慶応4年(1868年)2月28日、奉行を罷免された小栗は、住み慣れた駿河台の屋敷を出て、上州の権田村(ごんだむら。現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ向かった。小栗は幕府から帰農許可を得ており、野に下ることを決意していたのである。
旗本という身分をあっさりと捨て、帰農を選んだ小栗。このときの彼の心境をどの理解したらよいのか、非常に興味深い。ここには小栗の人間性を理解する鍵がある、と私は考えている。そのことは次回で掘り下げたい。
江戸から権田村に同道したのは、妻の道子、母の邦子、養子の又一(またいち)、養女の鉞子(よきこ)の4人と、用人や従者、人足たちであった。3月1日に権田村に到着した一行は、地元の山寺、東善寺を仮宿とした。
翌2日、隣村である三ノ倉に暴徒が集結し、騒ぎを起こしているとの通報があった。暴徒の大将は長州の浪人・金井壮助といい、「世直し」を掲げて近隣の農民を巻き込み気勢をあげていた。集まった暴徒の数は2000人に達し、権田村に入った小栗を征伐すると息巻いていた。
小栗が江戸を発つ少し前の2月22日、徳川慶喜は上野寛永寺に居を移し謹慎の意を表した。これを機に関東の諸藩は、一気に官軍へなびいた。こうした情勢のなかで、幕府の公金、数十万両を勘定奉行であった小栗が持ち出したという噂が流れ、それが上州まで広がり、みなが小栗を狙ったのである。糸井重里氏が進行するテレビ番組で有名となった「徳川埋蔵金」伝説のルーツがここにある。幕府財政を神業的にギリギリで凌いできた小栗にとっては失笑もので、墓の中で笑っているに違いない。そんな大金が幕末の幕府の御蔵にあれば、小栗も、もっと楽をできたことだろう。
さて、暴徒を諌めるために小栗は、権田村生まれの家臣・大井磯十郎を三ノ倉に行かせた。話し合いでことを納めようと50両を差し出したが、暴徒たちは納得せず交渉は決裂した。
4日の早朝、暴徒たち2000人余りが小栗を襲撃するために権田村へ向かった。これに対し小栗は、フランス式訓練を受けた歩兵10数名と村の若者百人ばかりで東善寺の周辺を固めた。そして、小栗は養子の又一と部下の歩兵20余名を率いて、暴徒の本陣椿名神社に先制攻撃を仕掛けた。訓練を受けた歩兵の力は絶大で、数十名で暴徒2000余りをあっさりと蹴散らし、倒した20人の首を東善寺の石段に並べた。この戦況に仰天した三ノ倉など近隣村の名主らが、この夜に詫び状を持参し、捕虜となったものたちを引き取りに来た。用人たちに歩兵訓練を受けさせていたことで、小栗は難を乗り越えることができた。しかし、暴徒による襲撃は、薩長軍が仕組んだ巧妙な罠であることに小栗は気付かずにいた。
暴徒の反乱を鎮圧した小栗は、それから2か月余りを権田村で生活する。この地に永住を決めた小栗は、地元の里山・観音山に住居の建設を始めた。それとともに山頂を開墾し、畑と水田を開く作業も開始した。母屋が完成すれば、家臣たちの住まいを建て、塾も開いて村の若者たちに学問を教えることも、小栗は構想していた。
4月22日、先の小栗襲撃に加わった近隣の村の名主たちは、小栗が7千の大軍を打ち破る兵力を以ち朝廷に対する反逆の意図をもっていると、東山道軍(薩長軍)総督府に対して訴えた。これを受けて総督府は、高崎、安中、吉井の三藩に小栗誅戮(ちゅうりく)の厳命を下した。東山道軍総督は岩倉具定(岩倉具視の子)で、参謀には板垣大助(土佐)、伊地知正治(薩摩)がいた。
4月29日、高崎、安中、吉井の三藩の兵800余りが三ノ倉に集結した。話せば分かると踏んでいた小栗は、二人の家臣を三ノ倉に派遣し、交戦する意志のないことを伝えたが、功を奏さず、翌日(閏4月1日)、高崎藩の宮部八三郎らが兵を率いて東善寺を包囲した。この時小栗は、観音山は自分が所持し、雨露を凌ぐ家作をなしただけで要害などなく、異心はないので、十分に見聞し、その旨を総督府に伝えてほしい、と説明した。さらに大砲や小銃も使者に手渡し抵抗する意志のないことを示した。観音山を視察した宮部らは謀反の企てはないと判断したが、養子の又一に高崎まで出頭すること求めた。
又一が高崎に向かったあと、三ノ倉に再び三藩の兵が終結しているという不穏な情報が小栗の耳には入る。小栗は権田村の名主たちと相談した結果、会津への脱出を決意する。信頼のおける村年寄の中島三佐衛門の案内で小栗一家は諏訪山麓を抜け、湯治場の亀沢に入った。ここへ権田村の名主・佐藤藤七が駆け込んできた。藤七によれば、東山道軍の先鋒・原保太郎に捕縛された藤七は小栗の脱出を吐かされ、小栗が戻らなければ村を焼き払うと脅され、小栗を連れ戻すために追ってきた、というのである。
ぎりぎりの選択を迫られた小栗は、人質になっている養子又一らのこともあり、家族を三佐衛門に託し、わずかな望みを頼りに村に引き返すことを決断する。閏4月5日の早朝、東善寺に戻った小栗を原保太郎ら東山道軍の兵1000人余りで取り囲み、小栗と二人の家臣を捕縛した。
翌6日の朝、小栗らは烏川の水沼河原に引き出される。何の取り調べもなく、切腹の名誉もなく、小栗は家臣とともに斬首された。小栗忠順、享年42歳であった。翌7日、小栗の養子又一もまた、高崎城内で罪なくして斬首された。小栗と又一、主従の首は、非情にも梟首(きょうしゅ)された。
小栗は、何故、殺されなければならなかったのか。
これは、あまりにも重いテーマである。戊辰戦争とは何であったのか、そしてこの戦争では、いったいどんな悲劇が繰り広げられたのか、小栗の死もまた、この戦禍のひとつである。戊辰戦争の悲劇は、戦後140年を経た現在(いま)も十分に総括されたとはいえない。そのことを思うと息苦しさを覚えるが、それは前稿「賊軍の轍」をご参照いただきたい。
小栗は“抹殺”された。直接、手を下したのは、東山道軍総督府である。この東山道軍総督府は、薩長軍のなかにおいても、もっとも過激で戦闘的な部隊であった。彼らが手を下したものには、赤報隊を率いた相楽総三(さがらそうぞう)や、新撰組局長・近藤勇などがいる。相楽総三は、西郷の指示のもとで、江戸薩摩邸の浪士隊長として江戸市中を撹乱し、鳥羽伏見の戦いを誘引した官軍の功労者である。東山道軍の先鋒まで務めた相楽とその部隊を、総督府は“偽官軍”のレッテルを貼り殺戮する。相楽らは、東征の進軍道程で、弾薬や食糧を自力調達しなければならず、そのために<年貢の半減>を宿泊地毎に掲げていった。薩長政権の首をしめかねない年貢半減を無きものとするために、総督府は相楽らを処断した。東山道軍総督府は、必要とあらば味方をも切り捨てる冷酷さをもつ集団であった。
4月25日には近藤勇が板橋の東山道軍総督府本陣において斬首された。近藤の斬首を指示した総督府大軍監の香川敬三に対し、近藤勇を逮捕した東山道軍斥候の有馬藤太は「朝廷に鉾を向けたわけでもなく、神妙に官軍に降った近藤を斬首するとは何事か」と難詰(なんきつ)している。
血に飢えていたとしか言いようがない東山道軍総督府。小栗が捕縛された相手は、その東山道軍総督府であった。それが、小栗の斬首の一つの要因であったことは間違いない。しかし、小栗惨殺には、それ以上に大きな力が働いていた。
総督府大軍監の香川敬三に小栗斬首を指示したのは、総督府の参謀・板垣退助と言われている。しかし板垣は土佐藩である。徳川幕臣の大御所の一人である小栗を、取り調べることもなく、即座に斬首するだけの権限を持たされていたかといえば、それは疑問である。やはり薩長の参謀の意志が働いたと見るべきだろう。
小栗は幕末における日本の国家的財政危機を様々な改革で切り抜けた。小栗がいなければ、幕府はもっとはやい時期に瓦解していた可能性が高い。彼の財政手腕は、それほど抜きんでていたのである。
1.外国商館の前貸支配から日本商人を脱出させるための金融の道を開拓
江戸市中荷物引当御貸付金システム
2.幕府の行政改革を断行
役人の給与体系の合理化、幕府内の儀礼廃止や服装簡略化など
役人による汚職の厳禁、ワイロの追放など
3.新財源の開拓
酒類、奢侈品への課税、富家に対する所得税の徴収
日本初の兌換紙幣発行と、それに呼応する外債の募集
これらの改革による幕府の基盤の安定化を、桂小五郎(木戸孝允)は、「いまや関東の政令一新し、兵馬の制頗(すこぶ)る見るべきものあり」と、刮目していた。
自らの改革によって捻出した財源を背景に、小栗は日本の近代化を強力に推し進めた。小栗が構想した近代化プランには次のようなものがある。
1.滝野川火薬製造所および反射炉、小石川大砲製作場の建設
2.騎歩砲“三兵”の編制、陸軍教育の充実
3.日本初の株式会社(兵庫商社)の設立、中央銀行の設立計画
4.商工会議所の前身(諸式会所)の設立
5.外国語専門学校(フランス語学校)の設立
6.新聞発行計画
7.ガス灯設置の建議
8.郵便、電信事業の建議
9.鉄道(江戸―横浜間)建設の提唱
10.郡県政度の提唱
11.森林保護の提唱
近代化構想の一部は、小栗が存命中に実現したものもあるが、その多くは明治新政府に受け継がれていく。
小栗の抜き出ていた炯眼(けいがん)を、後年、大隈重信は次のように語った。
「小栗は謀殺されるべき運命にあった。なぜなら、明治新政府による日本の近代化構想は、そっくり小栗のそれを模倣したものだったからである」
小栗抹殺に働いた“大きな力”を、これほど端的に表す言葉は他にはない。すべてを語りつくしている。
しかし、私には微かな疑問が残っている。
薩長・官軍は、旧幕軍の士が野に下ることを、ある程度容認していた。無論、会津や庄内藩などは別な問題であるが。また、勝や榎本を明治新政府は登用している。まして、木戸は小栗の手腕を認めていた。新政府としては小栗をいかようにでも活用する道があったはずである。あるいは必要な人材であったはずである。それにも関らず官軍は、小栗を抹殺した。何故なのか。
官軍は確かに小栗を恐れてはいた。しかし、それ以上に小栗の力を知り、彼を恐れていたものがいる。そのものは、小栗がフランスと強い絆を持つことを何よりも恐れていた。あるいはその絆を何よりも邪魔なものと感じていた。小栗が新政権に入れば、おのずとフランスとの関係が残る。それを嫌がるものとは、言うまでもない、イギルス公使パークスである。小栗の宿命の敵、そして、西郷の江戸総攻撃を中止させた戊辰戦争の陰のコンダクター、パークスこそが、小栗を抹殺した本当の「力」であったのではないか、それが私の直感である。
どんな力が働いたにせよ、小栗は抹殺された。物理的に抹殺されただけではなく、彼の為した業績もまた、小栗の名とともに人々の記憶から抹殺された。抹殺の日から141年たった今日現在、明治維新政府に罪なく殺された小栗の名誉は、いまだ回復されていない。
<関 連>
小栗上野介忠順の炯眼
-①プロローグ
-②抜擢
-③ネゴシエーター
-④シナリオ
-⑤使節団
-⑥センサー
-⑦対馬
-⑧盟友
-⑨土蔵附き売家
-⑩ヨコスカ
-⑪兵庫開港
-⑫三井
-⑬兵庫商社
-⑭江戸開城
-⑮抹殺
-⑯プロデューサー
-⑰ノブレス・オブリージュ
旗本という身分をあっさりと捨て、帰農を選んだ小栗。このときの彼の心境をどの理解したらよいのか、非常に興味深い。ここには小栗の人間性を理解する鍵がある、と私は考えている。そのことは次回で掘り下げたい。
江戸から権田村に同道したのは、妻の道子、母の邦子、養子の又一(またいち)、養女の鉞子(よきこ)の4人と、用人や従者、人足たちであった。3月1日に権田村に到着した一行は、地元の山寺、東善寺を仮宿とした。
翌2日、隣村である三ノ倉に暴徒が集結し、騒ぎを起こしているとの通報があった。暴徒の大将は長州の浪人・金井壮助といい、「世直し」を掲げて近隣の農民を巻き込み気勢をあげていた。集まった暴徒の数は2000人に達し、権田村に入った小栗を征伐すると息巻いていた。
小栗が江戸を発つ少し前の2月22日、徳川慶喜は上野寛永寺に居を移し謹慎の意を表した。これを機に関東の諸藩は、一気に官軍へなびいた。こうした情勢のなかで、幕府の公金、数十万両を勘定奉行であった小栗が持ち出したという噂が流れ、それが上州まで広がり、みなが小栗を狙ったのである。糸井重里氏が進行するテレビ番組で有名となった「徳川埋蔵金」伝説のルーツがここにある。幕府財政を神業的にギリギリで凌いできた小栗にとっては失笑もので、墓の中で笑っているに違いない。そんな大金が幕末の幕府の御蔵にあれば、小栗も、もっと楽をできたことだろう。
さて、暴徒を諌めるために小栗は、権田村生まれの家臣・大井磯十郎を三ノ倉に行かせた。話し合いでことを納めようと50両を差し出したが、暴徒たちは納得せず交渉は決裂した。
4日の早朝、暴徒たち2000人余りが小栗を襲撃するために権田村へ向かった。これに対し小栗は、フランス式訓練を受けた歩兵10数名と村の若者百人ばかりで東善寺の周辺を固めた。そして、小栗は養子の又一と部下の歩兵20余名を率いて、暴徒の本陣椿名神社に先制攻撃を仕掛けた。訓練を受けた歩兵の力は絶大で、数十名で暴徒2000余りをあっさりと蹴散らし、倒した20人の首を東善寺の石段に並べた。この戦況に仰天した三ノ倉など近隣村の名主らが、この夜に詫び状を持参し、捕虜となったものたちを引き取りに来た。用人たちに歩兵訓練を受けさせていたことで、小栗は難を乗り越えることができた。しかし、暴徒による襲撃は、薩長軍が仕組んだ巧妙な罠であることに小栗は気付かずにいた。
暴徒の反乱を鎮圧した小栗は、それから2か月余りを権田村で生活する。この地に永住を決めた小栗は、地元の里山・観音山に住居の建設を始めた。それとともに山頂を開墾し、畑と水田を開く作業も開始した。母屋が完成すれば、家臣たちの住まいを建て、塾も開いて村の若者たちに学問を教えることも、小栗は構想していた。
4月22日、先の小栗襲撃に加わった近隣の村の名主たちは、小栗が7千の大軍を打ち破る兵力を以ち朝廷に対する反逆の意図をもっていると、東山道軍(薩長軍)総督府に対して訴えた。これを受けて総督府は、高崎、安中、吉井の三藩に小栗誅戮(ちゅうりく)の厳命を下した。東山道軍総督は岩倉具定(岩倉具視の子)で、参謀には板垣大助(土佐)、伊地知正治(薩摩)がいた。
4月29日、高崎、安中、吉井の三藩の兵800余りが三ノ倉に集結した。話せば分かると踏んでいた小栗は、二人の家臣を三ノ倉に派遣し、交戦する意志のないことを伝えたが、功を奏さず、翌日(閏4月1日)、高崎藩の宮部八三郎らが兵を率いて東善寺を包囲した。この時小栗は、観音山は自分が所持し、雨露を凌ぐ家作をなしただけで要害などなく、異心はないので、十分に見聞し、その旨を総督府に伝えてほしい、と説明した。さらに大砲や小銃も使者に手渡し抵抗する意志のないことを示した。観音山を視察した宮部らは謀反の企てはないと判断したが、養子の又一に高崎まで出頭すること求めた。
又一が高崎に向かったあと、三ノ倉に再び三藩の兵が終結しているという不穏な情報が小栗の耳には入る。小栗は権田村の名主たちと相談した結果、会津への脱出を決意する。信頼のおける村年寄の中島三佐衛門の案内で小栗一家は諏訪山麓を抜け、湯治場の亀沢に入った。ここへ権田村の名主・佐藤藤七が駆け込んできた。藤七によれば、東山道軍の先鋒・原保太郎に捕縛された藤七は小栗の脱出を吐かされ、小栗が戻らなければ村を焼き払うと脅され、小栗を連れ戻すために追ってきた、というのである。
ぎりぎりの選択を迫られた小栗は、人質になっている養子又一らのこともあり、家族を三佐衛門に託し、わずかな望みを頼りに村に引き返すことを決断する。閏4月5日の早朝、東善寺に戻った小栗を原保太郎ら東山道軍の兵1000人余りで取り囲み、小栗と二人の家臣を捕縛した。
翌6日の朝、小栗らは烏川の水沼河原に引き出される。何の取り調べもなく、切腹の名誉もなく、小栗は家臣とともに斬首された。小栗忠順、享年42歳であった。翌7日、小栗の養子又一もまた、高崎城内で罪なくして斬首された。小栗と又一、主従の首は、非情にも梟首(きょうしゅ)された。
小栗は、何故、殺されなければならなかったのか。
これは、あまりにも重いテーマである。戊辰戦争とは何であったのか、そしてこの戦争では、いったいどんな悲劇が繰り広げられたのか、小栗の死もまた、この戦禍のひとつである。戊辰戦争の悲劇は、戦後140年を経た現在(いま)も十分に総括されたとはいえない。そのことを思うと息苦しさを覚えるが、それは前稿「賊軍の轍」をご参照いただきたい。
小栗は“抹殺”された。直接、手を下したのは、東山道軍総督府である。この東山道軍総督府は、薩長軍のなかにおいても、もっとも過激で戦闘的な部隊であった。彼らが手を下したものには、赤報隊を率いた相楽総三(さがらそうぞう)や、新撰組局長・近藤勇などがいる。相楽総三は、西郷の指示のもとで、江戸薩摩邸の浪士隊長として江戸市中を撹乱し、鳥羽伏見の戦いを誘引した官軍の功労者である。東山道軍の先鋒まで務めた相楽とその部隊を、総督府は“偽官軍”のレッテルを貼り殺戮する。相楽らは、東征の進軍道程で、弾薬や食糧を自力調達しなければならず、そのために<年貢の半減>を宿泊地毎に掲げていった。薩長政権の首をしめかねない年貢半減を無きものとするために、総督府は相楽らを処断した。東山道軍総督府は、必要とあらば味方をも切り捨てる冷酷さをもつ集団であった。
4月25日には近藤勇が板橋の東山道軍総督府本陣において斬首された。近藤の斬首を指示した総督府大軍監の香川敬三に対し、近藤勇を逮捕した東山道軍斥候の有馬藤太は「朝廷に鉾を向けたわけでもなく、神妙に官軍に降った近藤を斬首するとは何事か」と難詰(なんきつ)している。
血に飢えていたとしか言いようがない東山道軍総督府。小栗が捕縛された相手は、その東山道軍総督府であった。それが、小栗の斬首の一つの要因であったことは間違いない。しかし、小栗惨殺には、それ以上に大きな力が働いていた。
総督府大軍監の香川敬三に小栗斬首を指示したのは、総督府の参謀・板垣退助と言われている。しかし板垣は土佐藩である。徳川幕臣の大御所の一人である小栗を、取り調べることもなく、即座に斬首するだけの権限を持たされていたかといえば、それは疑問である。やはり薩長の参謀の意志が働いたと見るべきだろう。
小栗は幕末における日本の国家的財政危機を様々な改革で切り抜けた。小栗がいなければ、幕府はもっとはやい時期に瓦解していた可能性が高い。彼の財政手腕は、それほど抜きんでていたのである。
1.外国商館の前貸支配から日本商人を脱出させるための金融の道を開拓
江戸市中荷物引当御貸付金システム
2.幕府の行政改革を断行
役人の給与体系の合理化、幕府内の儀礼廃止や服装簡略化など
役人による汚職の厳禁、ワイロの追放など
3.新財源の開拓
酒類、奢侈品への課税、富家に対する所得税の徴収
日本初の兌換紙幣発行と、それに呼応する外債の募集
これらの改革による幕府の基盤の安定化を、桂小五郎(木戸孝允)は、「いまや関東の政令一新し、兵馬の制頗(すこぶ)る見るべきものあり」と、刮目していた。
自らの改革によって捻出した財源を背景に、小栗は日本の近代化を強力に推し進めた。小栗が構想した近代化プランには次のようなものがある。
1.滝野川火薬製造所および反射炉、小石川大砲製作場の建設
2.騎歩砲“三兵”の編制、陸軍教育の充実
3.日本初の株式会社(兵庫商社)の設立、中央銀行の設立計画
4.商工会議所の前身(諸式会所)の設立
5.外国語専門学校(フランス語学校)の設立
6.新聞発行計画
7.ガス灯設置の建議
8.郵便、電信事業の建議
9.鉄道(江戸―横浜間)建設の提唱
10.郡県政度の提唱
11.森林保護の提唱
近代化構想の一部は、小栗が存命中に実現したものもあるが、その多くは明治新政府に受け継がれていく。
小栗の抜き出ていた炯眼(けいがん)を、後年、大隈重信は次のように語った。
「小栗は謀殺されるべき運命にあった。なぜなら、明治新政府による日本の近代化構想は、そっくり小栗のそれを模倣したものだったからである」
小栗抹殺に働いた“大きな力”を、これほど端的に表す言葉は他にはない。すべてを語りつくしている。
しかし、私には微かな疑問が残っている。
薩長・官軍は、旧幕軍の士が野に下ることを、ある程度容認していた。無論、会津や庄内藩などは別な問題であるが。また、勝や榎本を明治新政府は登用している。まして、木戸は小栗の手腕を認めていた。新政府としては小栗をいかようにでも活用する道があったはずである。あるいは必要な人材であったはずである。それにも関らず官軍は、小栗を抹殺した。何故なのか。
官軍は確かに小栗を恐れてはいた。しかし、それ以上に小栗の力を知り、彼を恐れていたものがいる。そのものは、小栗がフランスと強い絆を持つことを何よりも恐れていた。あるいはその絆を何よりも邪魔なものと感じていた。小栗が新政権に入れば、おのずとフランスとの関係が残る。それを嫌がるものとは、言うまでもない、イギルス公使パークスである。小栗の宿命の敵、そして、西郷の江戸総攻撃を中止させた戊辰戦争の陰のコンダクター、パークスこそが、小栗を抹殺した本当の「力」であったのではないか、それが私の直感である。
どんな力が働いたにせよ、小栗は抹殺された。物理的に抹殺されただけではなく、彼の為した業績もまた、小栗の名とともに人々の記憶から抹殺された。抹殺の日から141年たった今日現在、明治維新政府に罪なく殺された小栗の名誉は、いまだ回復されていない。
<関 連>
小栗上野介忠順の炯眼
-①プロローグ
-②抜擢
-③ネゴシエーター
-④シナリオ
-⑤使節団
-⑥センサー
-⑦対馬
-⑧盟友
-⑨土蔵附き売家
-⑩ヨコスカ
-⑪兵庫開港
-⑫三井
-⑬兵庫商社
-⑭江戸開城
-⑮抹殺
-⑯プロデューサー
-⑰ノブレス・オブリージュ






