はりせんぼん

今は調査員のお仕事をしている、もと看護師。最近、お勉強不足、渇を入れてやってください。

迷惑をかけてきました

2007-03-30 15:07:28 | 日記
 遊びに行った能登で、震度6弱の地震に遭遇しました。結構な揺れでした。グラグラ10分ぐらい揺れていたのではないかと思いました。そんな時、理性がささやくのです。「バ~~カ」と。
 ところが、揺れの途中で停電しまして、すぐさま通電しなかったら、「やっぱり、あれは10分ぐらい揺れていたなぁ」と感性が笑うのです。
 それからというものは、まるでジギルとハイドの気分で、余震を迎えました。キシキシと建物全体が音を立てるたびに、パラパラと何かが落ちる音がするたび、「大丈夫さ」という理性と、「怖いよ~~~ぉ」という感性が戦っていました。

 何はともあれ、朝の地震でしたので、日の高いうちにずいぶん片づけが終わりました。が、翌日には、クラックやタンスのズレを発見して「ギョ、ギョ」とするのです。もちろん、発見のたびに片づけをするわけですから、震度7の被害にあわれた神戸の方々のご苦労を偲ばずにはいられませんでした。

 そうこうしていまして、火曜日の朝を迎えました。と、どうにも体が寒いのです。帰宅予定でしたのに、熱を測れば39.4度。近所の医者に行くと、「インフルエンザですね。それに、気管支炎を合併しています。こじれていますねぇ」とか。というわけで、「帰宅ですか? トンでもありません」と釘を刺されてしまいました。

 輪島や門前のような大きな被害はなかったというものの、ご近所では屋根瓦の歪み、ブロック塀の落下、扉、サッシ・襖の壊れ、田んぼへの給水管の壊れ、小さな地割れ等など、それ相応の被害がありました。お困りの方々を、ご近所どうし助け合って支えている最中、私はただ、眠るばかりです。
 こじれた気管支炎だけ合って息が苦しかったからか、何度も同じ夢を見ました。
 「埃をいっぱい吸い込んで、喘息がひどくなっちゃったの。ね、余震のたんびに天井から埃が降るでしょ。先生、苦しいんですよ。でも、仕事先の被害が大きいので行かなければ・・・」
 それは、受診先の病院で実際に聞いた話でした。

 昨日になって主人(こともあろうに、仕事を休んで)が迎えに来ました。私はようやく解熱したばかりでヨロヨロです。ヨレヨレの私と子供たちを車にヒョイッと積んで自宅に帰してくれました。
 思い返せば、あれもこれも、皆様にご迷惑をかけまくった春休みでした。もちっと元気になったら、地震の募金をしてこようと思います。
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クレーマー・クレーマー(その8・終りの話)

2007-03-23 17:58:50 | 共生ということ
 なんだか長い話になってしまいました(何時ものことですが)。そろそろ、結論を書こうと思っていましたら、先ごろ象徴的な出来事に遭遇しました。

 北に帰る白鳥に逢いたくて、白鳥の湖に行きました。と、すでに湖に白鳥の姿はなく、カモばかりが泳いでいました。湖の中洲にはワシタカ科の鳥が一羽、何かを食べています。望遠レンズで覗いてみると、オオタカがカモを食していたのです。
 オオタカの頭上にはトンビがクルクル舞っていました。そして、時おり、何羽かのトンビがフォーメーションを組んでオオタカの頭を小突いていました。最初、オオタカはトンビの攻撃を意にかえしませんでした。が、やがて、パッと羽を開いて威嚇するようになりました。トンビは相変わらず、オオタカの頭をくちばしで突こうとします。
そうした事がしばらく繰り返された後に、オオタカはバッサバッさと羽を開いて上空に舞い上がりました。同時にカモというカモが空に舞いました。空中に鳥が舞い上がった後、オオタカがトンビに攻撃を仕掛けます。カモは速やかに水面に舞い降ります。トンビは必死に逃げながら、反撃の機会をうかがっていたようでしたが、オオタカの飛行速度が上回っています。オオタカはすかさず足技を仕掛けます(本日の写真)。
こうして、泥沼の空中戦が繰り広げられている間に、別のトンビがカモを両足で抱えあげて運び出そうとしました。それを見つけたオオタカはカモを運んでいたトンビをめがけて、足技をかまそうとします。カモを運んでいたトンビはカモを湖に落とし、慌てて退散しました。
もうこうなっては誰もカモを食べる事は出来ません。トンビもオオタカも湖を後にしたのでした。湖では、ただカモ達がプカプカト浮かんでいました。

無用な争い事をすれば、誰もが傷つき、誰の手にも狩の成果は残らない。残らないのだけれども、獲物を巡る攻防は避けがたい生存競争です。傷を恐れていては、得られる可能性が低くなってしまう。だから、戦う。これは掛けだったのです。

それはさて置き、クレーマーを巡る攻防も、トンビか、カモか、オオタカか。三者合い乱れての攻防とも取れなくはありません。仲良く獲物を分配できかねる所に(カモは食べられたくありませんから、最もそう思っていることでしょう)、クレーマーがクレーマーとして存在する所以があるのかもしれません。

もっとも、クレームという言葉は規格外品に対する損害賠償というニュアンスから始まったとの話も聞きます。規格に合致しないという意味では、先に記したように規範を求める対決とも言えそうです。ただし、規格を規定しなかったものが果たして、損害賠償を受ける権利を有するかといえば、答えは「いいえ」でしょう。ですから、英語でクレームは「権利」という意味をもっています。
私が今度クレームをつけることがあったなら、そこのところをちょっと考えてものを申して見たいと思ったことでした。(了)
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クレーマー・クレーマー(その8)

2007-03-22 22:55:44 | 共生ということ
 クレームの対象が組織になりやすいところにも,クレーマーの特性があるようにも感じられます.特定の誰かを傷つけるのではなくて,顔のあるようなないような,心のあるようなないような組織を選ぶ.

 たしか,養老孟司が「超バカの壁」で書いていました.献体に反対する親族にポッカリ殴られるのも仕事のうち.殴った相手は,「東大の教授を殴ってきた」といえばメンツが保てる.

 クレームがメンツをかけた闘いならば,組織から勝ち取った詫びは大きな収穫となります.


梅原猛が「水底の歌」や「かくされた十字架」で書いていましたが、いったん、排除した権威を日本人は祀ってきたと言います。柿本人麻呂であれ、聖徳太子であれ、権力の座から引きずり下ろされた、その怨念やたたりを恐れて、人々は彼らを祭ったというのです。
 それが、この国の土着的な思考として1000年前にあったとうことです。でも、現在に至っても、この思考形態は変わっていないのかもしれません。クレーマーに対して、腫れ物を触るかの態度を取り、どうか、お気持ちをお静め下さいと祈らずにいられない。そういうことはないでしょうか。

 いずれにしましても,本当はホンのちょっとだけ,相手の立場になって考えて物が言えたならば,クレーマーというレッテルを貼られることも,貼ることも少なくなるのでしょうが,それが苦手だからこそ,排他的な言説が生まれてくるのでしょう.

 そう考えると、上手なクレームのつけ方は、相手が気持ちよく一肌脱いでくれるあたりにあるかもしれません。一肌脱いでくれたんだと思えば、言ったほうも甲斐があるというものです。となれば、相手への鋭い洞察なしに、上手なクレームはないということになります。
 相手が一肌脱いでくれたら、自分も一肌脱げば(振りだけでも?)、もっと上手なクレームとなりましょうか? こうして、持ちつ持たれつの関係、出来れば他者への(特に組織への)参与の機会が築かれるような関係に持ち込めれば、クレーマーは直接参与者として所属を持つことになります。
 ですから、出来るだけユーモアを交えながら、組織にクレーマーを取り込んでこようと、ずいぶん努力をしてきた気がします。でも、余り成功しませんでした。半分ぐらいは失敗だったかもしれません。
 結局のところ、柳に風、葦に嵐の構図で、上手に攻勢をかわしていく事に終始する事も多かったと思います。それが、クレーマーのリフレインを起こすと知りつつも。こちらが樫の木ですと、あまりに激しい風で打ちのめされそうになるからでした。

 ただ言えることは、最初のクレームの時に下手に出すぎて、こちら側の立場をしっかり伝えられなかったケースでは、泥沼化しやすいことでしょうか。相手の話をきく姿勢が足らないと相手に感じさせてしまったケースでも泥沼化しやすかったと思います。
 ちょっとクローズドだけれども、人通りもあるような、半分オープンなスペースで話をきく事も大切だと思います。あくまでも、個人攻撃ではなくて、組織への「ご意見」「ご要望」として対応していると、そういうジェスチャーもクレームをエスカレートさせない為に重要だったと感じています。
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クレーマー・クレーマー(その7)

2007-03-21 22:09:41 | 共生ということ
 とんだクレーマーだと思った相手が,ご近所では世話好きの好々爺と評価されていた.そういう経験が,何度かあります.どうも,私たちとその人の間に,越えられない壁や堀がある,と思いました.
 なぜ,壁にハシゴをかけ,堀に橋を渡せないかと,世間様は非難するかもしれません.ですが,堀を埋めれば山が出現し,山をならせば城郭が築かれているといった状況.イタチごっこなのです.(イタチごっこは死語に近い? 不安……)

 寂しいことですが,文句を言っている間は(行く先さえ間違わなければ),丁寧に扱ってもらえるのが現代社会です.クレームの内容によっては,お茶の一杯も差し出され,「そうですか.勉強になりました」「貴重なご意見をありがとうございました」と言われます.だから,リピーターになっちゃった.なんてことはないのでしょうが,NTTの番号案内に,「今日は僕のひとりぼっちの誕生日なんだ,だから,一曲歌ってほしい…」なんて,電話をした高齢者がいると聞いたことがあります.
 情報過多のこの社会には,それに合致するよい人を必死に演じる人がいて,その結果生まれてきた,どうしようもない寂しさを抱えている人が,居るのかもしれません.

 あるいは,かみ合わない意見をすりあわせるため,喧喧諤諤(けんけんがくがく)の議論をする.議論に疲弊しつつ,先の読めない未来を意志決定し実践する醍醐味から遠ざかれば,予定調和的(あらかじめ神によって調和が生じるように定められたかのような)社会像を思い描くことを慰みにするかもしれません.
 それでも埋め合わせられない現実に対しては,スピリチュアル・カウンセラーが前世の因縁を持って,調和的世界観を提示してくれます.
 こんな決めつけをしてはいけないのでしょうが,この世界に漠として開いてしまった穴を,いかにして埋められるか.クレーマーに,一種冒険的な要素を感じるのも,そんなところに所以があるかと,ぼんやり考えてしまうことがあります.

 その実,スーパーでの出来事を思い出して,その考えを引っ込めることもあります.購入しようとした肉のパックに髪の毛が混入していました.その旨を係に人に申し出ると,「別のパックを買えばいいじゃないですか!」と怒られてしまったのです.「そんなに怒らないでください.このままここに陳列しておけば,たくさんの人の目に触れるのですから,お店にとってはよくない.そう思って申し上げたまでですから」.私はあわててそういいましたが,相手は無愛想な顔つきでパックを受け取ると,「片付ければいいのですね!」と,相変わらず怒っているのです.その表情には,「また苦情かよ」と書いてあるように見えました.
 最初は親切心で申し出たことが,ぞんざいに受け取られた結果,攻撃的な態度を継続するような関係に発展したのかもしれない.あるいは,「よい人」なら,最初から物事に関わらないでスルーすればよかったのか.そう考え出すと人間関係のしこりのあれこれを,深く嘆きたくなるのです.
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クレーマー・クレーマー

2007-03-20 14:27:23 | 共生ということ
 では、現状を事細かにクレーマーに伝えれば、相手は合点してくれるのでしょうか。残念なことですが、こちらの努力に理解を示してくれるケースは少なかったのです。こちらの状況を説明すればするほど、「理解しがたい」と立腹するケース、「あんた方の良いわけは聞き飽きた」とさえ言われるのです。

 この構図についてもう少し考えます。例えば、「車内のマナーをよくしましょう」というのは簡単です。簡単ですし、そうしてほしいと願っている人がよっぽど多いのでしょう。アナウンスが繰り返されます。
 ですが、ある人がマナー違反と考えることは、個別的な問題でかつ、リアルタイムに変化する要求と考えるのが妥当でしょう。「あの人のアイポッドがうるさい」と思っているのは、そう思っている本人に違いありませんし、何かに夢中になっている時にはアイポッドの音量も気にならないでしょう。

 大切なことがもう一点あります。アイポッドの音量が気になった時、「マナー違反ですよ」と言えば、言われた本人は間違いなく立腹するということです。相手を間違えれば喧嘩になること必定です。
 だいたい、誰に向けて発信しているわけではない(これを、「みんな」に向けて、と言うのです)、無責任さだからこそ、あれだけ車内アナウンスはできるのです(?)。あれだけ、車内放送がうるさいにもかかわらず、マナー違反だと言いたい人の代弁をしているとの体裁もつきます。
 で、この構図がクレーマーの訴えに似ていると思いませんか?。「マナー違反ですよ」「介護職は福祉の心を絶やさない」というのは、「私の規範に合わせなさい」とのご意見です。でも、それはみんなに向けて発信された(個人の責任が乏しい)発言ではないでしょうか。また、具体的にどうしたらよいか。その規範の形が見えない、曖昧なものではないでしょうか。具体性がないので、発言する側の意見はアメーバ型変容が可能になります。常に、「それは違う」。その一言が言い続けられるような。

 アイポッドがうるさいならば、「ちょっとボリュームを落として下さい」と言えば良いと思います。私の経験では、案外気持ちよくこちらの意向をくんでくれるものだと思います。なかには、「私は大学入試のために英語のリスニングをしているのです。このボリューム以下にすると、発音が良く聞き分けられませんので、これ以上ボリュームを下げることができません」との発言もありましたが、そうと了解すれば我慢できるものでした。
具体的な要望に対しては具体的な返答が可能だと思います。コミュニケーションの上手な人は、具体的な要求を打ち出して具体的な返答や効果を得ようと行動します。仮に、モヤモヤとした思いであっても、何らかの方向性を模索しようとするでしょう。そこに人間関係を重視しようとする思想を感じるものです。

 一方、クレーマーのなかにも、コミュニケーション上手と自称する人がいます。弁舌爽やか(な、わけないか)と言いますか、立て板に水と申しますか。大変口が立つわけです。でも、「あなただったらどう考え、どう行動できるの?」という部分に関して、「世間一般では……」「一般には……」と自分の発言に責任を持ちたがらない傾向を感じるのです。こういう人にいくらこちら側の子細な状況を伝えても、相手は聞く耳を持ちません。なぜなら、その状況に置ける、その事態の価値判断を根本から避けているからかもしれません。こちら側はこんなに説明したのに、「世間一般ですか。あなたの意見はないの?」
 コミュニケーション下手と私が感じるのは、人間関係を重んじない言葉の上滑りを危惧するからです。
 (しつこくも明日に続く)
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クレーマー・クレーマー(その5・クレーマー)

2007-03-19 11:24:30 | 共生ということ
 過去の記事が中途半端にうち捨てられていたので、ちゃんと仕上げておこうかと、これを書いています。あまりに長いインターバルを経ましたので、少し論旨を要約しておこうと思います。

 この記事の端緒は教育改革に始まっています。教育改革が目指す学校の姿は確かに美しいものです。ただし、誰かの善意だけでは世の中うまく回らないだろうというのが、私の意見です。第一、うまく回していくための受け皿が十分整備されていません。また、教育職をあまりに神聖視しようとすることで、現場の困難が表面化されにくい現状もあると感じます。また、文部科学省は40年間にわたって教員の勤務実態に関する調査を行ってきませんでした。現場の教師が声を十分に上げられないだけでなく、管轄省庁の調査もなかったのです。
 相手の困難がわからないということは、クレームを助長することでしょう。顔が見えなければ、何を言っても許されるように錯覚する人もいましょうし、不平不満なのか、問題提起なのか不明なご意見もあると書きました。そして、こうした問題が教師個人、単一学校で処理され得るものか、疑問が残ります。

 そんなところまで書きましたでしょうか。では、クレーマーと呼ばれる人がどんな人なのか(ここからは学校ばかりでなく、介護現場、医療現場も含めての話になります)。
 何回か、そうした人に遭遇しましたが、ひとつには簡単には解決困難な問題を掲げている人との印象を持ちました。あるいは、コミュニケーションがあまり上手ではないという印象もあります。そして、その問題を離れてしまえば、ごく良識的市民であったりしました。

 ある事例では、「かくあるべき」と苦情を寄せてきました。例えば、「女性は男性に尽くすべきだ」と言われても、そうした価値観を共有できない人にとって、それが無理難題に映るように。
 「かくあるべき」論は、価値観の齟齬をしばしば生みます。「(福祉施設の)職員はいつもにこやかに対応すべきだ」という一見常識的な意見も、暴力的な行動の目立つ認知症利用者が職員にけがを負わせ続けた時にも妥当と言えるでしょうか。花ビンで後頭部を強打された介護職員の事例では、職員の対応能力に問題があったと批判を受けましたが、それは居合わせたどの人にとっても、予測だにつかない事態でした。
 というのに、かくあるべき論の背景には、「それは予測可能な事態であった」という理屈がしばしば存在します。「理屈と膏薬はどこにでもつく(統一地方選挙では口約?、あらごめんなさい)」と、職員は臍(ほぞ)を噛んだのでした。後付的な非難は、決して過去の状況を変更できません。その時点でたくさんの選択肢からベストと思って行動したことも、後から見れば、たくさんの選択可能性を残しているものです。
 かくあるべき論の切り口は、現状についての十分な聴取がなされないままに、なされていることはないでしょうか。
(明日に続く)
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カルトな朝

2007-03-16 15:12:57 | 共生ということ
 特段「蜘蛛」に愛着があるわけではありません。ですが、無用な殺生の対象にしようとは考えません。

 我が家の玄関灯は夏の間中、すばらしい誘蛾灯になります。薄暮の頃から玄関灯を点灯しますと、玄関扉いっぱいに蛾が止まっていて、怖くて家には入れなかったこともありました。それは、山マユ蛾の大群(体長10㎝ぐらい?の大きな……)でしたが、近所の雑木林が伐採されてからは、小さい虫がごまんと付くようになりました。いずれにしましても、蜘蛛にとっては格好のエサ場なのです。

 毎年年、蜘蛛の行いを眺めていますと、いろいろな発見があります。言わずもがな、蜘蛛の巣は、幾何学的できれいです。朝露に濡れた蜘蛛の巣に日が差し込む瞬間なぞは、思わずため息が出ます。捕らえた虫はきれいに蜘蛛の糸で巻き取られますし、その遺骸もそれなりにキチンと始末をします。
 一方、効率的に獲物を捕らえられるかといえば、さにあらず。羽ばたきの強い虫も、喧嘩途中の猫も容赦なく蜘蛛の巣を破ります。近所の悪ガキどもは細枝などで蜘蛛退治に興じることもあります。あまり目立つところに巣を張れば、鳥に捕食もされます。
 したがって、効率的なエサ場に生息する蜘蛛ですが、その数は一向に増えも減りもしないのです。

 その朝、我が家を訪ねてきたのは、某新興宗教の布教者でした。興味がない旨を申し上げて、玄関の戸を閉めようとしましたが、その口上、止まり難し。彼女は玄関扉に手をかけて、「唯一の神のお心」「神の思し召し」という言葉を繰り返しました。
 あまりに執拗ですので、頭に来るほどでした。その時、ふと頭上を見上げますと、昨夏の蜘蛛が生み付けていった蜘蛛の卵(巣?)が目にとまりました。それで、彼女に聞いたのです。

 「ここにあるのは、蜘蛛の卵です。玄関先にこんなものを置いておけば、目障りだと思うのが人の情というものです。では、あなたの神様は、この蜘蛛の卵をどうしろとおっしゃるか、お教えください」
 「神は、その意志によって、私たちに、この地上を支配する権限を託しました。従って、蜘蛛を殺す権利を私たちは有しています」
 「蜘蛛の世界ではこう言うそうです。神は私たちに蜘蛛として生きることを託しました。従って、この世界を生き抜く権利を私たちは有しています、と。無用に殺されたくありませんと」
 「神は人間にのみ、人間のなかでも神を信じるものにのみ、その権限を託したのです。蜘蛛に心はありません」

 「私には蜘蛛に心があると思いますので、無用な殺生をしたいと思いません。あなたが蜘蛛が好きでしたら、蜘蛛を殺さないでしょう。そっと別の場所に移す程度にするのではありませんか? ですから、あなたの神様は信じることができないのです」
 「その考え方は間違っています。神はそれを認めないでしょう」
 「あなたの考えには賛同できかねます。どうぞ、お帰りください。私はあなたの神を認められません」

 ……と、プリプリ怒って彼女は帰っていきました。呪いがとか、祟りがとか言われなかっただけ良かったかと思いながら、その後ろ姿を見送りました。そして、蜘蛛の卵に話しかけました。「ハァ、おまえには助けられたよ」

 後に、友達にこの話をしたら、「玄関あけて話すだけ、あなたはお人好しなのよ。お馬鹿ね」と言われました。まったくその通りと思いました。ただし、次に彼女が告いだ言葉にはハッとしました。「その某新興宗教、やっぱりカルトだったのね」
 社会と軋轢を生むような宗教をカルトというのですが、蜘蛛の卵を巡る考え方にさえ、その一端を見られることを友達は指摘したのです。

 その後の一週間ほどは、毎朝某新興宗教の彼女が呼び鈴を鳴らしましたが、友達の忠告通り、対応しないでいると立ち寄らなくなりました。
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 赤い靴の女性をJRの車内で見かけました。この気だるさは春の気怠さ? 目をそらそうと思っても、何度も彼女の足に視線が戻ってしまうのでした。二駅か三駅、過ぎた頃、彼女はプイと立ち上がって下車しました。相変わらず私は彼女の靴に目がいっていて、彼女の顔を望むことはできませんでした。いったい、どんな女性だったのでしょう。
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2007-03-15 15:16:32 | 共生ということ
 スーパーに母たちと買い物に行った時のことです。母がショッピングカートを押し、私が母の杖を持つことにしました。すると、買い物に来ていた皆さんの視線が私に集まり、いかにも気の毒そうな顔をしていました。
 そこで、お調子者の私は左足が不自由な振りをしてみました。少し足を引きながら、杖に体重をかけて歩いたのです。買い物に来た皆さんの反応は思った以上に親切でした。混雑していた野菜売り場では、何気なく場所を譲ってくださる方が数人。歩く先々では、進路を変更し、私に道をつくってくれました。

 「皆さん、ご親切なんですね」と、思わず母に言いました。「そうですのよ。バスの運転手も、ゆっくり乗降を見守ってくれますし、停車位置にも気をつけてくれるのです」「杖は強力なシグナルなのですねぇ」「それに、道を譲ってくださる方々の様子が、さりげないこともすばらしいと思いますよ」

 誰の目にもわかる親切もありましょうが、こうしたさりげない親切はなんとありがたいことでしょう。軽く黙礼をすることで、さりげなさに花を与えながら、つかの間の杖使いを味わったのでした。
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 「ハナニアラシノタトエモアルゾ サヨナラダケガジンセイダ」 とは井伏鱒二でしたか。去る大風の日、側溝に映った梅が枝に、もう一度咲き乱れる梅の花を撮ってみました。
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白鳥の湖

2007-03-14 10:07:12 | 日記
 夜半過ぎに外に出ると、春の星座がひしめくなかでの、この寒さ。ようやく峠を越えてくれたようで、一安心しているところです。
 「でもなんだねぇ」と異論を唱えている、そこのあなた! いったい誰かと思えば、公園の白鳥さんではありませんか。なになに……。

 「日本のような高温多湿の環境では、ハダニが付いてたまらない」「それは深刻なお悩みでしょう」
 「まだある?」
 「富栄養化した池の水を何とかしてほしい? 臭くてたまらない」
 「公園の管理事務所では活性炭を入れたり、浄化装置を取り付けたりしているけれども、それでは不足なんですねぇ」
 「そうですとも。田畑に囲まれていました昔は、市内有数の湧水地だったのですよ。それがまあ、田んぼをなくしたおかげで、湧水は減るは、水は臭くなるは……。そこに来て、皆さん食べきれないほどのエサを池に投げ入れてくださって。富栄養化するのは必然と言うところでしょう。ここで産卵、育児をする私の身になって考えてください」
 「はぁ」

 「それにまだありますのよ、夏になりますと子どもが激しくつきまとうようになります。あれも迷惑です」

 「うん、なるほど。異国で過ごす夏は白鳥さんにとって、たいへんだったのですね。せっかくインタビューさせていただいた記念に、一枚お写真いかがですか?」
 「シベリアに返してくれるならいい顔をするわ」
 「そりゃあ、私がお縄になってしまいます」
 「あら、そう」
と、白鳥さんはプイとあちらに行ってしまったのでした。その折の後ろ姿を今日は貼り付けてみました とさ……。
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ピュア・カウンセリング

2007-03-13 10:21:10 | 患者として
 ようやく自立歩行が可能になって、さっそく出向いたのはトイレに設置してある鏡だったというのですから、いくつになっても女と言えば女。
 おそるおそる頭に巻かれた三角巾を取り除き、手術でできた傷跡を確かめようと鏡をのぞき込み、「あっ」と絶句したのです。「髪の毛がない」とのたまったのは、それからしばらくしてのことでした。
 その時の、何とも恨めしい顔をして、鏡の前で突っ立ていた母を思い出します。

 その母の入院中、さして親しくもないご近所さんが母のもとを尋ねてきました。「あんたさん、毛伸びたでないの」。母はあわてて三角巾で蒔かれた頭を隠します。「1ヶ月に1㎝、1日1㎜に満たないけれども、髪の毛は伸びるで」。母は「ええ」と曖昧に答えます。
 「ほら見てくだい。私も二度ほど脳腫瘍の手術をしたけんど、直に髪の毛が伸びてきて、1ヶ月に1㎝、2ヶ月で2㎝。ああ、生きとるわ。そう実感した。あんたさんも良かったでないの。髪の毛伸びてきて、それは生きている喜びのバロメーターだもの」
 「ああ、奥さん、そんな苦労をなさっとったですか。私は何も知らなくて」
 「人に言うような苦労じゃないけれどもさ。わたしゃ嬉しくてね。あんたさんの髪の毛が伸びてくるのが。また来るで」
 それだけ言いますと、ご近所さんは帰っていきました。

 退院の迫った頃にご近所さんは再来し、「ああ、髪の毛伸びたねぇ。良かった、良かった」と、それだけ言って帰って行ったそうです。

 「あのときの、生きている喜びは格別でしたよ、はりせんぼん」。母は、私にそう言いました。「髪の毛が伸びるたび、生きていることを実感できるなんて、なんてすてきな思いでしょう。短い訪問でしたけれども、あんなに励まされたことはなかったかもしれません」

 ピュア・カウンセリングか……。ふっと、そんな言葉を思い出しました。
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 実家の森(?)の写真です。時ならぬ雪に朝日が当たって幻想的な光景が広がりました。もっとも、この雪も瞬く間に消える春の淡雪だったのです。夕方にはすっかり溶け去っていました。
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