高原千尋の暗中模索

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。

小栗上野介忠順の炯眼(けいがん)-①プロローグ

2008年11月10日 | 小栗上野介忠順
 幕末維新史のなかで、徳川幕臣の小栗忠順(ただまさ)ほど興味深い人物はいない。忠順の視点から幕末、そして明治を見つめると、歴史がまったく違ったものに見えてくる。忠順は官軍によってその存在が名実ともに抹殺されたために、歴史のなかに埋もれてきた。また彼自身も自ら文章などの記録を残さなかったため、その存在の大きさにも関わらず彼が注目されるようになったのは近代になってのことであった。
 昭和8年、アメリカの研究者から一枚の写真が日本に送られてきた。万延元年(1860年)に米軍艦「ポーハタン号」の船上で撮られたその写真には、日本で初めての遣米使節として乗船していた小栗忠順が、新見豊前守(しんみぶぜんのかみ)、村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)とともに写っていた。この写真によって、歴史に埋もれていた小栗上野介忠順(おぐりこうづけのすけただまさ)の実像が初めて日の目を見ることになったのである。

 司馬遼太郎は小栗忠順を「明治国家誕生のための父」と評した。私は忠順の生涯を追う中で、彼をどのように形容するべきか、随分悩んだ。そして今も悩んでいる。その、あまりにも鋭い分析力と構想力、強靭な交渉力、高貴なまでの佇まい、そしてそれらの結果としての偉業の数々、それらを知るにつけ、忠順のあまりの大きさに畏怖を感ずるとともに、一方では強烈なシンパシーを感じるのである。
 小栗忠順は、当時アジア最大規模の造船所となる横須賀造船所の建設や、日本最初のフランス語学校の設立、フランス式陸軍制度の導入、日本最初の株式会社組織「兵庫商社」の設立など、日本の近代化の礎(いしずえ)となるあまたの偉業を残している。明治維新政府は、忠順が残した遺産にただ乗っかっただけと言っても言い過ぎではない。それ故に、忠順の存在は抹消されなければならなかった。そして“偉大”なる「明治政権」だけが歴史書に記されることになった。
 その偉業から見れば、司馬氏の言うとおり、小栗はまさに「明治の父」と呼ぶにふさわしい。また、彼を「最後の幕臣」や「天才」と呼ぶひともいる。そしてそれらの形容も、みな正しい。が、私にとって小栗は、そうした形容では言い表せない存在になりつつある。それがいったい何であるのか、彼の軌跡を追いながら考えてみたいと思う。


 小栗忠順は、文政10年(1827年)、幕臣小栗忠高の子として江戸駿河台邸に生まれた。小栗家は徳川家康の生前からの家臣である安祥(あんじょう)譜代で、上野(こうづけ、群馬)、下野(しもつけ、栃木)、上総(かずさ、千葉県南部)、下総(しもうさ、千葉県北部)など七ヵ村に、合わせて2500石の禄高を持つ、小大名にも匹敵する旗本で、徳川幕府重臣であった。
 
 駿河台の小栗家の敷地内には、当時一流の朱子学者で進歩的な思想を理解する安積艮斎(あさかごんざい)が私塾を開いていた。安積艮斎は59才のときには幕府の最高学府である昌平黌(しょうへいこう)の教授となり、アメリカのペリー提督やロシアのプチャーチン中将の軍艦が日本に来航した時に、各国の国書を翻訳するなど、まさに時代を代表する知識人であった。艮斎(ごんさい)のもとには日本全国から門人が集まり、その数なんと2,282人にものぼる。そのなかには、栗本鋤雲(くりもとじょうん)、木村芥舟(きむらかいしゅう)、秋月悌次郎(あきづきていじろう)などの幕臣から、吉田松陰、高杉晋作、清河八郎などの倒幕派、さらには岩崎弥太郎など明治期の実業家までが含まれていた。自宅の敷地内に艮斎の塾があるという恵まれた環境のなか、6歳になった忠順は当然のごとくにこの塾で学びはじめた。彼の鋭利とも言える知力、大胆な構想力の基礎はここで鍛えられたのである。

 忠順(ただまさ)は、学問ばかりではなく、剣術、柔術、砲術、馬術、弓術などを修得し、まさに文武両道に秀でた青年へと成長していった。天保14年3月(1843年)17歳には、将軍家慶(いえよし)に初御目見得し、将軍直属の親衛隊となっている。
 忠順が生まれて初登城するまでの15~16年の間に、世界の情勢は一変していた。この間、イギリスは、日本をのぞくアジア諸国を、その強大な武力でほとんど侵しつくしていた。忠順が誕生したころ発令された「異国船打払令」も、もはや意味をなさず、アヘン戦争で清が惨敗したことを受け、天保13年(1842年)には廃止された。

 嘉永元年(1848年)には、アメリカで金鉱が発見された。世に言うゴールド・ラッシュが起こり、西海岸への人々の大移動で瞬く間に小さな田舎町サンフランシスコが大都会へと変貌していった。このことがアメリカ人の関心を西、すなわち極東へ向かわせることになり、大西洋時代から太平洋時代へと移る世界史上の大きな転機となったのである。
 同じころ、南下の機会を窺っていた大国ロシアが動き始め、1852年にモンテネグロ公国を支援する形でオスマン帝国(トルコ)に侵入しようとした。世界覇権を完成させようとしていたイギリスはロシアの動きを警戒し、極東への進行が鈍ることになった。その後、イギリスはフランス、トルコと同盟を結び1854年3月にロシアに宣戦布告している。いわゆるクリミア戦争の勃発である。
 世界進出に後れをとっていたアメリカはこの機を千万一隅のチャンスと踏み、太平洋の西端、極東日本への使者を送りだした。嘉永5年(1852年)、米東海岸のノーフォーク軍港を4隻の“黒船”が出港し、日本へと向かった。船団を率いるのは、もちろん、提督マシュー・カルブレイス・ペリーである。

 1853年7月8日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは浦賀に到着した。ペリーは開国を迫るフィルモア大統領親書を会見した浦賀奉行の戸田伊豆守・井戸石見守に手渡したが、幕府は返答に1年の猶予を要求したため、1年後の再来航を告げ、7月17日には早くも江戸を離れている。ペリーの来航以来、日本沿岸には異国船が度重なり出没し、幕府は海浜警備の強化を図る。忠順は浜御殿の警備役を任ぜられた。この時、小栗忠順(ただまさ)は27歳になっていた。

 ペリーは1年どころか、わずか半年後の嘉永7年(1854年)1月に再び来航する。これに慌てたのは時の老中首座、阿部正弘である。すでに開国やむなしと腹を決めていた阿部であったが、幕府内の根回しで国論を開国に向けることを目論むも、いかんせん、ペリーの戻るのが早すぎた。幕内の論調は開国に向くどころか、攘夷論に傾いていたのである。
 ペリーは1月15日、初代大統領ワシントンの誕生日を祝うという名目で、艦船の空砲17発を江戸湾に轟かせた。この轟音に江戸の庶民はどよめいた。正弘は、狂信的な攘夷論者が、過激な行動に走り、危険な状態に至ることを恐れ、ついに「日米和親条約」(神奈川条約)締結に踏み切ることを決意した。嘉永7年(1854年)3月3日、日本の開国が遂になった。この年の12月、日本はロシアとの間にも和親条約を締結する。

 日本開国の翌年、安政2年(1855年)に29歳を迎えた忠順の父が病死し、忠順は家督を継いだ。いよいよ幕府の表舞台へ登ることになる。進歩的な安積艮斎(あさかごんさい)の塾に学んだ忠順は、もとより海外貿易の必要性を唱える開明派であった。阿部正弘のもとでそれなりのお役を任ぜられたのも、忠順が開明派であることも影響していたと思われる。ますます攘夷論が高まるなか、忠順は一貫して開国思想を推進していく。このことが後の大老、井伊直弼の目にとまり、忠順の運命がいよいよ大きく動き出すことになる。

 
 余談であるが、小栗忠順(ただまさ)が学んだ安積艮斎(あさかごんさい)は、1791(寛政3)年に、陸奥国安積郡郡山(現・福島県郡山市)の神職である安藤家に生まれている。本名は安藤重信で、「安積艮斎」は号である。幼少から学問に興味を持っていた艮斎は、11才ころまで約6年間、二本松藩の寺子屋に学んでいたが、17歳にして学問の道を志し江戸へ出奔している。艮斎と忠順の因縁は、福島贔屓で、賊軍に所縁ある私には興味深いことである。

 諸外国の事情に明るく、海外貿易の必要性を説いた艮斎が幕府の最高学府昌平黌(しょうへいこう)の教授を務めていることと、阿部正弘や堀田正睦などの見識ある老中が開明派として国家の難局をコントロールしたことを合わせて考えると、小栗忠順が当時の治世者の持つべき見識を引き継いでいったことが分かる。もっとも、この間の世界情勢を正視すれば、「攘夷」などという考えがどこから生まれてくるのか、現代からみれば全く理解に苦しむ。事実、明治維新政府は「攘夷」など真っ先にかなぐり捨てている。黒船来航の折、吉田松陰が無謀にも米船に乗りこみ、米国への渡航を哀願するが、幕府に引き渡されるという珍事が起きている。松陰は艮斎からいったい何を学んでいたのだろうか。
 「攘夷」か「開国」かという戦略の差は、つまるところ、時の治世者と諸藩では情報の質と量において差があったこと、そして最も重要な情報の分析力に大きな差があったことよるのかもしれない。阿部正弘の的確な状況判断と現実的な対応、そして長期的なビジョンはもっと評価されてしかるべきものであろう。海防掛の設置による外交・国防政策やそこでの筒井政憲、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、ジョン万次郎、岩瀬忠震などの大胆な人事登用、長崎海軍伝習所の創設、西洋砲術の推進、「大船建造の禁」緩和など幕政改革(安政の改革)は、小栗忠順を筆頭とする世界水準の幕末テクノクラートを育成する基盤となったのである。


<関 連>

 小栗上野介忠順の炯眼
  -①プロローグ
  -②抜擢
  -③ネゴシエーター
  -④シナリオ
  -⑤使節団
  -⑥センサー
  -⑦対馬
  -⑧盟友
  -⑨土蔵附き売家
  -⑩ヨコスカ
  -⑪兵庫開港
  -⑫三井  
  -⑬兵庫商社
  -⑭江戸開城
  -⑮抹殺
  -⑯プロデューサー
  -⑰ノブレス・オブリージュ




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