高原千尋の暗中模索

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。

飛騨路2009(一)

2009年08月02日 | 追想・旅路
 今年も、一足早く夏休みを取得した。うだる暑さに辟易している読者に、涼しさを少しでも感じていただければ幸甚である。

 昨年はめずらしく海外に出たが、今年は2年ぶりに飛騨を訪ねた。家族で行くのは7度目ほどになる。もう正確な回数はよくわからない。いつも決まった常宿を訪ねているので、まるで実家に“帰る”ような気分である。常宿は、岐阜の奥飛騨温泉郷(平湯、福地、新平湯、栃尾、新穂高からなる)のひとつ、福地温泉(ふくじおんせん)にある一軒である。温泉郷は標高1,000mに位置し、夏でもわりと涼しい。雨が降れば、寒いくらいで、それなりの準備が必要である。


 現地に着いた7月19日は、かなりの雨が降っていた。関東甲信は梅雨が明けたことになっていたが、岐阜はこの時点で、まだ梅雨明けしていないということであった。実際、紫陽花が満開で、東京とはひと月ほど、季節がずれている感じである。


 写真は、常宿の周りの風景だが、雨雲が低く垂れこめ、生い茂る緑が小雨に煙る様もまた、旅情を誘っていた。

 2年ぶりの訪問で楽しみにしていたことのひとつが、地元の陶芸家が打つそばであった。2年前の本ブログ記事で、そのそばをつぎのように紹介した。

 「昨年食した手打ちの蕎麦が絶品で、どうしてももう一度食べたいと1年間待ち続けていた。昨年は昼食をとった後に寄ったために少ししか食べていなかったので今年は大盛り1人前と普通盛り2人前を注文した。娘はあまり食欲がないと見えてほとんど手をつけなかった。しめしめと私は大盛りのついでに娘の分まで平らげてしまった。涙が出るほど美味しい!蕎麦がこれほど美味しいということをこのときまで知らずに生きてきたのかと嘆くほど美味しい。常宿の食事もさることながら、この蕎麦のためだけでも東京からはるばる訪ねる価値がある」

 今度は2年間待ち続けて、そのそばを注文した。


 そばと同時に、つまみとして注文した地野菜と鮎の天麩羅が先に出された。まずは小鮎の天麩羅を頬張る。なんと、これが得も言われぬ美味。期待して注文したわけではなかったが、その美味しさは、まさにサプライズであった。


 いよいよ、待ちかねたそば。娘が注文したとろろそばがまず出された。2年前同様に、娘が残すことを見込んで大盛りを注文すると、これが本当に大盛りで、「こんなに食べられるの?」というほどの量。ざるそばも大盛りを注文していたので、不安が過ぎった。しかし、2年も待ったのだから、足りないと後悔するよりは、多すぎとこぼすほうがいい。
 ということで、ざるそばも出されて、思う存分、いただいた。
 ところが、今年のそばは、残念ながら、いまひとつであった。2年前の感動が湧かないのだ。そばのまえに、天麩羅を食したために味覚が変わったのか。あるいは、雨のせいで、水分量の調整に失敗したのか。そばは湿度によって、こねる際の水分量を微妙に調整しなければならず、これがなかなか難しい。
 
 店内でくつろいでいると、どうも様子がいつもと違う。お客が続々と入ってくる。まるで、都内の繁盛店のような賑わいである。このお店は、どちらかと言えば茶房で、食事はおまけみたいなものであった。古い民家を改造した母屋は、真夏でも涼やかで、旅の途中に立ち寄った客がまばらに散見する、静かさが持ち味の避暑処だ。それが、これまでと違い、順番待ちのお客が待つ、という有様である。陶芸家の御夫婦も、いらだちが隠せない雰囲気なのだ。

 これはもしや、マスコミが取り上げたのではないだろうか。あるいは、近くの大型旅館が紹介しているのかもしれない。そうしたことがあると一見さんが、一気に押し寄せることがよくある。そうすると、オペレーションが粗くならざるを得ない。そして本来の味や、サービスの品質が低下する。その結果、常連客が失望し、離れていく。さらに一見さんは、ブームとともに引いていく。最悪の悪循環である。
 この店には、そんなことになって欲しくない、と祈る思いである。次回も、迷わず訪問するつもりでいる。



 写真は、お店のなか、陶芸品を展示している部屋。奥に見えるのが、食事処。20~30畳ほどの座敷に大きなテーブルが数台置かれている。静かに流れるジャズが、妙に旧家に馴染んでいる。


 茶房の外観。この家は、明和8年(1771年)から天明8年(1788年)ころに、当時の農民指導者のひとり、本郷村善九郎の生家を移築(ただし、火災により再建)したものと、店内に記されている。
 その頃、飛騨国では大原騒動と呼ばれる大規模な一揆が続いた。騒動は、明和、安永、天明の三つに分けられるが、その時の飛騨郡代・大原彦四郎紹正(12代)、大原亀五郎正純(13代)の名をとり、大原騒動と総称する。なかでも安永の騒動では、農民3千人が高山代官所に押しかけ、年貢上納延期などを嘆願する大規模な騒ぎとなった。これを鎮圧できないと判断した大原代官は江戸表へ急報、これを受け幕府は飛騨の近隣藩へ緊急出動を命じた。
 幕府側は2000の軍勢をもって一揆を鎮圧した。このとき、農民側には49人の死者が出、300人以上が捕らえられた。この結果、飛騨一宮水無神社神主4人が磔(はりつけ)。善九郎ら7人が獄門、さらに数名が打ち首、入獄死12人、流島17人、追放罰金1,000人以上と多くの農民が罰せられている。

 こうした飛騨の歴史のひとこまを、この茶房では、垣間見ることができる。江戸時代、天領であった飛騨の光と影。何度もこの地を訪れているわりには、歴史をきちんと理解していないことを深く反省。飛騨の最奥地にある福地温泉。最奥地だからこそ、歴史の影の痕跡が残っているのかもしれない。


 茶房に並ぶ車の列。さらに2台ほどが筆者の立つ後ろに並んでいた。こんなに車が並ぶところをかつて見たことがない。善九郎もこの“騒動”に、墓の中で苦笑いしているかもしれない。



 いよいよ常宿に到着。宿の名前は、今度も伏せるとしよう。変に人気がでてほしくない。そっとしておいてほしい静かな宿なのである。宿の主も、そう思っていると勝手に想像している。実際、この宿では積極的な宣伝は行っていない。そんなことをしなくても、私のような常連がたくさんついている。なかには京都から70~80回も通っている常連さんがいると、この宿を手伝う主の親戚のおじいちゃんから聞いたことがある。いまでは、その回数もさらに伸びているようである。




 写真は、宿の玄関を入ったところにある囲炉裏。特段の演出はないが、ざっと30畳ほどもあるこの場所は、宿の静けさを感じさせ、来訪者をほっとさせてくれる。
 この宿は、さきの茶房、本郷村善九郎の生家と同様に、奥飛騨の古い民家を移築して、故郷の家を再現している。こころを鎮めさせてくれる飛騨の建築文化が、いつの間にか、来るもののこころを捉えてしまうのかもしれない。飛騨建築のシンボルである、高山の日下部民藝館(国指定重要文化財)と相通ずるものを、この宿にあらためて感じた。


写真は日下部民藝館

 この稿を書くにあたって、司馬遼太郎の『街道をゆく29-飛騨紀行』を読んでみた。そのなかで飛騨の建築について、司馬遼太郎は次のように記している。

 「飛騨で堪能できるのは、なんといっても民家である。
 よく紹介される高山の市中の日下部家(くさかべけ)などのような大型のものにかぎらず、ただの民家で十分美しい。
 まず、勾配(こうばい)が浅く、厚味を感じさせない軽快な屋根がいい。たとえ本体が新建材になっていようとも、この屋根を持つかぎり、飛騨ぶりのよさをあらわしている。
 飛騨人はよほどこの屋根を好むらしく、相当な規模の家でも一棟の屋根を持つだけである。いりくませて、建物の顔(ファサード)だけでごまかそうとはしない。
 家ぜんたいのかたちは矩形(くけい)だが、その単純さを他の工夫でみごとにふせいでいる。
 本体は、羊カンを二棹(ふたさお)積みかさねて(二階だてが多い)飛騨屋根をかぶせたような形と思えばいい。
 (中略)
 飛騨の民家は、柱(主として角材)をたくさん使う。主たる柱や、上屋(うわや)柱、側(がわ)柱、間(ま)柱その他、他の土地の大工さんからみれば過剰と思われるほどにつかっている。
 それにともなって、梁とか差物(さしもの)、桁などの水平材もたっぷりつかわれる。
むろん、地震とか積雪などに耐えるための強度を高めるためである」(司馬遼太郎『街道をゆく29』より)


 司馬さんは飛騨を数度しか訪れていない。それにもかかわらず飛騨文化の本質を見事に見抜いていた。私は何度訪ねても、その本質が理解できなかった。なぜ、飛騨に魅せられてきたのか、司馬さんの書を読み、ストンと腑に落ちた。私が飛騨に親和感を感じてきた大きな要因のひとつが、民家にあったのだ。それが、常宿であり、茶房である。そして重要文化財日下部家である。すべて、飛騨の古民家であるのだ。
 実は私は福地温泉にある他の宿にも、かなり宿泊している。また、平湯温泉や、新穂高温泉などにも投宿してきた。これら奥飛騨温泉郷の各宿では、新潟の古民家を移築して使っているところがなぜか多い。新潟の古民家もまた、ダイナミックな梁などが見事なのだが、そうした宿に再び泊まろうという気が不思議と起こらない。そのことは旅の後半で再び触れるつもりだ。いずれにせよ、「飛騨で堪能できるのは、なんといっても民家である」という司馬さんの指摘は、私のもやもやとしていた飛騨観を見事に整理してくれたのである。





 最後に、常宿の晩餐を少しだけ紹介しておこう。連泊一日目のメインは、飛騨牛、岩名の串焼き、そして、鴨鍋などである。食材は、地のものが基本である。山菜などは、宿の周辺で賄える。これら最高の食材の味をさらに引き立てるのが、水だ。そしてなんといっても、この水で炊いたごはんの味は他と比較しようもない。最高の贅沢である。米は特別なものを使ってはいないという。それにもかかわらず、これほどうまい飯はめったに食せない。まさに、地の利。
旅の初日から、話が長くなってしまった。稿を改めるとしよう。


<関 連>
飛騨路(その一)
飛騨路(その二)
飛騨路(その三)
飛騨路(その四)

飛騨路2009(一)
飛騨路2009(二)
飛騨路2009(三)

夏休み 2010-①
夏休み 2010-②
夏休み 2010-③



ジャンル:
ウェブログ
コメント (1)   この記事についてブログを書く
« 温故知新-三井のドン(5) | トップ | 植草一秀氏の収監について(... »
最近の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (植草氏支援者)
2009-09-06 10:06:46
旧家に、囲炉裏に、飛騨牛、それにジャズが此処にいてもよく似合います。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

追想・旅路」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事