人と上手に付き合いましょうという話である(タイトルそのまま……)。
 和田によると、加齢による前頭葉の働きの低下が、困った老人を生み出している一因という。また、ごく初期の認知症の存在、儒教思想の衰退による尊老思想の低下、地域社会の構造変化に伴う老人役割の変化、アンチエイジング思想の普及なども重要な要素として数えられていた。
 その上で、老人をいたわり、老人が気持ちよく過ごせる環境の創出が、困った老人を生み出させない鍵であると結論している。キーワードは、受容、傾聴、共感である。誰だって、その存在を受容されたいし、経験を傾聴してもらいたいし、心境に共感されたい。それは、老人だって一緒である。
 そういえば、いつぞやの日経に、老人という言葉には捨てられた印象を持ってしまうと書いていた人がいた。年をとることがマイナスの印象を与える社会になってきている。老人を姥捨て山に捨てるのも、介護施設に入れるのも何が違うのか。ぼやきとも嘆きともつかぬ、つぶやきに胸が痛む。
 一方で、和田が引用した資料によれば、80%の老人の精神状況は正常なのだという。要介護状況にない老人も同様の数字になる。困った老人は確かにいるのだが、多くはそのような状況にはないのである。
 医療費や年金、生活保護などに税金が使われることに対する冷たい目もある。老いたら若い者に道を空けるべきだと述べる人もいる。老人が消費活動を積極化すれば経済が活性化されると述べる人もいる。いずれも、老人という「ひとくくり」の集団への眼差しである。本当の老人は、そこにいる、その人だと、しっかり対応しなければ、老人と呼ばれた人々が可哀想に思えてきた。
 であるが、駅の警備員を執拗に罵倒している困った老人やら、「こんなローカル線廃線にしたらJRさんの経営も上手くいくでしょうに」と、話し合っている都会の老人にも腹が立った。その人のことだと思いながらも、そう思えない。ステレオタイプな感覚がどこかで自分の中にもすくっている。困った話だ。
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行方

2008-04-11 23:31:24 | 日記
 超望遠レンズを結婚のお祝いに頂いた。送り主のAさんは愛鳥家で、一緒に探鳥会もした。送られる一週間前にはヤツガシラという渡り鳥を見かけたと、このレンズで撮影された写真を見せてくれた。まさか、愛用のレンズをもらうとは思ってもいなかったが、あまりに無愛想に渡すので、断る言葉を失ってレンズは吾が物となった。
 新婚旅行にもこれを持って行った。1000㎜のレフレックス・レンズである。がたいが大きく重い。三脚まで担いでの新婚旅行であった。その後も、時々はこれを取り出して撮影したが、このところは久しくお蔵入りであった。
 そこに来て昨日、Bさんがブログ上で1000㎜が欲しいなどと書いていたので、Bさんにやろうかと思った。さっそく主人に相談してみると、それもレンズの生かし方かもしれないと言う。その後、愛鳥家のAさんの話が盛り上がって、同じく共通の友達であるCさんの話が盛り上がった。気がつけば夜中の3時である。その結果、「やっぱり、もう少し家に置いておこうよ」と主人が言った。
 今朝、メールが届いた。Cさんであった。少し具合が悪いのだとある。電話を掛けると、会いたいという。私だって会いたい。だから、明日見舞うことにした。電話を置いてから、やっぱりレンズは家に置いておいて、きれいな写真の一葉でもCさんに見せてやろうと、そんなことを思った。
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